”しんさん”のよもやま話

僕のビジネス感や社会現象に対する意見とかを趣味のヨットやゴルフ等の話を織り交ぜながらよもやま話的に発信します。

しんさんのよもやま話

2012年02月29日 20時53分30秒 | Weblog

2月29日(水)雨のち晴

こんばんわ。関東では雪が降ったそうですが、名古屋は比較的暖かで、少し春が近づいてきたような感じでした。この調子で暖かくなっていってほしいものです。

昨日、原発事故当時の関係者にヒアリングした結果の報告書が発表されました。詳しく読んだ訳ではありませんので、断片的な報道でしかありませんが原子力に対する危機意識が小学生レベルであり、知識はあっても知恵はなかったことが浮き彫りになったような気がしました。それから、それぞれの組織レベルで事故を小さく見せることばかりにとらわれて、最悪の事態に対する対処が何もできなかったのではないでしょうか?多分外からの支援が何もない中で現場だけがやきもきしていたような気がします。

あまり人のことは言えませんが、戦後70年近くも平和に過ごしてきた民族にとっては、どうして良いのかわからなかった結果とも言えます。戦後我々は高度成長の中で、恵まれた環境で知識レベルを上げる教育だけは行われてきましたが、知識を知恵に変える実践的な教育からどんどん遠ざかってしまったようです。知識はあっても、いつどこでどうしたら良いのかとなると、教科書を読むことぐらいしかできなかったような気がします。これは別に原子力に限ったことではありません。学校を出て知識はあっても、工場や企業の現場では何もできないのが現状ではないでしょうか。最近特にその傾向が強くなっているような気がします。それには技術が発達し過ぎて、高精度な、かつ微細加工を実現する高価な機械に頼らざるを得なくなってきた現実がさらに知識を知恵に変える実践的なトレーニングを阻んできたことも一因かもしれません。

我々の若かりし頃はそれでも鉱石ラジオを作ってみたり、ICを使ってオーディオアンプを作ったりすることができましたが、今では簡単に完成品を購入できるようになって、中身のブラックボックス化が進んだためなのでしょうか。昔読んだSF小説に、文明が進んだ未来社会で戦争が起こり地球のすべてが破壊された後生き残った人間は無知に戻り石器時代の原始的な生活をしている話がありました。原理原則を忘れ、高度な機械によって作られた完成品ばかりに頼った生活をしていると、すべてが破壊された時には何もできない人ばかりになってしまうと言うことなのでしょう。今僕もコンピュータの前に座ってブログを書いていますが、コンピュータがこの世から消えた途端、情報発信の手段がまったくなくなってしまいます。コンピュータの仕組みや使い方の知識はあるけれど、コンピュータを作ることはできません。
そんな時のために最低限20世紀初頭ぐらいに戻れるような原始的な科学原理や生活の知恵と言ったものは実践的な教育の中で残していくべきだと僕は思うのですが。

今日はサッカーの試合が男子、女子とあるのでゆっくり観戦します。それではまた。