太平洋戦争下、吉田敦子さん(91)=神戸市兵庫区=は15歳の電話交換手だった。空襲時も通信を守るため「死んでも交換台を離れるな」と厳命された。家族のいない孤独な少女は、生きるため、懸命に働いた。
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当時、交換手は手作業で電話回線をつなぎ、その担い手は10~20代が中心だった。
軍からの報告や被害状況の連絡を守るため、空襲が起きても職場を離れることは許されなかったという。戦時中、神戸を含め全国各地で女性交換手が殉職した。
吉田さんは物心つく前に母を病気で失い、弟や妹も相次いで亡くなった。継母との折り合いが悪く、小学生で家を出て、1年ごとに親せき宅を転々とした。 頻繁に転校したためか、学校での思い出は少ない。当時女性でも就ける仕事を探し、神戸市内の電話局に就職した。
「11円50銭」と記憶する初任給は、仏壇に飾った。亡くなった母に見せたかった。
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空襲警報が鳴るたびに全身が緊張したが、ひそかな楽しみもあった。兵庫県外の交換手と仕事の合間に交わす会話だ。
「あら、鉛筆を落としちゃったわ」
電話の向こうから聞こえてきた標準語が新鮮で、吉田さんはおどけて繰り返しまねた。相手や同僚も笑ってくれた。
東北弁を何度も聞き直したり、「いつか会いたいね」と約束し合ったり。顔も知らない「友達」とのやりとりが、「癒やしだった」と振り返る。
就職してから約1年後、1945年3月17日の神戸空襲。宿直中に警報が鳴った。いつもとは違う激しさだった。「逃げよう」。先輩に手を引かれ、無我夢中で走った。バケツの水を頭から掛けられて外に避難した後は、真っ赤になっていく街をただ眺めた。
翌朝、放心状態で家を目指した。無数の遺体が転がっていた。道路脇には生焼けの遺体が重なり合っていた。「何でこんなにたくさんお人形さんがあるんやろ」。目の前の現実を受け入れられるほど大人ではなかった。
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吉田さんは終戦後も郵便局や民間企業などで電話交換手として働いた。 「殉職した人たちの分も、という思いがどこかであったのかもしれません」。2歳上の夫は7年前に亡くなったが、子どもや孫に恵まれた。
「若い人が国のために命を失うのはおかしい。戦争は本当に嫌です」。76年前の記憶は薄れていない。(末永陽子)
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