毎朝見ているNHKの朝ドラ「おひさま」は、戦中戦後を生きる女性が主人
公のドラマです。
今ヒロインの陽子さんは小学校の教師として出発し嫁いでからも夫を戦地
へ送った後も 嫁ぎ先から教師として続けています。
陽子さんは多分大正生まれが設定ですが教え子達は、ちょうどわたしの
世代です。昭和16年この年から国民学校として名称が変わりました。
16年、わたしはは1年生として伊勢市の学校へ入学しました。太平洋戦争
が16年12月8日勃発ですから,その時は日本が負けるとは誰しも思ってい
なかったです。(実際には宣戦布告の頃から負けることは予想していたよう
ですが)
ラジオから流れる大本営発表のニュースは日本軍優勢で戦艦を撃沈
させなど、勝利だけの報道でした。しかし町では爆撃で火災を想定してのバケ
ツリレーでの消火訓練はありました。しかしその頃からでも外地での戦死者は
あり、英霊として、わたし達は学校からお参りに家に行ったものでした。
19年わたしは伊勢市から、田舎(父母の実家ー志摩)へ疎開しました。父
の仕事も変わりました。(皇大神宮→別宮へ)
田舎の方でも日本軍が駐屯し兵舎も建てられ軍用馬もいました。私の家の
離れは将校宿舎となり最初は小隊長(少尉)さんで、たくさんの兵士が集まりま
したが、そのうち大隊長(大尉)宿舎となり、兵士はあまり来ませんでした。
学校では暑い中でも運動場で隊列を組んで行進、銃の変わりに竹やりを持
ちました。終戦近くになるとB29戦闘機が飛び各地で爆弾、焼夷弾を落とし
わたしの方にも爆弾は投下されました。「空襲警報発令」で学校からの帰り
に防空壕に入り「解除」になるまでじっとしていました。
夜は灯火管制が強いられ電燈の上に黒い布を張り外へら明かりがもれな
いようにし、家の庭には防空壕が掘ってあり、逃げました。
東京空襲、名古屋空襲、三重でも伊勢空襲など多くが焼け野原となり、
焼け出された人がたくさんでした。広島・長崎への原子爆弾が日本を降伏
へと持っていったのですが、もっと早くに戦争が終わっていればと思うと、
悲しみは言葉には表せないです。
ドラマの陽子さんのお兄さんも出征しました。わたしの二人の兄もビルマ
戦線で帰らぬ人となりました、遺骨すらなかったでした。今の平和は多くの
犠牲の上に得られたものであることを忘れてはならないです。