皆様方の中にもマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書を御読みになった方がいらっしゃるかも知れません。そのようなお方は、み子イエスは、み父エホバの愛を完全に体現された方であることをご理解されていらっしゃるに違いありません。み子イエスは群衆をご覧になり「哀れに思い」病気の人たちを治し、人々の霊的必要を顧み、神の王国の良いたよりを証しされました(マルコ6:34.ルカ4:43)。
別の重要な点でも、イエスはみ父エホバの愛を完璧に反映されました。イエスはご自分に敵対する人も「進んで許された」のです(詩編86:5)。イエスは贖いの死を遂げる苦しみの杭に掛けられていた時にも、この快く許す態度を示されました。イエスは恥ずべきかたちの杭に付けられ、手足を杭にくぎで刺し通された状態で、敵対者にどんな言葉を述べたでしょうか。刑執行者たちを罰してください、とみ父エホバに呼ばわったでしょうか。イエスは苦しみの中でもそのようなことはしませんでした。贖いの死を目前にしても、イエスはこう言いました。「父(エホバ)よ、彼らをお許し下さい。自分たちが何をしているのか知らないのですから」(ルカ23:34)。み子イエスは、苦しみの極限に置かれた中でも、「進んで許される」方であることを完全に示されたのです。
エホバの言葉は、イエス・キリストの愛を本当に美しく描写しています。では、私たちはイエスの愛にどのようにこたえ応じるべきでしょうか。聖書は、「知識を超越したキリストの愛を知る」ようにと勧めています(エフェソス3:19)。既に紹介して来ましたが、イエスの生活と神の王国の良いたよりの宣教に関するマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書の記述から、キリストの愛について多くの事を学べます。しかし、「キリストの愛」をよく「知る」には、聖書がイエスについて何を述べているかを学ぶ以上の事が求められます。
「知る」と訳されているギリシャ語には、「経験を通して、実際的に」に知るという意味があります。わたしたちは、イエスのような愛を示すとき、つまり他の人のために自分自身を私心のない態度で与え、人々の必要とするものに同情心を持って応じ、人を心から許すとき、イエスの気持ちを真に理解することが出来ます。そのように、経験によって、「知識を超越したキリストの愛を知る」のです(エフェソス3:19)。そして、イエス・キリストのようになればなるほど、イエスが完璧に見倣った方エホバにいっそう近づくことができるのです。そうすれば、あなたの人生は快い道、平安との道、命の道となるのです(箴言3:17,18)。
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