横浜のほほん・続

植物や生き物を見ながら歩いて感じたことなどを中心に日々を綴る。

道沿いの花壇と

2021-11-12 06:07:11 | 日記



家の近くの環状4号線(海軍道路)。
桜並木は少し見栄えが悪くなったが、ところどころに小さな花壇が設けられている。
この日は近所の高校生であろうか花壇を耕したりして草花の植え付けをしていた。







そこから左手の方に入っていくと上瀬谷の畑地帯があって、野草の花が見られる。
少し前からコセンダングサがあちこちに咲いていてチョウたちに人気がある。
モンキチョウも常連の内だ。








数としてはウラナミシジミが多いように感じる。シジミチョウなので大きくはない。









翅を開くと紫色が鮮やかだ。







キタテハも多いが、こんな実ばかりの所で何をしているのだろう。







ヒメアカタテハもコセンダングサの花に来るのだけれど、今回は砂利の上で休んでいた。













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忘れていた蛾

2021-11-11 06:07:11 | 日記



このごろ近所の林の周りでウラギンシジミをたくさん見かける。







ムラサキツバメと違って集団越冬するわけではなけれど、
そろそろ越冬場所を探す頃なのだろうか。







ウラギンシジミを追っていると蛾の仲間がたくさんいるのに出会った。







中には交尾をしているのもいる。何という蛾だったかなあ。

家に帰って調べてみると、2年前に同じ所で見たミノウスバだった。

2年前のミノウスバクリック






次の日、もう一度しっかり観察しようと行ってみたら全く1頭もいなくなっていた。
どういう事情なのだろうか。またいつか観察機会が来るのを待とう。





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近所の小鳥

2021-11-10 06:01:33 | 日記



近所を歩いていると道路の上にいた何かがバイクに飛び移った。







ジョウビタキの雌だ。今シーズン初めてのお目見えだ。
どこかで雄の姿も見られるかな。







上瀬谷の方まで歩くと、今度は草地からフイと飛び上がってきたのがいる。







ホオジロ・・こちらも雌だ。
いつもは梢などで見るので、針金の上に止まっているのが面白かった。







更に歩くと向こうの高い木の上の方に小さな鳥がいるのが見えた。







予想通りモズだった。 こちらも雌。
この日は何故か雌の鳥ばかりに出会った。






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会津、角館、京都

2021-11-09 06:17:01 | 日記



会津若松市、御薬園に隣り合う一帯は天寧寺町と表記されていた。
その昔は門前町だったのだろう。
また東山温泉に隣接する広い範囲が会津若松市東山町大字石山天寧と呼ばれている。







その大字石山天寧に「曹洞宗・萬松山天寧寺」がある。
実は私の菩提寺は京都にあって、同じく「曹洞宗・萬松山天寧寺」という。

天寧寺というお寺は全国に8ヶ寺あり1ヶ寺を除き全て曹洞宗だ。
山号まで同じ「曹洞宗・萬松山天寧寺」は会津若松、京都のほかに秋田県仙北市角館にもある。







天寧寺・本堂。

萬松山天寧寺は室町時代の武将・蘆名 盛信により開山されて以来、蘆名氏の菩提寺として栄え、
最盛期には多数の末寺、僧堂、雲水を擁した大寺院であった。
天正17年(1589年)蘆名義広が伊達政宗に敗れ会津を追われ、この戦いで天寧寺も焼失した。
その時の住職が追われて京都に移り、本尊を安置する仏堂を建てたのが京都の萬松山天寧寺だ。
蘆名義広は関ヶ原の戦いの後、慶長7年(1602年)に父と共に秋田領に入り、角館を与えられた。
そして会津の天寧寺の末寺として角館に山号も寺号も同じ萬松山天寧寺を創建した。
その後、会津の天寧寺も再建されて、萬松山天寧寺が3ヶ所に存在することになったわけだ。









この天寧寺の裏手に近藤勇の墓がある。
近藤勇は戊辰戦争の時に新政府軍に捕らえられ東京・板橋で処刑された。
首は京都三条川原で晒されたが、何者かが持ち去り、この地に埋葬したという。

今回は、時間の都合で墓所に行くことを割愛した。


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飯盛山

2021-11-07 06:06:16 | 日記



会津若松観光の定番の一つ、白虎隊で知られる飯盛山。白虎隊戦士たちの墓所がある。
白虎隊は会津藩が幕末に設けた少年隊の一つで16~17歳の若年で編成された予備兵であった。
戊辰戦争の折に新政府軍に攻め込まれたため、白虎隊も前線に出て防戦することになる。
若松城の東、猪苗代湖に近い戸ノ口原の戦いで敗れ飯盛山に落ち延びた末、自刃した。








ほんの少し歩いて自刃の地とされる場所まで来ると小学生たちが記念写真を撮っていた。
この日は小学生から中学生まで修学旅行、遠足、社会見学などいろいろと来ていた。







小学生たちの並んでいたところへ下りると、白虎隊士の像があった。
背丈や顔つきはまだまだ子供のような隊士が手をかざして遠くを見ている。






森が見える辺りが鶴ヶ城。
今はさまざまな家が建ち並んでいるが、昔は城の周りに武家屋敷や城下町が見えたのだろう。

鶴ヶ城の天守は、ほぼ中央の森の中に見えるが詳細な様子は分らなかっただろう。
付近に煙が見えたので城が焼けたかと思って、もはやこれまでと隊士たちは潔く自刃をしたらしい。







うんとズーミングすると、たしかに鶴ヶ城が見える。

その方向に細長いものが立っているのはNHK・中波放送の送信アンテナらしい。








飯盛山は江戸時代には山全体が正宗寺というお寺の境内だったそうで、
これは寛政8年に観音堂として建立された円通三匝堂(えんつうさんそうどう)だ。
木造六角三層の形から会津さざえ堂として親しまれている。
中に入ると2重螺旋構造で上りと下りの参拝者がすれ違わないで通行できる。

白虎隊士たちも、この傍を通って自刃を決断する地に進んだのだろう。





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