犠牲者」に見えた山田真貴子氏
写真:現代ビジネス
2/25/2021
「位打ち」という言葉がある。司馬遼太郎の歴史小説に登場し、人物にふさわしくない位階を次々と与え、ついには人格およびバランス感覚を失わせ、自滅させていく手法、とされる。
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総務省出身の内閣広報官、山田真貴子氏が東北新社から7万円超の高額接待を受けていたことが発覚し、ついには辞任に至った顛末に、筆者は「位打ち」と重なる印象を持った。
断っておくが、山田氏は女性初の内閣広報官、首相秘書官、総務省局長を歴任した優秀な人材だ。だが、個人の能力の問題ではなく女性をうまく使いこなせなかった組織が悪い、というのが、長年、全国紙の経済記者として霞が関を取材してきた筆者の率直な感想だ。
そもそも「1人あたり7万円超」というのは和牛ステーキ等の食材の単価ではなく、高いワイン等をグループで空けたからではないかと推察される。とはいえ、庶民感覚とはかけ離れた飲食にバッシングが集中した。
本人も、菅首相も職にとどまる意向を示していたが、山田氏は衆議院予算委員会での答弁後に一転して体調不良を理由に入院、辞任を申し出た。同じ会合に同席した総務省官僚は処分されているものの職を辞してはいない。痛々しさを感じさせる顛末に、辞任後は同情する声も出てきたのは、山田氏が組織に翻弄された「犠牲者」に見えるからではないだろうか。
もともとは法曹界志望だった
山田氏は旧郵政省出身で早稲田大学法学部卒。今でこそ私大出身者が増えている霞が関の官僚ながら、1984年入省の山田氏の年代では東大卒が多勢を占め、私大卒は極めて少ない。
山田氏はもともと法曹界志望で、「『司法試験を受けて法曹界で働きたい』という夢があり、法学部に入学しました。元総長の奥島孝康先生のゼミに入り、勉強付の日々でした」と早稲田大学発行の「早稲田ウィークリー」で語っている。
だが在学中に国家公務員だった父が死去。「葬儀で、父の同僚の方や後輩の皆さんとお話させていただく機会があり」「公務員もやりがいのある仕事だな、と進路変更を決断しました」(「早稲田ウィークリー」)。
バツイチで、旧郵政省では3年後輩の吉田博史氏と再婚、息子が1人いる。総務省が2013年度に発行した「先輩からのメッセージ集」では「(息子が)議会答弁の前日など大切な時に限って高熱を出し、夜中におぶって救急に駆け込むことも」あったと振り返っている。
山田氏とは報道関係者や有識者を囲んだ勉強会で何度か顔を合わせており、懇親会ではきちんと一律の会費を払っていたことも覚えている。かつて休日に、山田氏と吉田氏と長男の一家3人に都内の映画館でばったり会ったこともある。親子で一緒に映画を見るという、仲むつまじい様子が伝わってきた。
女性初」首相秘書官に抜擢されるも…
安倍晋三元首相[Photo by gettyimages]
2013年、山田氏は安倍晋三元首相に抜擢され首相秘書官に就任した。これは女性初であると同時に総務省初の首相秘書官で、当時、大きな話題になった。
霞が関の各省庁から選ばれる事務担当の首相秘書官は、通常は主要官庁とされる外務省、財務省、防衛省、警察庁、経済産業省の5省庁から1人ずつが就任する。だがこの年は新たに総務省が、地方創生と女性活用を旗印に山田氏を強く推薦し、1人増員となった経緯があった。
当時、官房長官だった菅首相がこの人事にどこまで関わったのかはっきりしない。しかし2009年に総務省で情報通信と郵政担当の副大臣に就任している菅首相は、山田氏とはその頃以来の付き合いだったという。
首相秘書官は、所属する官庁の「省益」を最大限実現するために、他省庁や永田町との高い調整能力が求められる。財務省を筆頭に、そうしたノウハウは省内で脈々と受け継がれていく。だが総務省にはそれがなかった。ましてや初の女性、山田氏が首相秘書官の仕事で教えを請える先輩はいなかったはずだ。
当時、財務省のある官僚から「山田氏に怒鳴ってしまった」という話を聞いた。詳細なテーマは割愛するが、首相答弁用の原稿の内容が不十分で「そのまま総理が話したら大騒ぎになっていた」という理由だった。これは本人の資質というより、そういう局面に当たるための教育を入省時から受けている財務官僚と、必ずしもそうではない総務官僚の、環境の違いがそもそもの原因ではないだろうか。
総務省全体の期待を背負い、日本中の注目が集まる中、山田氏の憔悴しきった様子を目にすることが増えた。睡眠は毎日2~3時間と聞いた。定期的に出席していた勉強会も休みがちになり、山田氏が久しぶりに参加した際は、会食半ばで退席したことを覚えている。安倍首相(当時)の外遊に同行するための準備がある、といった理由だった。
2015年、山田氏は首相秘書官を退任、総務省に戻り情報通信国際戦略局長に就任した。総務省初の女性局長、という華々しい転身だった。ただ総務省から首相秘書官の後任は派遣されず、人選は再び外務、財務、防衛、警察、経済産業の5省庁の体制に戻った。
山田氏の後任の女性秘書官としては、経済産業省から、のちに特許庁長官を務めた宗像直子氏が派遣された。この人事が何を意味するか。つまり総務省派遣の首相秘書官としての山田氏の評価は、必ずしも高くなかったということだろう。
これは首相秘書官としての教育、および支援体制が整っていなかったのにも関わらず押し込んだ総務省の責任、それを知ってか知らずか、女性初の秘書官としてもてはやした政府の責任ではなかったか。
内閣広報官としての力量
山田氏は総務省内で順調に出世し、内閣で言う官房長官に当たる官房長、事務次官と同列の「総務審議官」まで昇進して昨年7月に退官した。ほぼすべての経歴に「女性初」がつく。総務省の女性職員の間で山田氏は「希望の星」であり、事務次官昇格を期待する声が高かったが、実現せず総務省顧問となった。
程なく菅内閣が発足し、内閣広報官に横滑りする。こちらも女性初、副大臣時代から山田氏を知る菅総理直々の抜擢だったのだろう。総務省のある若手女性職員は「事務次官よりある意味で格上、リベンジを果たした」と手放しで喜んだ。
退官した官僚の再就職は意外に難しい。今や天下りに対する国民の目は厳しく、所属した省庁が面倒を見るのも限界があり、自力で探すことが基本となりつつある。
知名度のある事務次官クラスであれば「引く手数多(あまた)」かもしれないが、それ以外は難航するというのが複数の省庁の人事担当者の反応だ。山田氏のように、再就職先を探していたさなかでの内閣広報官就任は、かなりラッキーなケースともいえる。
ただ、内閣広報官の仕事は、記者会見の司会を務めるだけではない。報道機関を含めた利害関係の調整先は多岐に渡る。最大の仕事は危機管理であり、いかに難局を乗り切るかの手腕が問われる。
タブーなのは報道機関に圧力をかけること。山田氏の場合、就任数カ月で職務にまだ慣れていなかったと思われ、総理を守ろうとするあまり、報道側から見てバランスを欠く対応はあったのかもしれない。
「大不祥事」を経験しなかった総務省
加藤勝信官房長官[Photo by gettyimages]
そして、批判が集中している東北新社やNTTによる総務省の接待問題。霞が関全体の省庁が「奢られ体質」かというと、複数の省庁に取材経験がある筆者からみれば必ずしもそうではない。大規模な不祥事を経験した省庁と、そうでない省庁で大きな違いがある印象だ。
例えば財務省・金融庁の官僚との飲み会は、ほぼ例外なく「ワリカン」であった。これは1998年に発覚した旧大蔵省の接待汚職で逮捕者や自殺者を出し、財務省と金融庁に解体された苦い過去を引きずっているため。
この事件を機に2000年施行の国家公務員倫理法に基づく規定ができ、許認可の相手となる利害関係者からの接待を禁じられ、自己負担の会食も1万円をこえる場合は事前の届け出が求められるようになった。
報道機関は許認可とは関係ないが、それゆえ他省庁の取材では、先方が「奢られて当たり前」と考えているらしい局面もないではなかった。
金融庁のある幹部は、監督先である金融機関との情報交換の場は基本的に日中、職場での面談かワリカンでのランチ、と話していた。一方で旧大蔵省級の不祥事を経験していない総務省は、接待が常態化していたことが伺える。そんな組織で問題意識を持ち、国家公務員倫理法に基づき自分だけ不参加、という行動は、たとえ正論だとしても取りにくいのではないだろうか。
NTTの接待問題で、加藤勝信官房長官は山田氏について「すでに退任して一般人である」ことを理由に事実確認をしない意向を示した。退職金の有無や受け取りの可否についても「プライバシーに関すること」として明らかにされていない。
根拠とする規定や法律はあるのだろうが、「国民の税金で雇用されている公務員なのに」という違和感はぬぐい切れない。山田氏の辞任に寄せて、政府が一連の問題を闇に葬り去ろうとしているかにも見える。
「女性初」ともてはやしておきながら、何かあれば真っ先に切り捨てる。そんな山田氏の処遇を見ていると、とてもやるせない。ここまで「悪目立ち」してしまった山田氏の再就職は、総務省退官直後よりもはるかに難しくなってしまっただろう。日本はまだまだ男社会なのである。