今日5月6日(月)揖斐祭り関連の仕事が全て終了した。揖斐祭りは、三輪神社例大祭の中の一連の行事である。メインな行事として、山車で行われる子ども歌舞伎の上演、御輿の渡御(三輪町内をめぐる)、子ども神輿の渡御がある。私の地区には山車はないが、子ども神輿がある。子ども神輿は三輪地区全体で9台あるが、子どもの減少により、今年は5台が参加した。
3月下旬から4月中頃までにまず子ども神輿の担ぎ手を探すことから仕事が始まる。今年は中学生、男子6名、女子6名が集まった。担ぎ手を三輪区以外から集めてくることもここのところ行われ、我が地区は昨年の2名に続き、今年は1名が加わった。当番班は4月29日に地区の会館に置かれている神輿に飾り付け及び横棒(担ぎ手のため)を取り付ける。合わせて、神輿に安置されているご神体を三輪神社に返納する。
我が地区の子ども神輿
5月1日から幟が揚げられる(かつては木の長い棒であり、これを直立させるのはなかなか難儀であった。今年は1日が雨であったので2日になった)。2日に担ぎ手の子ども達を初招集し、肩あわせを行い、夜の7時半から三輪神社で行われるご神体の拝受にのぞむ。暗闇(かつてと比べると随分明るくなった)で行われる儀式、少し神秘的である。子ども神輿は、本番に備えて、練習を行う。神輿を頭上高く上げ、ぐるぐる回転する、さらに風車のようにあるいは波のように回転させる。練習の甲斐あって、4日にはほぼ出来るようになった。
5月3日には会館の幕(子ども神輿会館祝幕)を張る。
5月4日からが祭りの開始で、朝には例大祭の神事が行われる。
神子の舞
4日のおとな神輿 昨年改修された
この日から山車が神社境内に引き入れられる。山車は5台あり、毎年交替で子ども歌舞伎を行う。今年は上新町がその担当。午後には一旦それぞれの地区に戻る。この移動のための引き手が高齢化のため、非常に難しくなっている。このころには沿道には露天商店が立ち並ぶ。
4日三輪神社の境内に5台が勢揃い
5日いよいよ本番である。まずは、8時半三輪神社を神楽が出発する。神楽は3人が担当し、各戸を回っていく。
各戸ではご祝儀を用意して、待っていてくれる。私も参加したことがあるが、100戸の家を2時間以内にもれなく回るのはなかなか大変である。終わると別の地区に引き継がれる。お昼頃になると、いよいよ子ども神輿が会館を出発し、三輪神社に向かう。神事のあと、おとな神輿(お先、本社、お後)を先頭に渡御が始まる。
おとな神輿の担ぎ手 消防団とか町内の会社が分担するのが最近の傾向
渡御は、三輪地区内の10地区(6地区は江戸時代からある、我が地区を含む3地区は明治の終わり頃)を順次巡っていく。各地区では地区神社へのお参りと担ぎ手へのお接待の準備をしている。4時頃、中町が中間点で担ぎ手の交替(交替しない人もいる)、軽食をとる場所となっており、歴史的には「御旅所」と言うらしい。5時過ぎ最後の地区を過ぎてからが、この渡御のハイライト部分となる。混雑する本町通りを行ったり来たりするのである。おとな神輿同士の競り合いもまた面白い。かつては、お互いの神輿同士がぶつかり合うようなこと、民家の軒を壊すなども無礼講で行われたが、今や警察当局の指導、担ぎ手の意識の変化などもあって随分紳士的になった。しかし、警護の任にあたる私たちは、頭上高く上げられた場合には、ぶつからないように手を差し出す。
6時半が近づくと、警護者は神社に納めることを考える。担ぎ手ももうふらふらで、腰が入っていない状態となっているので、神輿の重みはますます増していく。しかし、それでも簡単には収らない。鳥居まで来ていた神輿だが、再び人混みに戻っていく。鳥居をくぐり、山車の前で「おばば」を唄いながら神輿3台が競演した後、出発場所に収った。
最後の競演
時間は6時45分頃。儀式のあと、おとな神輿はおさまり、子ども神輿はそれぞれの地区に引きあげる。私は、祭り当番班の一員でもあるので、このあとも仕事が待っていた。しかし、山車を持っている地区は、歌舞伎終了後、疲れた体で山車を引いていかなければならない。
伝統行事とは貴重な文化であり地域の結束をはかるものである。しかし、その維持にはお金も労力も必要である。ましてや、少子化と高齢化のダブルパンチである。我が地区にも、私が子ども時代からずっと関わってきた神輿をつれなくなる日が近く訪れるのは確実であると思う。
3月下旬から4月中頃までにまず子ども神輿の担ぎ手を探すことから仕事が始まる。今年は中学生、男子6名、女子6名が集まった。担ぎ手を三輪区以外から集めてくることもここのところ行われ、我が地区は昨年の2名に続き、今年は1名が加わった。当番班は4月29日に地区の会館に置かれている神輿に飾り付け及び横棒(担ぎ手のため)を取り付ける。合わせて、神輿に安置されているご神体を三輪神社に返納する。
我が地区の子ども神輿
5月1日から幟が揚げられる(かつては木の長い棒であり、これを直立させるのはなかなか難儀であった。今年は1日が雨であったので2日になった)。2日に担ぎ手の子ども達を初招集し、肩あわせを行い、夜の7時半から三輪神社で行われるご神体の拝受にのぞむ。暗闇(かつてと比べると随分明るくなった)で行われる儀式、少し神秘的である。子ども神輿は、本番に備えて、練習を行う。神輿を頭上高く上げ、ぐるぐる回転する、さらに風車のようにあるいは波のように回転させる。練習の甲斐あって、4日にはほぼ出来るようになった。
5月3日には会館の幕(子ども神輿会館祝幕)を張る。
5月4日からが祭りの開始で、朝には例大祭の神事が行われる。
神子の舞
4日のおとな神輿 昨年改修された
この日から山車が神社境内に引き入れられる。山車は5台あり、毎年交替で子ども歌舞伎を行う。今年は上新町がその担当。午後には一旦それぞれの地区に戻る。この移動のための引き手が高齢化のため、非常に難しくなっている。このころには沿道には露天商店が立ち並ぶ。
4日三輪神社の境内に5台が勢揃い
5日いよいよ本番である。まずは、8時半三輪神社を神楽が出発する。神楽は3人が担当し、各戸を回っていく。
各戸ではご祝儀を用意して、待っていてくれる。私も参加したことがあるが、100戸の家を2時間以内にもれなく回るのはなかなか大変である。終わると別の地区に引き継がれる。お昼頃になると、いよいよ子ども神輿が会館を出発し、三輪神社に向かう。神事のあと、おとな神輿(お先、本社、お後)を先頭に渡御が始まる。
おとな神輿の担ぎ手 消防団とか町内の会社が分担するのが最近の傾向
渡御は、三輪地区内の10地区(6地区は江戸時代からある、我が地区を含む3地区は明治の終わり頃)を順次巡っていく。各地区では地区神社へのお参りと担ぎ手へのお接待の準備をしている。4時頃、中町が中間点で担ぎ手の交替(交替しない人もいる)、軽食をとる場所となっており、歴史的には「御旅所」と言うらしい。5時過ぎ最後の地区を過ぎてからが、この渡御のハイライト部分となる。混雑する本町通りを行ったり来たりするのである。おとな神輿同士の競り合いもまた面白い。かつては、お互いの神輿同士がぶつかり合うようなこと、民家の軒を壊すなども無礼講で行われたが、今や警察当局の指導、担ぎ手の意識の変化などもあって随分紳士的になった。しかし、警護の任にあたる私たちは、頭上高く上げられた場合には、ぶつからないように手を差し出す。
6時半が近づくと、警護者は神社に納めることを考える。担ぎ手ももうふらふらで、腰が入っていない状態となっているので、神輿の重みはますます増していく。しかし、それでも簡単には収らない。鳥居まで来ていた神輿だが、再び人混みに戻っていく。鳥居をくぐり、山車の前で「おばば」を唄いながら神輿3台が競演した後、出発場所に収った。
最後の競演
時間は6時45分頃。儀式のあと、おとな神輿はおさまり、子ども神輿はそれぞれの地区に引きあげる。私は、祭り当番班の一員でもあるので、このあとも仕事が待っていた。しかし、山車を持っている地区は、歌舞伎終了後、疲れた体で山車を引いていかなければならない。
伝統行事とは貴重な文化であり地域の結束をはかるものである。しかし、その維持にはお金も労力も必要である。ましてや、少子化と高齢化のダブルパンチである。我が地区にも、私が子ども時代からずっと関わってきた神輿をつれなくなる日が近く訪れるのは確実であると思う。