最近集団で山に登っていても、食事は別、さらにはテントもそれぞれ持ってくるような山行が若者の間では主流であるそうだ。私がかつて職場の山岳会に所属してきた時は、5,6人が共同で調理をし、狭いテントの中では酒を飲みながら談話し、時には歌も歌ったものだ。現在の大垣山協でもテント山行の時はそうだ。
家庭での個室から始まった個人化はとどまるところを知らないのかもしれない。昨今の自分=アイデンティティ探しもますます盛んである。今の年になってみれば、自分といったものを少しは説明できるようになったと思うが、20代の頃そんな自分はなかった。学び、働き、あるいは家族を作り、地域とかかわる中でできてきたものばかりである。
あまり関係ないとは思うが、ここからは読んだ本の話となる。昨日と今日、マーク・リラ著「リベラル再生宣言」という本を読んだ。普段、翻訳本は大部なのが多いのと、話の進め方がまわりくどくて、いつも途中で投げ出してしまう。しかし、この本は160ページしかないうえに、意外と面白い。こういう本に出会うと少し気分が良くなる。
さて、内容だが、なぜ、リベラルがアメリカで力を失っているかである。リベラルがアメリカの未来について国民の心を奮い立たせるビジョンを示すことができたのは、F・ルーズベルトからリンドン・ジョンソン(ニューディール、公民権運動、偉大な社会キーワードは「連帯」「機会均等」「公共への義務」)までだとする。この後のレーガンは、個人主義的で家族やコミュニティを重視する一方、国家の足かせを少なくしようとした。
リベラルは、レーガン時代に大きなビジョンを示すことに失敗し、アイデンティティ・リベラリズムに傾斜していった。アイデンティティとは個人がそれぞれ持っている属性に注目する。女性、ヒスパニック、LGBT、ネイティブアメリカン、アフリカ系アメリカ人などいくらでもある。こうした結果、「私たち」という感覚が薄れ、お互い市民であり、助けあって生きているという感覚がなくなってしまった。現在は、リベラルを代表する民主党も共和党も国民をまとめ上げるのに失敗し、そのなれの果てがトランプなるものだ。
様々な政治運動についての著者の懐疑も頷ける。運動ばかりではその政策の実現も難しいし、実現したあともそれを維持することはできない。それは、人々の声に耳を傾け、選挙に勝ち、政策を実現するしか方法はない。これこそが民主政治なのだ。本から引用すると「民主政治で重要なのは、他人を説得することで、自己を表現することではない。ただ、私はここにいる、私はこういう人間だ、受け入れろ。と言ったところで、周囲の人間は、あなたの頭を軽くたたいてなだめようとするか、あきれた顔をするかのどちらかだろう。・・・・まず、他人とすべてのことについて意見を一致させることなどできないと認めなくてはいけないーそれが民主主義社会に生きる条件だ」「現在の状況から抜け出す唯一の方法は、アイデンティティの存在、重要性を否定することなく、アメリカ人であればアイデンティティとは無関係に全員が共有する何かを基に訴えることである。その何かこそが「市民という身分」である。リベラルは、今こそ再び「市民」という言葉を使って話をするべきだ。」(すごく当たり前のことを言っている気がする)
これはアメリカの話であるが、日本にもあてはまらないであろうか。最近の「個人責任」の大合唱にはあきれかえっている。私には、政府の役割、あるいは公共というものが一体何であるのか分からなくなってきている。まさか「夜警国家」に逆戻りするつもりであろうか。
家庭での個室から始まった個人化はとどまるところを知らないのかもしれない。昨今の自分=アイデンティティ探しもますます盛んである。今の年になってみれば、自分といったものを少しは説明できるようになったと思うが、20代の頃そんな自分はなかった。学び、働き、あるいは家族を作り、地域とかかわる中でできてきたものばかりである。
あまり関係ないとは思うが、ここからは読んだ本の話となる。昨日と今日、マーク・リラ著「リベラル再生宣言」という本を読んだ。普段、翻訳本は大部なのが多いのと、話の進め方がまわりくどくて、いつも途中で投げ出してしまう。しかし、この本は160ページしかないうえに、意外と面白い。こういう本に出会うと少し気分が良くなる。
さて、内容だが、なぜ、リベラルがアメリカで力を失っているかである。リベラルがアメリカの未来について国民の心を奮い立たせるビジョンを示すことができたのは、F・ルーズベルトからリンドン・ジョンソン(ニューディール、公民権運動、偉大な社会キーワードは「連帯」「機会均等」「公共への義務」)までだとする。この後のレーガンは、個人主義的で家族やコミュニティを重視する一方、国家の足かせを少なくしようとした。
リベラルは、レーガン時代に大きなビジョンを示すことに失敗し、アイデンティティ・リベラリズムに傾斜していった。アイデンティティとは個人がそれぞれ持っている属性に注目する。女性、ヒスパニック、LGBT、ネイティブアメリカン、アフリカ系アメリカ人などいくらでもある。こうした結果、「私たち」という感覚が薄れ、お互い市民であり、助けあって生きているという感覚がなくなってしまった。現在は、リベラルを代表する民主党も共和党も国民をまとめ上げるのに失敗し、そのなれの果てがトランプなるものだ。
様々な政治運動についての著者の懐疑も頷ける。運動ばかりではその政策の実現も難しいし、実現したあともそれを維持することはできない。それは、人々の声に耳を傾け、選挙に勝ち、政策を実現するしか方法はない。これこそが民主政治なのだ。本から引用すると「民主政治で重要なのは、他人を説得することで、自己を表現することではない。ただ、私はここにいる、私はこういう人間だ、受け入れろ。と言ったところで、周囲の人間は、あなたの頭を軽くたたいてなだめようとするか、あきれた顔をするかのどちらかだろう。・・・・まず、他人とすべてのことについて意見を一致させることなどできないと認めなくてはいけないーそれが民主主義社会に生きる条件だ」「現在の状況から抜け出す唯一の方法は、アイデンティティの存在、重要性を否定することなく、アメリカ人であればアイデンティティとは無関係に全員が共有する何かを基に訴えることである。その何かこそが「市民という身分」である。リベラルは、今こそ再び「市民」という言葉を使って話をするべきだ。」(すごく当たり前のことを言っている気がする)
これはアメリカの話であるが、日本にもあてはまらないであろうか。最近の「個人責任」の大合唱にはあきれかえっている。私には、政府の役割、あるいは公共というものが一体何であるのか分からなくなってきている。まさか「夜警国家」に逆戻りするつもりであろうか。