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案山子

 小学生の女の子が、自分の家の近くに案山子がいくつも並べられたところがある、と教えてくれた。どうして案山子なのかよく分からなかったが、少し興味を引かれて行ってみた。

  

 高速道路のインターの出入り口近くの道路わきに20体近くも並べられていた。案山子の着ている服に書かれた文字を読んでみると、「交通安全」を訴えているようだ。地元の小学校が発案したようだ。これだけ並んでいると、壮観という気がしないでもないが、ちょっと不気味な気がしないでもない。写真を何枚か撮っているうちに、両手を広げた案山子が江戸時代にはりつけにされた罪人のように見えてきたし、さらには串刺しにされた人間のようにさえ見えてきた。「串刺し・・・」と呟きながら、はるか昔大学の講義で聴いた「トルコ人の串刺し」なるものを思い出した。たいそういい加減な学生であった私が大学の講義で記憶に残っている数少ないアネクドートだ。前後の脈絡はまるで覚えていないが、中世ヨーロッパでは多くのトルコ人を串刺しにして晒すという残虐なことをした王がいるという話を、普段は温和な教授が話し出したとき、思わずじっと聴きいってしまった。妙に生々しい詳細まで話す教授に違和感を感じながらも、中世ヨーロッパ人は非道な行いを平気でするものだと身震いしたことを覚えている。
 そんな話を思い出したのも、少し前にNHK・BSで放送されている「世界ふれあい街歩き」でルーマニアのシギショアラという街を紹介しているのを見たからだ。そこはドラキュラのモデルといわれている人物の生家があることで知られているようだった。番組のHPには、

 ドラキュラのモデルとなった人物は、「串刺し公」というあだ名のヴラド・ツェペシュ。ヴラド・ツェペシュは15世紀に実在した公爵です。町を守った立派な統治者でしたが、敵兵や罪人を容赦なく処刑したことから、「串刺し公」と呼ばれていたのです。

とあるが、さらに少し調べたところ、

 ヴラド3世が串刺し公と呼ばれるようになったのは、当時ワラキア公国に侵攻してきたオスマン・トルコとの戦いにおいて、敵の捕虜を串刺しにしたことに始まる。1万とも2万とも言われる数の捕虜が串刺しにされ、街道沿いに並べられたそうだ。10万もの大軍で押し寄せてきたオスマン・トルコもこれには恐れをなし、士気が低下して、ブラド3世に撃退さたと伝えられている。

というようなことらしい。こういうことだったのか、と25年以上も経ってから記憶の曖昧さを修復できたのはよかったが、なんとも言えないグロテスクな話である。十字軍の時代からトルコ帝国と戦ってきたヨーロッパ軍が現地で残虐非道な行為を重ねたことが、現在のイスラム諸国とキリスト教国家との軋轢の遠因であるということを何かで読んだ覚えがあるが、こうした話もその一つなのかもしれない。
 交通安全を願う案山子から、こんな血塗られた歴史を思い出しては、バチがあたってしまうかもしれないが、あまりに大量の案山子は私の目には異様な光景に映ってしまったのが原因だろう。過ぎたるは及ばざるが如し、ドライバーが案山子に目を奪われて事故を起こさないように願うばかりだ。
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