暖かい日が続き椿の花の盛りも過ぎようとしています。
道辺に咲いている椿の中に紅白の混色の椿が咲いています。
私の手持ちの花図鑑の中には紅白の混色の椿の花は
紹介されていませんので、珍しい品種に違いありません。
今日は紅白の混色の椿と小さな草花「オオイヌノフグリ」を紹介致します。
道辺に咲いている「紅白の混色の椿」
近くの畑に咲いている「オオイヌノフグリ」
暖かい日が続き椿の花の盛りも過ぎようとしています。
道辺に咲いている椿の中に紅白の混色の椿が咲いています。
私の手持ちの花図鑑の中には紅白の混色の椿の花は
紹介されていませんので、珍しい品種に違いありません。
今日は紅白の混色の椿と小さな草花「オオイヌノフグリ」を紹介致します。
道辺に咲いている「紅白の混色の椿」
近くの畑に咲いている「オオイヌノフグリ」
私たちが畏怖の念を抱く宇宙を創造し、その大宇宙に人間が住むために美しい惑星地球を創造して、神エホバの比類のない特質の愛の中の優しい同情が、国民全体にまた個々の人に対して示されて来たことを聖書を通して確証できることは本当に嬉しいことです(イザヤ45:18.申命記15:7,10)。
宇宙の主権者エホバ神は私たち人間を「神の像(かたち)」に創造してくださり、かつ個人としての私たちに深い気遣いの同情を示しておられることを、聖書からお伝え致します(創世記1:26,27、詩編73:28.使徒4:24)。
今日でも、愛の神エホバは、個人としての私たちを深く気遣い同情を示してくださっています。私たちは自分がどんな苦しみに遭おうとも、神エホバがそれに鋭い関心を払ってくださることを確信できます。詩編作者ダビデは霊感を受けてこう書きました。「エホバの目は義なる者たちに向けられ、その耳は助けを求める彼らの叫びに向けられる。エホバは心の打ち砕かれた者たちの近くにおられ、霊の打ちひしがれた者たちを救ってくださる」(詩編34:15,18)。この聖句が描写している人々に関して、ある聖書注解者はこう述べています。「彼らは心が打ち砕かれて悔恨の情を表わしている、つまり罪ゆえに謙遜になって己を空しくしている・・・。自分の目には価値の低い人間であり、自分の真価には自信がない」。そのような人々は、神エホバは遠く離れており、自分は神エホバに顧みられないほど微々たる存在である、と感じるかも知れません。しかし、それは事実に基づいていません。ダビデの霊感を受けた言葉は、「自分の目に価値の低い」人々を、神エホバは見捨てないことを保証しています。深い同情心に富むエホバ神は、そのような時に私たちが普段以上に神エホバを必要とすることをご存じであり、近くにいて、「義の右手」で救いたいと願っておられます(イザヤ41:10)。
一つの経験を考えてみましょう。米国のある母親は、ひどい急性喉頭気管支炎で苦しむ2歳の息子を病院に担ぎ込みました。その子を診察した医師たちは、一晩入院させなければならないと母親に告げました。その晩、母親はどこで一夜を過ごしたでしょうか。病室で、息子のベッドのすぐ横に置いた椅子に座って付き添い看護をしました。幼い我が子が病気なので、傍にいないではいられなかったのです。あなたも、きっと同じようになさるに違いありません。私たちは、愛ある天の父エホバ神が、それ以上のことをしてくださると期待できるはずです。そもそも、神エホバは、私たち男性も女性も神の像(かたち)に創造されたお父さんなのです(創世記1:26,27)。詩編34編18節の感動的な言葉によれば、私たちの「心が打ち砕かれ」、「霊が打ちひしがれて」いるとき、お父さんエホバ神は愛ある親のように「近くにいて」、常に深い同情を示し、すぐに助けてくださいます。
では、神エホバは、個人としての私たちをどのように助けられるのかについて次回にお伝え致します。引き続きお読みくだされば、嬉しく存じます。
菜の花や 惜しみな咲く 善良さ 今日の一句
道辺に咲いている「菜の花」
2月下旬から暖かい春日になり、春を待ちかねたように
菜の花や河津桜も満開になりました。
菜の花はあちこちの道辺で咲き乱れ、暖かい雰囲気の花びらは
春の訪れを喜びのうちに告げています。
今日は満開の菜の花と河津桜を紹介致します。
道辺に咲いている「菜の花」
ご近所の庭の「河津桜」
皆様方の中にも会社務めのご経験があり、課長や部長が特定の部下のみではなく、公平に一人一人に深い気遣い示し、育成される方に恵まれたかも知れません。そのような職場環境に恵まれた方は、日々の業務の遂行が楽しく充実していたに違いありません。私たちは、個人的な気遣いや心からの同情を示されると嬉しいものです。偉大な創造者エホバ神は個々の人にも深い気遣いの優しい同情を示されます。今日はそのことについて聖書からお伝え致します。
神エホバがモーセを通してイスラエル国民にお与えになった律法・エホバの教えには、個々の人に対する深い気遣いの同情が示されています。一例として、貧しい人に対する神エホバの優しい気遣いの同情について考えましょう。神エホバは、人間には限界があり予期せぬ状況が生じてイスラエル人のだれかが貧困に陥るかも知れない、ということをご存知でした。貧しい人は、どのように扱われるべきでしょうか。神エホバはイスラエル人にこのように厳命なさいました。「あなた(イスラエル人)はその貧しい兄弟に対して自分の心を固くしたり、手を閉じたりしてはならない。あなたは是非ともその者に与えるべきであり、あなたの心はその者に与えることを惜しむようであってはならない。その事(与える事)のために、あなたの神エホバは、すべての業・・・においてあなたを祝福してくださるからである」(申命記15:7,10)。
さらに、神エホバはイスラエル人に、貧しい人のために食物を残すため、収穫の際に畑の端を刈り尽くしたり、残ったものを拾ったりしてはならないともお命じになりました(レビ記23:22.ルツ2:2~7)。いわゆる弱い人たちのための刈の残しや取り残しの優れた福祉政策です。同胞である貧しい人々のため、この優しい気遣い、同情の律法を国民が守っている限り、イスラエルに住む困窮した人は、食物を得るために物乞いをする必要はありませんでした。この福祉政策に、神エホバの優しい同情が見事に反映されていたのではないでしょうか。
次回も、神エホバは個人としての私たちを深く気遣っておられることについてお伝え致します。
古木にも 梅の花咲き 美を飾る 今日の一句
庭に咲いている「リユウキンカ」