9月27日(土)晴
再度高遠城址に行ってきました。今年7月に一度行っているのですが、日本百名城のスタンプを押して来なかったので再度の訪問になります。7月の時は木曽駒高原でのゴルフの後に立ち寄ったため百名城訪問の準備をせずに、下調べを兼ねての訪問になっていました。
今回は名古屋から伊那市行の名鉄高速バスが運行されていることを知ったことから急遽行くことになりました。一人旅なので伊那市まで行けば、高遠行きのバスもたくさんあるだろうと勝手に思い込んで行くことにしたのですが、高遠までのバスは土日はほとんど運行されておらず、大変でした。
伊那市駅前発11時37分発の高遠行きバスに乗る予定でしたが、高速バスが15分遅れて着いたため次のバスで行くことになってしまいました。JR伊那市駅は小さな駅でした。
幸い30分後にも高遠行きのバスがあったので、高遠までは12時半すぎに着き、高遠城址公園を目指して歩きます。天気は快晴ですが、7月に来た時より格段に快適。汗一つかかず、20分ほどで高遠城址公園前に到着。
少し歩くと立派な入口が
とりあえず、城址公園の中を通り抜け、百名城スタンプのある高遠歴史博物館を目指す。
ほとんど訪れる人のいない公園内を15分ほど歩くと博物館になります。
ここでやっと百名城スタンプを押し、そのまま博物館に入場。高遠は元々高遠氏が治めていたのですが戦国時代、武田信玄に屈し、その後武田勝頼の弟が治めるのですが、織田信長の軍勢に敗れ、その後は保科氏、鳥居氏、内藤氏と領主が変わって行き、明治を迎えることになります。この中で特に保科氏は徳川秀忠の息子(保科正之)を養子に迎え、後に山形、会津若松と転封し、会津若松の松平の基礎を築くことになりました。また高遠は保科正之が蕎麦好きであったことから信州蕎麦の発祥の地とも言われています。その他石仏作りの石工集団や高遠焼きでも知られた地でした。また7代将軍の頃、絵島・生島事件で遠投となった絵島の蟄居先としてもよく知られています。博物館に併設された絵島囲み屋敷も現存していました。写真は絵島の間です。
いろいろの書物を読んでみると、絵島は譜代の老中と新井ら新興の老中との勢力争いに利用された悲劇の奥女中のような気がします。世の人は面白おかしく生島との話に終始しているようですが・・・・。
もう午後2時近くなって、やっと昼飯です。高遠城址公園付近の食堂は桜の季節以外は閉鎖されているようだったので弁当を持参して正解でした。本丸跡にある太鼓櫓近くのベンチで一人寂しく弁当をパクつきました。しかしほとんど人がいないのもさびしいものです。
昼食を食べ終え、高遠駅(バス)まで歩きます。ここまでは予定通りでしたが、帰りのバスが午後3時半までありません。伊那市駅16時発の名古屋行には間に合いません。14時半のバスに間に合ったと思ったのですが、平日だけですと言われ、仕方なくタクシーで伊那市駅に行くことになってしまいました。もっとも少し早く着いたので伊那名物のローメンを食べようとしましたが、どの店も準備中の看板。結局何も食べられず、土産物屋でローメン買って、家で作って見ることにしました。スタンプはゲットできたけど伊那名物のローメンを食べれなかったことだけが悔やまれます。もし今度行く機会があれば、まず第一にローメンを食べてからにします。
ともあれこれで長野県に5つある百名城のうちスタンプがないのは松本城だけになりました。
一人旅は自由度があるものの、事前にしっかり調べなかったり、一人で食べる弁当は味気ないものです。百名城めぐりも最近近隣がなくなってくるに連れて一人旅が多くなりました。最初の頃の企画には10人近く来ていただきましたが、まぁ年齢と共にこうなるものなのでしょう。
さて明日はヨットのバッテリー周りの修理にマリーナに行きます。中々休まる暇はありません。