雨も降らず、暑い日が続きます。昨日は大暑、暑いはずです。
夏祭りもあちこちで行われています。カフェ営業終了後、家の近所の神社の祭へ寄りました。
賑やかではありませんでしたが、歳をとったせいか、これぐらいのシンプルな、小さな祭りの方がほっとして安らぎます。スローフードと言う言葉があるが、これはファーストフードに対抗してできたようだが、それにとどまらず、生き方、文化に対しての提言ともいえる物だ。世界が狭くなり、価値観が均質化して来て、日本なら何処へ行っても、コンビニがあり、同じものを売っていて地方の文化が失われている。それが世界中に広がるのは、民主主義としては正義だが、豊かな食文化の喪失に繋がっていることへの危機感から生まれた言葉だそうだ。「工業製品が全て悪いとは言わない。工業製品にもいい物もたくさんあるが、宣伝費も無く、時代の速度について行けない、質の良い小生産者が瀕死の状態であるのは動かしがたい事実。進歩に逆行しようとは思わないが、より知的に進歩して行きたい。」と言っている。家も同じ。古い物が全て良いとは言わないが、我々が建てている、なるべく建材を使わず、地元の素材だけで創る木の家には、性能では語れない安らぎがある。ポスト&ビームの家に、15年生活して来て思うのは、今が良いと思える事だ。確かに設備は古くなり、杉の丸太は飴色に変わり、土佐漆喰も、薄緑色から、乳白色に変わって来たが、嫌ではなく、変化が好ましく感じられる。新建材で建てた家ではこうはいかない。壁紙も古び張り替えが必要だし、張り物のフロアーは生活する上で、キズが付き、地の合板っが見えて来る。リフォームして見ると、合板は20年が張り替え時だと感じる。スローな造りの木の家とは、別の考えの家作りなのだ。大切に次世代に引き継げれる家作りがこれからは必要だ。家の性能を、宣伝文句通り受け止めるのは止めよう。それが50年後100年後どうなるか、その時どう言う生活が出来るか考えると、余り間違ったチョイスはしなくなると考えている。新建材の家で100年住む事は不可能ではないかもしれないが、豊かな生活は、私には想像出来ない。スローな作りの木の家には、豊かな人生があると感じている。