私たち人間は神の像(かたち)に創造されていますので、神エホバの比類のない愛を反映する能力が備えられています(創世記1:26,27)。そのため、私たち人間も神エホバに見倣って悔い改めた人を許すことができます。もし、私たち人間に他の人を許す愛が備わっていなかったら、人間社会は今よりも醜い社会になっていて、とても秩序正しい幸福な生活は成り立たなかったに違いないと思います。皆様方は、どのように考えられますか。
神エホバは進んで許してくださる神であり、律法を通して憐れみ深い備えをして下さっています(レビ記6:1~7)。被害者は益を受けましたので、人間の考える法律に勝っています。所有物が戻るだけではなく、科料が支払われました。加害者が犯した罪を認めた時には大いに安堵したのではないでしょうか。同時に、最終的に良心に促され罪を告白し、自分の悪行を正した人もも、モーセの律法から益を受けました。実際、そうしなければ、神エホバからの許しは得られなかったのです。
私たちはモーセの律法下にはいませんが、その律法から、許しを含む、神エホバの憐れみ深い思いに関する洞察を得ることができます(コロサイ2:13,14)。罪を犯して他の人を傷つけた場合、悪行を正すためにできる限りのことをするなら、神エホバを喜ばせることができます(マタイ5:23,24)。それには、自分の罪を認めること、罪科を告白すること、また被害者に謝罪することも含まれます。その後、イエスの贖いの死の犠牲に基づいて神エホバに嘆願し、神に許していただいたという安堵感を得ることができます(マタイ10:21,22)。
愛ある親ならだれでも行なうように、神エホバも、許しと共に幾らかの懲らしめをお与えになることがあります(箴言3:11,12)。もし、クリスチャンならある種の特権を手離さざるを得ないかも知れません。自分にとって貴重な特権をしばらくの間失うのはつらいことでしょう。しかし、そのような懲らしめは、神エホバが許しを差し控えておられることを意味するものではありません。神エホバからの懲らしめは、私たちに対する神の愛の証拠である、ということを忘れないようにしましょう。懲らしめを受け入れて適用するなら、最善の益が得られます(ヘブライ12:5~11)。
私たちは神エホバが「進んで許してくださる」ことを学び知っています。これは、何と心強いことなのでしょう。どんな間違いを犯したとしても、自分に神エホバの憐れみは及ばないなどと考えてはなりません。真に悔い改め、悪行を正す行動を取り、イエスの贖いの死の犠牲に基づいて真剣に祈り求めるなら、神エホバが進んで許してくださるという全き確信を抱くことができます(ヨハネ第一1:9)。では、他の人に接する場合、神エホバの許し方の手本に見倣いましょう。結局のところ、罪を犯すことのない神エホバがそれほどまでに、不完全な人間を許してくださるのであれば、罪深い人間である私たちは互いに許し合う点で最善を尽くすべきではないでしょうか(コロサイ3;13)。
次回は神エホバの比類のない愛に関し「神の善良さは何と大きい」という事柄についてお伝え致します。引き続きお読み下されば幸いです。
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雨の中 犬ふぐり咲く 畑道 今日の一句
庭に咲いている「土佐ミズキ」