かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【書評】 『フィニ(現代美術第8巻)』(講談社、1993年)

2013年03月25日 | 読書

          

フィニーの絵のそこで
姉の筆端がふいに降り
有毒なイエローをたっぷりと付けたのだ
羽毛の仮面を被り
黒猫を抱きながら同性愛を語る
年齢不詳のこの女流画家は
姉の憧れだったから
夜空から急襲された
………
だから
あなたの道を念入りに避け
暗色の重い衣をつけ
良き書と良き戒めに
添うように生きてきたわけだ
つまり地上を這う者となり果てている
フィ二ーの黒い画集はレモンと一緒に
冷蔵庫におしこめたが
いつ取りだしても
画面の女たちは目覚めて動くだろう
              河津聖恵「姉の筆端」部分 [1]

 『河津聖恵詩集』を読んでいたら、フィニー(フィニ、Leonor Fini)の名前を見つけた。フィニの絵の実物は見たことがないが、画集は以前に仙台市立図書館から借りて見たことがあったのだが、河津聖恵の詩に触発されて、もう1度フィニの絵を見たいと思いたったのである。

 レオノール・フィニという画家をまったく知らなかった頃、フィニの絵が好きだという女性がいて、それから長い年月を経て、市立図書館で画集の棚の前でそのことを思い出した。そんなふうにして借り出して眺めたというのが、私の最初にしてすべてのフィニ経験である。そのときの印象を正直に言えば、「想像過多な女性性」は私の受容能力を超えた向こう側にあるようだ、というようなものだった。

 あらためて画集を開いてみると、いくつかの作品でその「想像過多」はいわば豊かな幻想性ということでもあって、思わず知らず惹かれているのである。

          
          
《世界の果て》 1949年、画布・油彩、35.025.0cm、個人蔵 [図版1]。

 《世界の果て》は、画集の一番はじめに掲載されている。坂上桂子の作品解説 [p.93] によれば、「生命の死を思わせる沼」の中にいるのは紛れもなくフィニ自身であり、腐敗と死の世界が描かれていると言う。しかし、腐臭(死臭)に満ちた沼はまた再生の場でもある、とも言う。たしかに意志に満ちた女性の表情は、再生の世界へと突き抜けていこうとする決意に満ちていると解釈できるのかもしれない。しかし、女性であるから「生」を産みだすなどと安易な女性性をフィニに見ることは(たぶん)できない。私にはどうしてもフィニは少なくともジェンダーとしての女性性を拒否しているようにしか見えないのだから。

 幻想的な絵としては、《夜の水飲み場》 [図版13] という絵もあって、水飲み場というよりも沐浴場であるような水場に上半身を浮かべる裸の女性たちがいて、みな目を瞑っている。それはある種の快楽のけだるさに浸っているように見えるし、中の一人は死の瞬間のストップモーションのような表情を浮かべている。水面には花々が浮かんでいるようであり、空中にも闇の中から花々が析出してきているのではないかと思えるような幻想的な色彩が浮かび上がる。輪郭を曖昧にした描法で、幻想性が極めて高い。良い絵である。

 幻想性という点からいえば、《ゾルニガ》と《エオラ》という作品もきわめて特徴的な作品である。

          
            左:《ゾルニガ》 1959年、画布・油彩、80.0×25.0cm、個人蔵 [図版16]。
            右:《エオラ》 1959年、画布・油彩、80.0×25.0cm、個人蔵 [図版15]。

 ゾルニガもエオラも私にはまったく未知の固有名詞(たぶん)だが、この二枚の絵は紛れもなく人物画である。色調はきわめて魅力的、つまり絵画として限定的に見る限り、美しいということに何の異存もないのだが、人間の身体をここまで変容させうることの不思議にうたれる。この絵を見ていると、人間身体を画家はどのような構造としてとらえているのか、そもそも構造や器官としてとらえているのか、という疑問にとらえられる。たとえば、ピカソが人間の身体をきわめて構造的にとらえ得たことと考え合わせれば、この人間身体の変容はフィニ固有のものと言うしかない。

 《ゾルニガ》と《エオラ》を見ていて、アール・ブリュットの絵を思い出した。

          
            
左:エヴァ・ドゥロポヴァ(Eva Droppova, 1893-1950, Brazil) 
              《無題》、フェルトペン、色鉛筆、紙、45×17cm、1992年。 [2]
            右:ジャンヌ・トリピエ(Jeanne Tripier, 1869-1944, France) 
              《無題》、絹刺繍、布、40.5×9.5cm。 [3]

 上の絵は、女性作家であることやそれぞれの部分が有機的な柔らかさと広がりで連続している特徴から小出由紀子によって「女たちの有機形態」というカテゴリーに分類された作品である。これもまた人間の身体、特定されない(あるいは画家自身)人物の像である。これらの絵もまた、私の想像力を遙かに超えていて、驚かされるのである。

 アール・ブリュットの絵は、いわば私たちのような凡庸な人間が思い描くような人物身体の構造や機能の脱構築の結果としてあるのだと思う。心的作業としての器官や構造の解体ないしは機能の無化を通じて描かれているとしか思えないのである。それこそ「生の芸術」における表象の素過程はそういうものではなかろうか。
 一方、フィニの身体像における心的作業は、メタモルフォーゼである。あくまでもおのれの美意識を意識的に駆使して身体の変容を試みているのだと思う。フィニの画業から窺われることは、フィニはセックスとしての女性とセクシュアリティにおける女性(それがヘテロであろうとホモであろうと)というものを受容していながらジェンダーとしての女性を拒否しているように見える。
 《ゾルニガ》と《エオラ》における変容は、女性身体の美しさをセクシュアリティとしての女性性の果てへ向かわせる作業としてあるのだと思える。だからこそ、私などの想像力の域をどこかで超えてしまっているのだと感じるのだ、きっと。

   
       左:《錠》 1965年、画布・油彩、116.0×81.0cm、個人蔵 [図版20]。
       右:《ヘリオドラ》 1964年、画布・油彩、116.0×81.0cm、個人蔵 [図版19]。

 《錠》や《ヘリオドラ》のように女性の身体を様式的に描く場合もある。意匠化された構図は、ロートレックのポスター画にもあったように思う(ウイーンのレオポルド美術館(Lepold Museum)で3階分のフロアーびっしりのロートレックのポスター展を見たことがあるが、さすがにうんざりしてしまって、量的過大さとは逆にどうにも記憶が希薄になってしまったのだが)。また、ミュシャ(ムハ)ほど装飾性はないが、モティーフはよく似ている。ただし、ロートレックやミュシャとは女性身体の印象がまったく異なる。有り体に言えば、ロートレックとミュシャの女性身体は、男性である私にとってきわめてわかりやすい表現であるのに対して、フィニのそれは私の見知らぬ女性性の余剰を隠している、そんな印象を強く受ける。

 さて、冒頭の河津聖恵の詩にもあるように無類の猫好きとしてのフィニの絵もピックアップしておこう。

       
         《日曜日の午後》 1980年、画布・油彩、126.0×94.0cm、個人蔵 [図版39]。

 「80歳にならんとする老女流画家」は14匹の猫と暮らしていた、と俳優の中尾彬が画集の中で書いている [p. 69]。世に「猫派」と「犬派」がいるらしいが、フィニは典型的な猫派のようである。といっても、私にはなぜ猫派と犬派とに分類できるのかがよく理解できない。私は人生で三匹目の犬を飼っているが、生涯で最初のペットは小学三年生の頃の猫であった。大人になってからもずっと猫も飼いたかったのだが、妻も義母も猫が嫌いだというので実現していない。いくら聞いても、妻が猫を嫌う理由を私は理解できないままでいるが、押し切るほどの実力もない。私にはどうしても猫と犬を好き嫌いの評価の場に並べうるという論理(感情?)構造がわからないのである。好き嫌いというのは、所詮そういう無惨なものではあるらしい。

 とまれ、《日曜日の午後》である。猫は、フィニの中で美の主題であり続けた女性身体と同等の大きさを与えられている。猫は凛とした姿勢でこちらを向いているが、女たちは思い思いの姿勢で日曜日の午後を猫に寄り添い、猫に癒されながらくつろいでいる。猫好きの世界観ではある。

 河津聖恵の詩に触発されて、フィニの画集を眺めなおした。きっかけを与えてくれた詩人は、「夢」と「旅」の詩人、時として「夢の旅」の詩人であると私は思っている。「世界」を見通すために旅をし、必要とあらば、夢のなかの旅で世界を見に行くのである。そして、それは見る行為自体を自己存在のようにすることであるらしいのだ。

〈みる〉というのは、行為ではなく現象なのだ。わたし
にとってもっとも本質的な気象なのだ。わたしは淡々し
い裸体。夜へとむかう雲。または灰の欲望。なにものこ
したくなどない。くずれてみよう、もっとくずれてみよ
う。
                  河津聖恵 「Front」部分 [4]

それがわかるのは
わたしが"よこたわる人"だからだ
                  河津聖恵 「シークレット・ガーデン」部分 [5]

 「見る人」と「横たわる人」、まるでそのままを絵にしたようなフィニの絵がある。《彼女は遠くを見つめる》である。

 
  
《彼女は遠くを見つめる》 1989年、画布・油彩、81.0×116.0cm、個人蔵 [図版49]。

 詩人は世界としての遠景を見ている。当然のことながら、世界を確かなものとして見続ける先には、世界を構成する(融合する、あるいは反抗する)自己へと還帰する視線が生まれてくるにちがいない。
 ジェンダーとしての女性性を拒否していることを象徴するような坊主頭の女性が遠くを見やると、そこにはセクシャリティとしての女性性に祝福されているかのような女性が愛する猫とともに横たわっているではないか。遠くを見つめる人は、横たわる人でもある。そのような絵である。

 ただし、フィニの「遠く」は世界ではない。


[1] 『河津聖恵詩集(現代詩文庫183)』(思潮社、2006年) p. 10-11。

[2] 小出由紀子(編著)『アール・ブリュット パッション・アンド・アクション』 (求龍堂、2008年)p. 83。
[3] 同上、p. 85。
[4] 『河津聖恵詩集(現代詩文庫183)』(思潮社、2006年) p. 72。
[5] 同上、p. 89。



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