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なぜ日本は75年間も「無謀な戦争を仕掛けた敗戦国」のままなのか

2021年08月15日 23時44分00秒 | 歴史的なできごと
> ■ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)

WGIPとは、日本人に極東国際軍事裁判(一般には東京裁判と呼ばれる)を受け入れさせるため、占領中にアメリカ軍が日本人に先の戦争に対して罪悪感を植えつけ、戦争責任を負わせるために行った心理戦のことです。その存在は評論家の江藤淳が『閉された言語空間』で明らかにしたことで有名になりました。
  


75年前に日本は戦争に負けた。そのことを日本はいつまで反省しなければいけないのか。早稲田大学社会科学総合学術院の有馬哲夫教授は「前提となる歴史観には首をひねりたくなるものが多い。その原因はマスコミと教育であり、GHQが日本に対して行った『心理戦』に源流がある。そろそろ占領時の呪縛から解き放たれてもよいのでは」という――。 



 ※本稿は、有馬哲夫『日本人はなぜ自虐的になったのか:占領とWGIP』(新潮新書)の一部を再編集したものです。 ■夏になると蘇る「敗戦国」の記憶  毎年、8月になると戦争関連の報道、番組が増えます。この場合の戦争というのはもちろん1945年に日本の敗戦で終わった先の戦争のことです。さまざまなテーマが扱われますが、基本的なトーンとしては「反省」が軸にあるものがほとんどです。無謀な戦争をして、多くの犠牲を出し、酷い敗け方をした以上は当然でしょう。  

しかし一方で、その前提となっている歴史観には、首をひねりたくなるものも多々あります。たとえば、以下のような文章を読んで、読者はどう思われるでしょうか。 

 「日本は無条件降伏したのだから、旧連合国の要求や批判を受け入れるしかない。先の戦争は連合国とくにアメリカがアジア諸国から日本の支配を排除した太平洋戦争であって、欧米列強からアジア諸国を解き放ち共栄圏を作るための大東亜戦争ではなかった。連合国とくにアメリカは正義の戦争を戦って悪の戦争をした日本に勝ったのだから、極東国際軍事裁判で日本の戦争責任と戦争犯罪だけを追及する正当性を持っている。広島、長崎への原爆投下は、それによって戦争終結が早まり、およそ百万のアメリカ将兵の命が救われたので仕方がない一面がある。

日本は戦争中『韓国人』や『北朝鮮人』に被害を与えたのだから、賠償するのは当然だ」  一言で言ってしまえば「無謀な戦争をしかけた敗戦国には何も言う資格はない」ということでしょうか。  

程度の差こそあれ、このような歴史観を持つ日本人は決して珍しくありません。それどころかマスメディアや研究者の世界には多数います。朝日新聞などもこうした見方を肯定します。その影響は決して無視できるものではありません


■現在も影響が残る、GHGが仕掛けた心理戦  しかし、こうした見方は一次資料をもとに検討した場合、間違っているといわざるを得ません。代表例として「無条件降伏」について触れてみましょう。


  「ポツダム宣言で無条件降伏を受け入れた」という認識を持っている人はことの他多くいます。たとえば、NHKが今年8月6日に放送した「NHKスペシャル『証言と映像でつづる原爆投下・全記録』」では、あいかわらず「日本は無条件降伏した」というナレーションが入っています。 


 しかし、冷静に考えてみてほしいのですが、そもそも無条件降伏などというものは、いかに当時といえどもありえません。そのようなことが許されれば、皆殺しすら正当化されてしまいます。

近代の戦争でそのようなことは許されません。だからトルーマン大統領は無条件降伏を主張したものの、当のアメリカの軍人たちからも反対が出ました。  有名な玉音放送で、天皇は「国体を護持」できたことを明言しています。それが降伏条件の一つだったことは明らかです。 

 また、大東亜戦争という用語は、ほとんど右翼が用いる言葉のようなイメージを持つ人が多いため嫌われがちで、一般には太平洋戦争という言葉が使われています。しかし、前者は日本政府が当時閣議決定した名称ですから、この方が本来正しい。そもそも日中戦争は太平洋で行われていません。ところが、GHQがこの用語を禁じ、後者を強いたために現在では、こちらが一般的になったわけです。

 ■ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)の中身  

このように、さきほど述べたような歴史観(「日本は無条件降伏したので~」云々)は、戦後、GHQが日本に対して行った心理戦の影響が今なお残っていることを示しています。  この心理戦の中でも最も有名なのがウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)でしょう。 

 WGIPとは、日本人に極東国際軍事裁判(一般には東京裁判と呼ばれる)を受け入れさせるため、占領中にアメリカ軍が日本人に先の戦争に対して罪悪感を植えつけ、戦争責任を負わせるために行った心理戦のことです。その存在は評論家の江藤淳が『閉された言語空間』で明らかにしたことで有名になりました。  

結果として、先の戦争において敗北した日本だけが悪をなした「戦争加害国」であるという「戦勝史観」が日本国内ではいまだに幅をきかせています。これを「自虐史観」と呼ぶ人もいます。  戦争を反省するのは決して悪いことではありません。大きな問題は、こうした見方が結果的に現在の我々にもなお悪い影響を与えていることです。

■中国と韓国は戦勝国ではない  たとえば、中国と韓国は、「日本はアメリカおよび連合国だけでなく、自分たちの『国』とも戦って負けたのだから、自分たちは戦争賠償を求めるなど戦勝国としての権利を持っている」と主張しています。  

しかし、戦後秩序を決めたサンフランシスコ講和会議において、両国は日本と戦争状態にあった「国」とも、戦勝国とも認められませんでした。  そもそも韓国にいたっては日本の一部でした。したがって、戦後の日本に対する権利や請求権などを定めたこの条約の署名国になっていません。にもかかわらず両国は、これはアメリカが勝手に決めたことで無視できると考えています。

  とりわけ韓国は、1965年に2国間条約である日韓基本条約を結んで「両締約国(日本と韓国)及びその国民の財産、権利及び利益並びに両締約国及び国民の間の請求権の問題が(中略)最終的かつ完全に解決されたこととなること」を確認したにもかかわらず、「朝鮮人慰安婦」や「朝鮮人戦時労働者」の問題を常に持ち出しているのはご存じの通りです。 

 日本のマスメディアは、こういった誤った歴史認識を正すどころか、むしろこれらを肯定する報道をしています。それらが、とくに韓国、中国に利用された結果、日本は領土や補償や外交の問題で不利な立場に立たされ、不当な扱いを受ける事態に立ち至っています。

 ■「GHQのマインドセット」に陥る日本のマスコミと教育  欧米の公文書館所蔵の歴史的資料に照らしてみれば、このような言説はまったくの虚偽なのは明白です。私はこれらの公文書に基づいてこのような言説が誤りであることをこれまで雑誌論文や著書に書いて明らかにしてきました。新著『日本人はなぜ自虐的になったのか』もその一冊です。 

 しかしながら、日本のマスメディアや教育はいまだに前述の戦勝史観の影響下にあるため、国民の多くがGHQの設定したマインドセット(教育、プロパガンダ、先入観から作られる思考様式)に陥ったままなのです。 

 つまり戦後75年経ってなお「敗戦国」としての贖罪意識を持ち続けている。アメリカは心理戦について戦前、戦時中を通してずっと研究と実践を行っていました。GHQは、その研究成果に基づいて手腕を存分に発揮したわけです。

 ■国民が何十年も嘘を信じ込まされている 

 こうした話をすると、「日本人はバカではないのだから、そんな70年以上も前のものに騙され続けることなんてあり得ない」という人がいます。  “リベラル”を自称する人に多いようです(本来のリベラルではない)。こういう人は、先の戦争について少しでも戦勝史観から外れた見方を示す相手に対して「右翼だ」とか「陰謀論者だ」などといったレッテルを貼ります。いかにWGIPの影響が大きいかを示す現象だともいえるでしょう。


しかし、バカではないのに国民のほとんどが何十年も嘘を信じ込まされている例は多く見られます。現在の北朝鮮、韓国、中国がそうです。北朝鮮では、人民は独裁者を崇拝させられ、彼のいうことを信じ込まされています。異を唱えれば処刑されます。 

 韓国では、先の戦争で連合軍の一員として日本と戦って独立を勝ち取ったと政治指導者たちが偽り、歴史の教科書に書いているので、それを信じています。実際には、韓国は1948に独立しているので、1941年から始まった戦争で連合軍の一員になれたはずがありません。1919年から対日独立運動をしていたというのですが、当時の世界のどの国もそう認めていませんでした。  

中国では、毛沢東率いる共産党軍が日本軍を打ち破って中国人民を解放したとし、歴史の授業でもそう教えられているので、圧倒的多数の人々はそれを信じています。しかし、日本軍に勝利したのはアメリカやイギリスなどの連合国軍です。そこに蒋介石率いる国民党軍も加わっていましたが、その役割は補助的です。 

■「そろそろ占領期の呪縛から解き放たれてもよいのでは」  

もうかれこれ70年以上もたっていますが、これら3カ国の大多数の国民は、いまだに虚偽を信じ続けています。彼らの知能が低いということはありません。そう信じ込ませるようなシステムや制度が存在するからです。  また、特定の宗教指導者をトップとしている国もあります。これらの教義は異教徒にとっては理解しがたいものですし、必ずしも民主主義国家の価値観には合わないかもしれません。だからといってその国民をバカだなどとは決して言えません。  

ただし、日本は戦後の一時期を除けば、一貫して言論の自由が保証された民主主義国家であったはずです。そろそろ占領時の呪縛から解き放たれてもよいのではないでしょうか。


 ---------- 有馬 哲夫(ありま・てつお) 早稲田大学社会科学総合学術院教授(公文書研究) 1953(昭和28)年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。東北大学大学院文学研究科博士課程単位取得。2016年オックスフォード大学客員教授。著書に『原発・正力・CIA』『歴史問題の正解』など。



8/15sat/2020

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田宮二郎さんの「死の真相」も闇の中…愛人と噂された女優も無言を貫いた【芸能記者稼業 血風録】

2021年08月15日 23時00分35秒 | 事件と事故
【芸能記者稼業 血風録】#37  俳優の三浦春馬さん(享年30)が死亡という衝撃的なニュースが飛び込んできた。自らの意思で命を絶つ。メディアは「なぜ?」と真相に迫る取材をするが、「仕事に悩んでいた」といった話はあっても、なかなか真実にたどり着けないのが取材の難しさである。共通点があるとすれば、ほとんどの人が前触れもなく、突然であること。  


昔、新宿でスナックのママをしていた元歌手の女性と現役歌手の不倫を取材したことがあった。ママにも取材したが、記事になると突然、抗議の電話が来た(取材には応じたが、記事になると、「こんなはずではなかった」と抗議してくる人は少なくない。ある意味、活字の怖さと思う)。  

抗議の最後に「自殺してやる」と言って電話を切られた。初めて受けた自殺宣告に「本当にされたら……」とかなり慌てた。  

デスクに相談すると、「大丈夫。本当に自殺する人はいちいち連絡してこない。単なる脅しだと思う」と言われた。  

それでも念のために自宅マンションを見にいった。オートロック時代の今なら簡単に確認できなかっただろうが、当時のマンションは部屋の玄関まで簡単に行けた。電気メーターを見ると、かなり早く回っている。中に人がいると思われた。最初にドア下の隙間からガス漏れの臭いを調べた。ない。続いてドアの隙間から耳を澄ますと、電話で話す彼女の大きな声が聞こえてきた。時には笑い声まで聞こえてくる。デスクの言う通り、これから自殺する人とは思えなかった。  


念のため夜、同僚にスナックをのぞいてもらうと、いつものように元気に店をやっていた。 「自殺する人は宣告してこない」ということを学んだ。過去の芸能人の自殺をひもといても、大半の人が突然だ。「昨日まで元気に仕事していたのに」と周囲は茫然自失となる。  


この世界に入って最初に自殺の取材に関わったのは1978年の俳優・田宮二郎さん(享年43)だった。大掃除さなかの12月28日。午後に一報が入りメディアは麻布にあった田宮邸に駆けつけた。クレー射撃用散弾銃で自ら命を絶った。家族宛ての遺書から自殺と断定されたが、大スターの自殺に連日のように報道が続いた。  

昔からテレビ、新聞が報じないものを報じるのが週刊誌。今では非難されるような取材も当たり前にしていた時代で、「ダメもとで取材」というのが週刊誌の世界の風潮だった。


当時、「愛人」の噂もあった女優・山本陽子の直撃を指示された。東京郊外にあった山本の自宅で帰りを待った。夜9時を回っていたと思う。スポーツカーを運転して帰ってきた山本を直撃。「田宮さんが自殺~」の問いかけを最後まで聞くこともなく、山本は足早に部屋に入っていった。その後、田宮さん自殺の真相は多岐にわたり諸説出てきたが、真相は闇の中のまま、やがて終息していった。=つづく




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長靴での避難は「絶対にダメ」。台風10号、避難時に忘れてはいけない5つのこと>少し前の>

2021年08月15日 22時30分23秒 | 事件と事故


2020

非常に強い台風10号が、九州・沖縄地方に近づいています。上陸の可能性もあり、9月6~7日にかけ、これまでに経験したことのないような大雨や暴風の被害が起きるおそれが。気象庁は、自分と大切な人の命を守るために「最大級の警戒を」と呼びかけています。水害が起きた時どのように避難をすればいいのか。すでに浸水が起きている際に避難を試みることは逆に命の危険を招く可能性もあります。いったいどうすれば良いのでしょうか。


【BuzzFeed Japan / 籏智広太】 水の中で人は思った以上に歩けません。大人でも歩くことができないことがあります。 浸水が50cmを上回る場合(大人の膝上程度)の避難行動は危険です。

流れがはやい場合、20cm程度(大人の足首程度)でも歩行が不可能になることもあります。また、用水路などがある場所では転落の危険が高まるため、避難を控えましょう。


 車による避難は、特別な場合を除き控えましょう。車は浸水には強くありません。30cm以上であればエンジンが止まり、そのまま流され、ドアが開かなくなるおそれがあります。 浸水被害が拡大する前に状況を確認し、早めの避難を心がけることが、一番大切です。
避難をする際に忘れてはいけない5つのこと


1. 避難をする際には、必ず靴を履く必要がありますが、長靴はNG。水が入って重くなり、動きづらくなる可能性があるため。脱げにくい紐付き運動靴などで避難しましょう。

 2. そもそも浸水時の避難は危険ですが、単独行動も危険です。できるかぎり集団行動をしましょう。 

3. 万が一水の中を歩かなければならない時には、長い棒を頼りにしましょう。側溝やマンホールなどにはまらないよう、棒で確認しながら十分注意して歩くことが大切です。 

4. 持ち物はリュックに入れ、いざという時に両手が使えるようにしましょう。

 5. 小さい子どもがいる場合は、ロープで子どもの体をしばり、両端を大人が持つようにしましょう。

災害が起きそうなときは、近所の体育館や公民館に避難することだけが選択肢ではありません。 外が真っ暗だったり、浸水していたり、避難することが危険な状況のときは、自宅のできるだけ上の階や、近くにある頑丈な高い建物に避難することが大切です。 これを「垂直避難」といいます。

土砂災害の可能性もあるため、山からできるだけ離れた部屋を選ぶなどして、最低限の安全を確保しましょう。 また、離れたところや安全なところにある知人や親戚の家に避難するのも有効な選択肢です。

都市型水害といわれる「内水氾濫」にも注意

Nozomi Shiya / BuzzFeed

「内水氾濫」は、近年日本の都市部で問題視されている浸水被害です。 主要河川など大きな川の水を「外水」と呼ぶのに対して堤防で守られた地域の水を「内水」と呼び、大きな川があふれる洪水「外水氾濫」とは異なる浸水被害です。 

その原因は、おもに2つ。大雨時に、用水路や下水道の排水能力を超えたり、河川の本流の増水で支流の中小河川から合流できない水が逆流したりして発生します。 都市化にともないアスファルトなどで大部分が舗装されていることなどから、都市部で発生しやすいとされています。川や用水路から水があふれ出すだけではなく、マンホールから水が吹き出すこともあります。 


近年は豪雨災害が激甚化しており、2019年の台風19号でも東京都世田谷区や川崎市などに甚大な被害を及ぼしました。 自分や大事な人の命を守るのは自分自身であることを意識して、情報収集と早めの行動を心がけてください。



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砲弾破片で右腕機能を失う 自爆思いとどまった傷痍軍人が証言「戦地でも命は惜しい」

2021年08月15日 21時45分45秒 | 歴史的なできごと

 太平洋戦争末期の旧満州(現在の中国東北部)で、侵攻してきたソ連軍の砲弾の破片で右腕の機能を失った傷痍(しょうい)軍人が京都市北区にいる。存命の傷痍軍人が少なくなる中、「本当にあった出来事を伝え残したい」との思いで京都新聞社の取材に応じ、自爆攻撃を命じられた過酷な戦場体験や、戦後の労苦を語った。

 【写真】まさか人間魚雷  

榎本浩さん(94)。奉天市近くの南満陸軍造兵廠で武器製造に従事していた1945年春、18歳になったことから徴兵検査を受け、5月に陸軍歩兵部隊に配属された。 

 8月9日、ソ連軍が参戦し航空機と戦車で国境を突破。榎本さんの部隊が防衛する牡丹江市まで進撃してきた。「迎撃に備えよ」。上官の命令で、2等兵だった榎本さんは「たこつぼ」と呼ばれる穴を掘って身を隠し、爆薬20キログラムを担いで待機した。穴の上を敵の戦車が通り過ぎたが、母親の顔がふと頭に浮かび、自爆を思いとどまった。「戦地でも命はやっぱり惜しい。死ぬということはなかなかできるもんじゃない」 

数日後、交戦中に着弾した砲弾の破片が右肩を貫通した。戦友は腹部をえぐり取られ、「榎本、殺してくれ」と繰り返し懇願した。榎本さんの腕はだらんと垂れ、力が入らない。この戦友はまもなく息絶えた。 

 終戦の日は、ハルビンに後退する「病院列車」内で迎えた。玉音放送を聞いた記憶はない。看護師は「日本は負けた」と泣いていた。自身は、ハルビン駅前の商店街に満州国旗ではなく、別の旗が掲げられているのを見て、敗戦を実感した。  

ある日、榎本さんら傷痍軍人が療養するハルビン第1陸軍病院に、ソ連兵が日本人通訳と現れ、身体検査を行った。強制労働させる対象者の調査だった。榎本さんは後遺症で右腕が上がらず、「シベリア行き」を免れた。古着屋で軍服を脱ぎ捨て、満蒙開拓団の人たちと合流。日本への引き揚げ拠点だった遼寧省の葫蘆(ころ)島を目指した。  

蔣介石率いる国民党軍の支配地域を通過しようとした際、「殺さない代わりに女性を出せ」と要求された。榎本さんは、連れて行かれる日本人女性の後ろ姿を見つめることしかできなかった。命や尊厳が軽んじられる状況に「これが戦争なんだ」と感じたという。  

大分県の実家に戻ると、一番上の兄はフィリピンで戦死し、二番目の兄はシベリアに抑留されていた。榎本さんは三男だったが、家業の農業は片手ではとても継げない。京都市で暮らす姉を頼り、49年に郷里を離れた。アルバイトをかけ持ちしながら堀川高専修夜間部で学び、卒業後は印刷会社に就職。40歳で独立し、77歳で退くまで卒業アルバムの制作に携わった。 

 現在は歩行が難しくなり外出を控えがちだが、かつては鴨川河川敷でたまたま隣に座った子どもたちに肩の傷痕を見せ、3カ月間の戦場体験を語ることがよくあったという。記者が若い世代へのメッセージを尋ねると、榎本さんは「私は強運に恵まれただけ。二度と戦争はあかん。やっぱり平和な時代がええ」と繰り返した。

 ■京都・滋賀の戦傷病者86人、平均年齢98歳  

京都府と滋賀県で戦傷病者手帳を持つ元軍人・軍属・準軍属の人数が今年3月末時点で計86人となり、戦後初めて100人を下回ったことが両府県への取材で分かった。戦場の悲惨さを語れる傷痍軍人は年々減少している。

  両府県によると、存命の戦傷病者は京都府68人、滋賀県18人。昨年3月からの1年間で京都府は21人、滋賀県は11人減少した。高齢化で京都府傷痍軍人会は2014年9月に解散、滋賀県傷痍軍人会も13年12月に解散している。 

 戦傷病者の戦中・戦後の労苦を伝える国内唯一の史料館「しょうけい館」(東京都)によると、戦傷病者の平均年齢はことしで98歳になるとみられる。同館は当事者の証言映像を収録してきたが、近年は消息の把握さえ難航。収録の対象は親族に移りつつあり、元軍人の証言は18年10月に収録したのが最後という。 

 同館学芸マネージャーの木龍克己さん(64)は「傷痍軍人は武勇伝ではなく、傷痕をもって戦争反対を訴えてきた方が多い。戦後80年に証言してもらうことはもう無理だろう」と話す。



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鮮やかな赤い花

2021年08月15日 17時21分04秒 | いろいろな出来事


もう、曼殊沙華ですね❗
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