横浜のほほん・続

植物や生き物を見ながら歩いて感じたことなどを中心に日々を綴る。

カエデの種類

2021-11-06 08:54:38 | 日記



御薬園の心字池を巡る庭園の一部に福島県で見られるカエデの種類を揃えているところがあった。

それぞれの葉の形を取ってみた。
カエデの葉は子供の手を「モミジのように可愛い」などと言うように深く何裂かしているのが普通が、
種類によっては切れ込みが浅かったり、チドリノキのように切れ込まないのもある。



  


イロハモミジ                 カジカエデ




  

ウリカエデ                 ウリハダカエデ





  

カジカエデ                 カラコギカエデ




  

クロビイタヤ                 ハナノキ




 

コハウチワカエデ                 ハウチワカエデ




 

ヒトツバカエデ                  ホソエカエデ






ミツデカエデ





日本全体では30種以上のカエデがあるらしいが、そのうち13種類の木が紅葉を待っていた。
今ごろはどれも紅く輝いていることだろう。






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御薬園

2021-11-05 06:15:52 | 日記



会津若松・鶴ヶ城から2kmほど離れた所に御薬園(おやくえん)がある。

1400年代に会津領主葦名盛久が「この地は霊地だ」として別荘を建てた。
1600年代に保科正之(会津松平家の藩祖)が荒れていた別荘を再建した。
1670年、二代藩主・保科正経は園内に各種の薬草を栽培した。
三代藩主・松平正容が園内に朝鮮人参を植え民間にも奨励して御薬園と呼ばれるようになった。







1696年、大改修により借景を取り入れた庭園となった。
左手に見える楽寿亭もその時に建てられたようだ。

楽寿亭は藩主や重役たちが、納涼、茶会、密議をする時などに用いられた。







池の周りをぐるーっと回ってくると、モミやコウヤマキに並んで、枝を張った木が目立った。







ヒイラギだ。推定樹齢は500年だそうだ。







庭園の横には薬用植物標本園があって、薬効のあるさまざまな草木が植えられている。







いま花が咲いているのはツワブキだった。







それぞれの植物に説明板があって、薬用部位と薬効などが記されている。
ツワブキは葉が腫物、切傷、湿疹に効果があるということだ。







ナタマメに大きな豆ができていて驚いた。
歯槽膿漏などに効くそうだ。



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混群が来る季節

2021-11-04 06:17:07 | 日記



窓の向こうにシジュウカラが見えた。久しぶりだ。

ほかにも何羽かいるようなので庭に出てみた。







フェンスにはシジュウカラじゃないのが止まっていた。







エナガだ。
エナガも群れで来るのだけどシジュウカラに比べると落ち着がなく動きまわる。
すぐにキンモクセイなどの木の枝のどこかへ消えた。







山桜の木の上の方で動く小鳥がたくさん見えた。







メジロだ。シジュウカラなどと混群で来ていたようだが、そのうち飛び去ってしまった。

これから冬にかけて時々やって来ることだろう。



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鶴ヶ城

2021-11-03 06:08:32 | 日記



会津若松に行けば鶴ヶ城は外せない。

立派な堀に水を満々とためている。







あいにくの小雨にけぶって始まった紅葉の向こうに天守が見えた。

鶴ヶ城は630年ほど前に造られ正式には若松城というそうだ。
鶴ヶ城は難攻不落の名城として知られ、戊辰戦争でも新政府軍の猛攻に耐えたのち開城したそうだ。







その後、明治政府の方針で天守を初め建造物が全て取り壊され、
現在の天守は昭和40年に鉄筋コンクリ-ト造りにより外観復興されたものだ。







天守の東南に「荒城の月」の歌碑があった。
「荒城の月」は土井晩翠が明治31年に作った詞で 明治34年に滝廉太郎が作曲した。







この歌碑は教え子たちにより昭和27年に建立され除幕式には土井晩翠も出席したそうだ。







歌碑の脇の石段を上がると本丸と二の丸の間に内堀が見える。







この赤い橋は本丸と二の丸をつなぐ廊下橋と呼ばれている。
初期には橋の往来を外から見られないように屋根と壁がついていたそうだ。







二の丸を過ぎて三の丸跡んい入ると博物館脇に銅像が立っていた。
新島(旧姓・山本)八重だ。テレビドラマ「八重の桜」のモデルとしても有名だ。

鶴ヶ城・籠城戦でも銃や刀を持って奮戦したが敗れてしまい、新政府軍の入城を切歯扼腕して見た。
その時に詠んだとされる「明日の夜は 何国の誰か ながむらん  なれし御城に 残す月影」。

その後、兄の縁で京都の女紅場(女学校)に赴任し、同志社英学校を設立した新島襄と結婚する。
同志社英学校は現在の同志社大学で、私の子供の頃から京都では知らぬ者のない学園だ。
しかし新島襄夫人が会津の人だとは、当時は全く知らなかった。





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情緒ある建物たち

2021-11-01 06:01:43 | 日記



2日目は会津若松をぐるっと回った。
まちなか周遊バスがあって乗り降り自由で1日利用できる。







これまでは鶴ヶ城と飯盛山ぐらいしか見たことがないので、ほかの場所も見ることにした。

まず大町通りと七日町通りの交差するところで降りた。
交差点の角に見える会津西洋館は大正時代に郡山銀行として建てられたものだそうだ。

会津藩の城下町として敵が攻めにくいように交差点が筋違いになっている。
城などの枡形と同じような考え方だろう。








この交差点から七日町駅に向かう七日町通りは交通の要衝となる街道で、
会津城下の三分の一にあたる30軒もの旅籠屋があったそうだ。

明治大正に入っても経済や交通の要衝として賑わい、今もレトロな町並みが残っている。

この建物は白木屋本店。創業300年の会津塗りの製造販売店だ。
店内の資料館では会津塗の技法、製造工程、歴史などを知ることが出来る。







白木屋本店は大正3年に建設された建物だ、
その隣にある滝谷建設工業の建物は昭和2年に旧郡山橋本銀行若松支店として建設された。







七日町駅方面に行くのはパスして、大町通りを行くとすぐに黒い蔵造りの建物たちが見えた。

手前の車が止まっている建物は野口英世青春館と言い、元は明治17年建設の旧・會陽病院だ。
この病院は野口英世が火傷の手の手術を受け、医学に感動し書生として基礎を学んだ所だそうだ。
今は喫茶店と野口英世資料館になっている。







野口英世資料館の隣には大きな黒塗り蔵造りの建物・福西本店がある。
明治半ば頃から栄えた会津若松の大商人・福西家が100年ほど前に建てた蔵と商家だ。







通りに面した店蔵の脇を入ると座敷蔵、母屋蔵、塩蔵などいろんな建物が残っている。







国登録有形文化財になっているそうだ。


会津若松も京都と同じように先の戦争での空襲を免れたこともあり、
すぐ近くに明治大正時代の洋館と蔵造りが残されているのを見て感銘する。



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