(撮影:米田渉)
1980年代に初エッセー『ルンルンを買っておうちに帰ろう』がベストセラーに。直木賞を受賞後はジャンルを超えた小説を書き続け、話題作を世に送り出してきた作家・林真理子(68)。彼女が、日本大学の理事長になり8カ月がたった。田中英寿元理事長が脱税事件で有罪判決を受け揺れる母校からのオファーは、青天の霹靂。
「あきれるほどマッチョな組織体質が一連の不祥事の背景にあった。息のかかった男性ばかりで周囲をかため、一人の理事長が13年間も絶対的権力を振るってきた。ウミを出し切らねば」と覚悟を決めた。慣れない大学経営に悪戦苦闘しながらも組織改革を進めている。初めての女性トップならではの苦労はあるのだろうか。林が考える人事や会議の「コツ」とは?
(取材・文:城リユア/撮影:米田渉/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部/文中敬称略)
「普通のオバサンが大学にやってきた」
(撮影:米田渉)
日本大学・本部にある理事長室で、林真理子はインタビューに応じた。創立133年の歴史で、この部屋の主となった女性は初。雑誌連載の一部をやめ、平日は10時半頃から夕方まで出勤している。さまざまな部署にノーアポでふらりと立ち寄っては、大学職員たちに菓子を差し入れし、一緒に食べながら雑談に花を咲かせることもあるのだと笑う。
「仕事以外のプライベートなこともよく話しますね。昨日の会食でこんな芸能人に会ったのよ、みたいな私の自慢話とか(笑)。
以前より風通しはずいぶんよくなったんじゃない? だってほら、普通のオバサンが大学にやってきたわけですから。私は威張らないし、公正だし、陰でコソコソしないで言いたいことはハッキリ伝えるし」 就任直後は会議の多さと、そのメンバーの大半が中年男性であること、大学用語の難しさに衝撃を受けたという。
「伏魔殿のように恐ろしいところでは?」と友人たちに心配されたが、「旧体制の方々はすでにいなくなり、みなさんとても協力的ですね」とほほえむ。
2022年7月1日、日本大学の理事長に就任し、記者会見。右は学長に就任した酒井健夫(写真:アフロ)
「ただね……私を“お飾り理事長”に据えて、暗躍したかったのかしら?という方々の気配は、なんとなく感じてきました。いま考えると、親切にアドバイスしてくれたのは、自分を理事に推してほしかったからなのかな?とか。
でも、シガラミも“俺が世話してやったのに恩知らずめ”みたいな恨み節も全部無視して、まっさらな自分の気持ち一つで、心から信頼する方々に理事をお願いしました」 “お飾り”どころか、改革のオオナタを振るいはじめた。
事件をつまびらかにするため「特別調査委員会」を新設。すでに第三者委員会が動いていたこともあり、「そこまでしなくても」と反対意見もあったが、「このままでは世間が許さない。もう一度見直しましょう」と押し切った。
「みんなの意見を聞いて状況を見極め、ときにはグイッと判断するのが理事長の手腕。日大の年間予算って約2600億円と巨大ですが、非常識なほどの高額で外部企業に発注していた“ぼったくられ体質”も問題視しました。いまは金額や使い道が妥当なのかしっかり理事会で精査しています」
0人だった女性理事を増やし、お茶くみ業務は廃止
記者会見で「新しい日大 N・N」のボードを掲げた(写真:アフロ)
大学職員のジェンダーギャップの解消にも早々に着手した。ずっと0人だった女性の理事は、24人中8人に。
「私の理事推薦枠は2枠のみ。いろんな場所で女性を増やしたいと言いまくっていたら、みなさんが思いを酌んでくれ、優秀な外部の女性たちから積極的に候補者を募ってくれました。ありがたい限りです。教育やビジネス分野で課題解決に取り組んでこられた女性も多く、会議で上手に人を説得する方法など、私もたくさん勉強させてもらっています」 メンバーが刷新されたら「会議はとても長くなった」。
旧体制時代は根回し優先で議論にすらならなかったが、いろんな意見が飛び交うように。大学職員の人事も大胆に改革した。仕事ができると噂の日大グループの地方職員がいれば面談し、要職に就けた。 日本大学全体に7人のみだった女性課長は、林の抜擢により10人となった。時代錯誤だった秘書室職員による役員へのお茶くみ業務をやめ、女性職員に不評だった和式トイレを洋式にする“トイレ革命”も進める。
「理事長室へ決裁をとりにくる、つまり立場が上の女性職員が増えてきて、すごくいいことだと思っています。ただ、女性管理職はまだ全体の3%程度。ハードルは高いです」 「一朝一夕に変えるのは難しいけれど、まずは女性課長、次に女性部長と着実に増やしていきますよ。よく『女性は役職に就きたがらない』と言われがちだけれど、そんなことはないと思う。うちは働き方改革の成果もあって育児休業制度も整っているから、昇進後も働きやすいんじゃないかな」
(撮影:米田渉)
子育てをしながら働く大変さは自身が痛感してきた。44歳で娘を出産してからの日々をこう振り返る。
「仕事と家庭の両立なんてしてこなかったし、そもそも両立なんて無理。それくらい子育てと、夫に文句を言われながらこなす家事は大変でした。幸い私には経済力があったから『いつでも別れて自立できる』っていう心の余裕もあった。だからこそ波風立てず我慢して今日までやってきました。こう言うと意外に思われるでしょうけど」 それでも、「どんなに子育てや家事が大変でも、女性は仕事を絶対に手放さないほうがいい」と言葉に力を込める。
「人生って、突然いろんなことが起こりますよ。急に結婚したくなったり、子どもがほしくなったり。そうした場当たり的な運命を信じつつも、大切なのは、それらを乗り切るための体力・気力・経済力を全部持っておくこと。常々私はそう思ってきました」
「敵は2分でできるけど、味方をつくるのは3カ月」
(撮影:米田渉)
大学以外に目を向けると、日本企業の管理職に占める女性の割合は平均9.4%(2022年・帝国データバンク調べ)。
「コンプラ重視のこの時代でも、やっぱり女性に何か言われるのが嫌な男性って一定数いるし、女性管理職はなにかと反発されがちですよね。働きづらさを感じている方は多いと思いますよ。ただ、『男の人が悪い』と言ったらそれまででね。“ムッとする男性”のせいにしてしまったら、それ以上の発展は望めません。男性と良好なパートナーシップを築く視点は、組織改革の上でも重要。正直、手間はかかるし大変だけど、ここは結果を出して尊敬されていくしかない、人間的な魅力で丸め込んでいくしかないんです」 「そうなると大切なのは、やっぱり日々の対話だよね。対話のなかで、この人やっぱりできるって、思わせなきゃいけない。女性管理職ほど、対話が大切だと思います」
「敵は2分でできるけど、味方をつくるのは3カ月かかる」が信条だ。会議では絶対に誰かを名指しで批判しないし、自分に反対意見をぶつけてくる人も大切にしている。
「わざわざ面と向かって反対意見を述べる人って、いい人なんです。陰で何か思ってる人は会議では言わないものですから。いい人とは、あとでしっかり話せば意図を理解してもらえるし、通じ合えるんです」
就職活動では40数社から不採用。卒業後はバイトで食いつないだ
コピーライター時代
学生たちには、伝えたい言葉がたくさんある。 1982年、28歳だった林は、初エッセー集『ルンルンを買っておうちに帰ろう』がベストセラーとなった。“女性のねたみ、そねみ”を率直に綴り、「女性がこんな薄汚いことを書くわけがない」と大バッシングを受ける鮮烈な作家デビューだった。しかしそこに至るまでの道のりは順風満帆とはほど遠く、就職活動では40数社から不採用通知を受け取ったという。大学卒業後は4畳半の部屋に暮らしながら日給1800円の日雇いバイトで食いつないだ。
「根拠のない自信だけ、持っていました。『私は本当はスゴイんだ』って。22年も生きていればなにかしら褒められた小さな成功体験ってあるじゃない? それを夜寝る前に大切に噛み締めて。将来有名になったら、私を落とした出版社から執筆依頼がきても書いてやらないんだから、なんて夢想して。人に言わない限り一人で勘違いしている分には、いいじゃない? 謎の自信が若い自分を支えてくれることもある」 直木賞を受賞後、ヒット作に恵まれなかった “失われた10年間”には、「直木賞をとっただけの作家とは言わせない」と新境地の小説に挑み続けた。渾身の伝記小説が柴田錬三郎賞を受賞したと聞いたときは、電話口で涙。あの10年間はいま、「人生で最も胸を張れる期間」だという。
「頑張らなくていい、マイペースにやればいい。いまは、そんな優しい言葉のほうが受け入れられやすい風潮がありますよね。もちろん疲れた人はゆっくりやるのもいいでしょう。でもまだ何もやってないうちから、そうした優しい言葉を自分のモノにしてしまうのはどうなんだろうとは、思います」
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