ホクトマンのアドブログ

アドベンチャープログラムを愛するすべての人と、そうでもないすべての人へ。ひとりごと、今思うこと、泣き言、楽しか

僕はビリヤードはしないが、ハスラーになる。

2015-01-21 | 雑念
長年、そして長距離お世話になった愛車


ジーノ君とのお別れ

そして新しい友人

ハスラー君との初対面

正直試乗もせずに衝動買いに近い購入だったので、初めてハンドルを握る時は震えた。そして初ドライブは近くの農業公園?へ。目的地はどこでもいい、ただ走りたい。そんな衝動がアクセルを踏む。

何kmか走らせると落ち着いてきて車内の機能や乗り心地、目線の高さ、グリップ感などが感じられてくる。

さ、最高だっ!
最高クラスだ!
軽のグレードを大幅に超えている。
いや、肥え過ぎている、
否!
超え過ぎている。

僕には身の余る機能のオンパレードなのだ。
特に戸惑うのが《アイドリングストップ》。何と信号待ちなどの停止時にエンジンが止まるのだ。噂に聞いていたが、コレがあの「壊れちまったんじゃねぇの?」ってやつだ。ブレーキペダルを少し話すとエンジンが再始動する感覚は慣れるまで違和感しかないだろう。

次に《エコチャージ》。バッテリーが2つあり、通常の鉛バッテリー(古い車にも載っている)やつとリチウム電池バッテリー。そのバッテリーが何やら活躍してくれるそうなのだが、減速時にモーターを回す時の負荷に慣れない。自転車のライト点灯に使うあのモーターの負荷の重さが車の減速時にのしかかってくる。今までのジーノ君は特にスムーズな減速をしてきたから慣れない。

後は良いのか悪いのかフル装備である。《バックモニター》は確かに便利である。《ナビ》はiPhoneがあるからと不必要を訴えてきたけど、純正のナビは確かに車との相性がいいのは確かである。

《勝手にブレーキシステム(名称は別にある)》はぶつかりそうになったら勝手にブレーキをかけてくるというもの。ちょっと怖い。いつブレーキかかるかとビクビクしてしまう。まぁ信頼してないのだが、関係ない時に働かないことを祈る。

《ヒルディセントコントロール》は今流行りの「昼顔」のような浮気防止システム、では無い。下り坂などで凍結が疑われ、シフトをL、そして自らボタンを押した時に時速7kmでブレーキを踏まなくても低速定速で運行するシステムである。「昼顔システム」としてもあながち間違ってはいない。浮気も低速でゆっくり帰宅するシステムだというし。雪山の過酷なところには行かないが、もしまた四国お遍路八十八箇所を巡ることになったら必須の機能である。

あとコレいいな!の機能は、《シートヒーター》運転席があったかくなる機能は暖房無しで十分なくらいあったかい。お尻の下から温められるのは心地良すぎる。

そしてなんてったって《Bluetooth音響システム》。今までラジオのFMトランスミッターを何個買い換えてきただろうか。音の悪さ、雑音、地域による周波数の修正。それが全てクリア、音もクリアなのである。

僕のiPhone6と繋げばハンズフリーで電話も出来る。試しに「時報」に車のタッチパネルからかけてみたら、車のスピーカーから時報が流れるのだよ。凄いべ!僕のiPhone4と繋げば、確実に音楽プレイヤーとしての機能どころか、遮音性とスピーカーの良さで音が半端ないのである。試しに先日初めて借りたレディガガを大音量で聴いてみたらすごいハイテンションになってしまった。

まだまだ書ききれない細かい収納や機能に宝探しのようなワクワク感もあるのだか、確実な「自慢」になるのでこの辺にする。今後はドライブ実況「ハッスルハスラーの旅日記」と題して動画配信もしていこうと考えている。

本日はお祓いに行ってきます。






最後の日。

2015-01-20 | 雑念
車を廃車にする。

近くのガソリンスタンドで見つけた看板「お車1万円で引き取ります」に誘われて問い合わせる。内容を聞くに良さそうなので見積もりに行った。

すると1万円は乗用車の場合で軽車両は下がるという。聞いていると5000円位。へぇ、買い取ってくれるんだ。廃車にするとはお金を払って処理してもらうものだと考えていた。後はサービスで下取りしてもらってタダで引き取ってもらうのだと。実際、車を購入した販売店でさえ手数料がかかると言っていた。

それがいくらか返ってくるって言うんだから大逆転である。そこで交渉である。次の車には値段交渉の段階の成り行きによりETCは付いていない。ジーノ君に付いていたETCは取り外し取り置いてある。取り付けには手間賃として1万円前後でセットアップが必要である。自分でセットアップできれば良いのだが、特別な機材がいるようだ。

5000円のキャッシュバックは要らないからETCを付けてくれ!と持ち出した。すると快諾。ジーノ君は単に下取りされて行くのではなく、ETCという遺品と取り付け手間賃まで稼ぎ出した。

次の車への引き継ぎは最高の流れを作り出してくれた。さすがジーノ君だ。最後まで仕事をしてくれた。任意保険も今日の13:00まで。この後、ジーノ君が海外に行くのか、分解されて部品売りされるのか、はたまたプレス機でペチャンコなのかは定かじゃないが、僕との歴史も幕を閉じる。


お疲れさん。

厄年に何を思う。

2015-01-19 | 雑念
兵庫県神戸市須磨区はかつて僕が住んでいた場所である。小学校3年生の夏休みまでは団地に住んでいた。その時の記憶は断片というよりももう砂の一粒位の微かな感覚しかない。

僕はもう今年41歳。数えで42歳の本厄である。兵庫県には幾つか厄神がある。そのひとつ加古川にあるその名も厄神駅の近く宗佐厄神八幡神社に足を運んだ。石垣は新しく、幟も立ち並び、本殿近くの幾つかの建物は朱色に塗り直されていた。まだ新しい匂いも立ち込めるその神社は相当な人出が予想されるのだが、その日に限って人がまばらで駐車場もスカスカである。

変だなと思いながら新しい石段を上がって手を洗う。あたり新しい神社にはご利益が薄いような気がする筆者にとって嫌な予感は当たるのだが、今回も窓口で聞くと神主?は出張中だと言う。神主が留守?そんな神社があるのだろうか?神はボッチで鎮座するのか?巫女はひょうきんにくじ引きを売っている。

賽銭箱に虚しく小銭を放り込んで、トボトボ新しい石段を帰る時に思った。もう厄年は始まっているのだと。そして人の混雑が更に予想される神戸市須磨区の多井畑厄神へと車を走らせた。

名谷駅にはPATIOというショッピングモールがある。須磨に住んでいた時は時々連れてきてもらったその当時の子供目線からは遊園地のように見えていたその広場や売り場は薄汚れて30年という月日を残酷にこびり付かせている。

そのPATIOの有料駐車場に車を置き、バスでもって多井畑厄神を目指す。厄神さんの祭りとあって臨時バスが走っていた。名谷駅から多井畑厄神を、往復するだけのノンストップバスだ。大体10~15分で片道を繋ぐ。バスターミナルの地面にビニルテープで簡易の行列「場ミリ」を行って、此方が最後尾になりますとやっている。

バスは数台がピストンするから待っているとすぐに次がやってきて、210円を握り先頭の立ち位置を確保する。最近のバスのフロントガラスの大きさと車高の低さに驚きながら、ほぼ運転席と同じ位置で過ぎ去る景色を楽しんだ。

程なく目的地に到着すると帰りのバスを待つ行列も目に入ってきて近い将来にこの行列に並ぶのかとゲンナリを一旦経験しながら歩いていく。人ごみについていくと左右の狭い通路にベビーカステラだりんご飴だといつもの屋台群が押し寄せてくる。

その狭い通路と短い屋台ブースを抜けると長い階段が見えてくる。後で聞くと150以上の石段がそびえ立つ。アラフォの僕にはまだ脅威ではないその角度も次の厄年60の頃には少し強く押し迫ってくるのかもしれないなどと想像しながら一歩一歩を噛みしめる。

人混みも十日恵比寿程ではないにしろ賑わいは気持ちを高ぶらせる。中にはテンションの上がった政治家が先の選挙の御礼参りなのか有権者じゃない僕にも御礼を述べていた。県議会か市議会かよく分からない貧相な顔とファッションで手を振っている。

やっとの階段を登りお参りの行列を横目に「厄除け祈祷受付」に行く。さすがにお賽銭の100倍以上の額を払わなければならないその受付では人は少なくなる。とはいえ0では無い。1度に20名程度の団体として完全交代制で名前を呼び揚げご祈祷を行う。確かにフルネームと年齢が呼ばれたことを確認してそそくさとその御前を立ち去ると次の団体が入ってくる。完全なるベルトコンベア祈祷である。

名前を呼び揚げられたら少し嬉しい。この感情がどこかに似ているなぁと思い起こすと、ETである。ディズニーにあるアトラクションであるETが名前を呼んでくれる時の感情である。

その祈祷するリズムに少し吹き出しそうになった。一気に20名程度を名前と年齢を浪曲のような口調で読み上げていくから何やら滑稽で微笑ましい。爺さんとも言えるほどの年齢で一生懸命な姿は楽しいのだ。

そして無事に祈祷は終わり、そそくさとバスに乗り込んで帰路につく。高くつくなぁと思う。お札としゃもじと何某かを袋に入れて渡される。何やら去年のお札もあったような気がする。あれはお役御免で神社に奉納しなければならぬ。普通に燃えるゴミとして出したらいかんのだ。

僕は来年まで厄だ。また来年も何かしらの厄除けをするのだろう。日本人って一体なんなんだろう。神楽を奉納する巫女さんたちの太鼓や笛の音が微かに響いていた。


オシャレな街フランスの群衆。

2015-01-18 | 雑念
フランスでのテロに対するデモ

表現の自由は大切である
その後に「しかし」は付かない

これが風刺画の作者の言い分だ。

僕ならばこうである。

表現の自由は大切である。
表現とはカッコいいものである。

カッコ良くないといけないと思うのだ。
今回の風刺画は表現の自由としてご自由に掲載下さい。でも新聞を購入する側として、そんな表現しかできない新聞を手に取るのが「下衆」である。

消費者が下衆になればカッコ悪い表現が増える。

それがオシャレの最前線フランスで生き残っているというのが解せない。オシャレの反動なのか。

日本のテレビも同じである。
視聴者がひな壇芸人を視聴するからひな壇芸人番組が増える。

ニュースも毎日殺人や虐待や爪楊枝少年の続報を待ち望むから、番組もそんな構成になる。

人が思った通りの世界になっている。

テロは卑怯で犯罪だ。
それには断固反対なのだが、
その前に多くの人々が住む世界での一定の配慮は必要だと思う。

あえて「表現の自由」だと言い訳して、他の宗教を批判する行為は表現者の地位を下げる行為に思えてしまう。

カッコ悪いのだ。

もし新聞紙上でテロを批判したいのならば、真正面からコラムを書いて全世界に問えばいい。

漫画という表現の傘で守られて、人が落とし穴にハマるのを物陰から覗き見て楽しむような行為は表現者の取るべき行動ではない。

表現の自由を主張するならば、その責任をも持ち合わせるべきだと思う。だからフランスのデモの対象はテロリストだけじゃなく、表現の自由に対する勘違いしている新聞社の両者に向けるべきだと思う。

オシャレな街は、オシャレに敏感であってほしい。

震災から20年。震災に我思う。

2015-01-17 | 雑念
SNSなどに自撮りを多く載せる人は
ナルシスト
だそうですな。編集して載せるのは更に強いナルシストだそうです。

僕はYouTubeに自撮りを載せ、編集もしているから相当なナルシストということになる。

しかし世の中全員ナルシストである。
程度の違いこそあれ、生きているということはナルシストであるということでもある。

「自分が嫌い」などと言っている人も結局は好きである。心と体のバランスが崩れてしまうことはある。

本当は自分のことが好きだと考えているのに、精神的なストレスから逆の考えが生まれて自分を傷つけてしまう。

それは不幸だ。

ということで

幸せになるということは、自分を大切に生きるということだ。

一番辛いことは、自分にウソをつく時だという。

自分にウソをつかず、自分を大切に生きる。

うん、コレだね。
これだと思う。
最近、世の為人の為、絆やコミュニケーション、つながり、社会的意義、生きがい
などとなにやら「自分と社会」「自分と他人」などの「他者との関係」がもてはやされているのように感じる。

確かに、大きな震災で「人の温かみを知りました」と“絆”とやらがもてはやされた。

しかし根本には自分にウソをついて人と関わることの苦しみがあると思う。

孤独が好きな人もいる。

人や社会との関わり度合いも人それぞれだ。
絆とやらには個人的な感情を無視したファシズム的な威圧感がある。

阪神淡路大震災から20年が経った。

人は何を学んだんだろう。
防災の意識?
人の温かみ?
震災の恐ろしさ?

テレビでは気持ち悪いくらい震災の特別番組が流される。

「何が言いたいんだろうね?」

人類の遺伝子がBluetoothで繋がっていて、
誰かが感じたことが情報としてやりとりされ、
次の進化の参考になる。

Bluetoothじゃないにしろ、
情報の伝達は確かに起こっている。
それも地域性に違いがあることから、
ある程度の距離までしかやり取りが行われない情報もあると考える。

だとすると今、世の中一般的に感じていることは次の世代に繋がっていくということだ。

だからこそ、だからこそ!
「自分を大切にすべし」なのだ。
自分の中に過去からの情報が山のように蓄積されている。そして先代からのメッセージが溢れている。

そして今の自分が感じている違和感は先代からの記憶との違い。

震災。

かつてから人間が何千回何万回と遭遇してきた当たり前の出来事。

当たり前の大惨事。
当たり前の被害。
当たり前なのだ。

地球という塊が如何に不安定で脆い土地であるかという証拠である。だって宙に浮いているんだもんな。

そもそも生き物が住んでいるのが奇跡であって、地球さんからしたら小さなカビが繁殖しているってなもんだろう。

僕は当たり前の大惨事は、遺伝子の方に組み込んで、脳の記憶に留めておく必要は無いと考えます。他に大切なことへメモリーを使いたいと思います、以上!