城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

続イザヤ・ベンダサンを知っていますか 20.10.3

2020-10-03 20:03:21 | 面白い本はないか
 おじさんのブログを読んでくださっている方ならご承知だと思いますが、本文と関係のない写真(もちろん野菜、花、山登り、地域の出来事など趣味であったり、関心を持っている出来事の写真)を載せることが多い。というのは、おじさんの記事は文章が比較的長いので、普段文章を読む機会の少ない方には読むのが苦痛となりはしないかという懸念を持っているからである。今回は、今日トレーニング代わりに登ってきた池田山の写真を多く挿入する。イザヤ・ベンダサンに興味が無い方でも読んでもらえるかなと思って挿入する次第である。

 池田山大津谷コースのすぐそばにある公園は8月12日から閉鎖が続いている 普段ならキャンパーで賑わっているはずだが

 今日土曜日なので、他に登山者がいるだろうと思ったが、時間が早いせいかおじさんの車だけだった」
 大津谷登山口8:05出発

 再びヤフーニュースから始めることにしたい。百田尚樹の評論をある論者が批判していた。百田氏は朝日の吉田証言(日本軍による強制があったと証言)がウソと分かった以上慰安婦問題は存在しないとか、強制徴用は存在しなく、彼らは自主的に労働についたのであり、賃金も日本人と同等で奴隷状態ではなかったと書いてある本(もちろんおじさんは読んでいないが)に対してきちんとした論拠をあげて、これらの主張が事実ではないと論じていた。その結果、百田ファンからのこの論者に対する批判コメントが満ちあふれた。私は「影法師」や「永遠の0」などをずっと前に読んだが、最後のクライマックス(隠された重要な事実がここで初めて明らかになるパターン)は面白く、なかなか楽しませてくれた。ところが、小説ではなく、評論を書き、マスコミに登場するようになってから、彼の本やテレビは見ることがなくなった。彼の不正確な(ある意味恣意的な)歴史知識を披露され、これが真実だと思ってしまう人が増えているのだろう。司馬遼太郎の書く歴史物を読んでこれが史実だと思っている人が多いと聞くが、百田氏の説く歴史はそれ以上の影響がありはしないかと心配になる。こうした論者の説く日本は確かに耳に心地よいが、史実とは違っていることが多い。特にネットユーザーは、タイトルや要約だけ(批判する本などをまともに読んでいない)で理解した気になって、コメントを書いてくるようだ。(このように書くとおじさんのブログも炎上するかもしれないが、幸い見る人が多くないのでこれは杞憂であろう)

 大津谷コース中間点1.4km付近

 さて、黄門さんこと徳川光圀を知っていますよね。そして彼が中心となって書き始められた「大日本史」、これも学校で習いました。この水戸藩に起こった水戸学が皇国史観(日本が明治以降に国家としての生き残りをかけて選んだ、国家の枠組みが天皇を中心とした国家)の元となり、王政復古=明治維新を起し、そしてアジア太平洋戦争につながる大きな思想となっていった。この光圀の師匠となったのが、明の旧臣の朱舜水で、彼は清によって滅亡の危機にあった明の復興を図る(江戸幕府にも支援の要請が来ていたが断った)が成功せず、いわば日本に亡命してきた。彼は優れた朱子学者であったので、光圀ほか水戸藩の優秀な知識人が彼の弟子となった。明の滅亡により、夷狄である満州族が清を建国し、正統な中華思想は失われたとまわりの国すなわち李氏朝鮮や江戸時代の日本は考えた。江戸時代までの日本は中国からの政治思想、文化、経済面での強大な影響下にあった。この影響に対する反発から、夷狄である清朝が成立すると、日本(万世一系の天皇のもとにある理想の国)こそ中国だという山鹿素行などが現れた。

 少し時間があったので、久しぶりに池田山山頂まで足をのばすことに 林道から見る池田山山頂

 戦国の世を勝ち抜いてきた徳川政権について、大日本史において万世一系の天皇を描き、天皇から任命された征夷大将軍ということで、その正統性を証明しようとした。(これを書くに当たって南北朝問題は大きな問題で、明治時代になってから再びこの問題が再燃する。すなわち、現在の天皇家は北朝の系統であるが、南朝を正統な皇統とした。この場合、万世一系ではなくなるが、南朝から北朝への三種の神器の引き渡しにより正当化した。)。朱子学では義、すなわち君子への臣下の絶対的な忠誠が必要で有り、たとえ君子に徳がなくても臣下としての義を果たす必要がある。しかし、一方で「易姓革命」という古くからの思想があり、この場合不徳な君子があれば天命により王朝を変えることができるとある。この矛盾は常に思想家たちの独自の解釈を引き出す。光圀にとっては、正統性を持つ忠誠の対象はあくまで朱子学的原則に基づいて、天皇であっても、決して幕府でなかった。幕府は彼にとって宗家にすぎず、もし天皇の命令があれば、宗家である幕府を滅ぼしてもかまわなかった。彼の子孫である徳川慶喜がなぜ進んで大政を奉還したのかの理由はこのことにある。さらに外国による開国の要求が高まったときに、幕府が旨く対応できなかったことは、ますます幕府を廃して、天皇とつながる必要性を高めた。水戸学から始まった皇国史観は、明治維新を経て、2.26事件に至る。反乱将校たちは、自分たちで理想的な天皇像を描き、まさかその天皇自身が自分たちを征伐しようなどとは考えなかった。

 峠からは昔からの登山道は有料となったため、林道を歩く 少し遠回り

 山頂の三角点 10時5分着 登山口からジャスト2時間 展望台にはアベックが

 峠から伊吹山を望むが厚い雲に覆われていた

 最後に、「下級将校の見た帝国陸軍」から引用する。そもそも、日本軍の戦いには理屈とは違う呪縛のようなもの(その正体がわからないから討論もできない。残るのは諦念と詠嘆)かあると七平は考え、その呪縛の正体を解明するため「現人神の創作者たち」を書くこととなった。日本軍壊滅の元凶となったのは、ほとんどの人が指摘する「員数主義」にある。要するに、外面的につじつまが合ってさえいれば良く、それを合わすための手段は問わない(となりの部隊から盗んでくる。実戦には使えないのに、あたかも使えるように報告する。)命令権者でない参謀が無謀な作戦を指示する(司令官が無能あるいは参謀が横暴。その最悪の例が辻政信。)戦闘集団としての軍隊は、だれかが衣食住、武器弾薬を支給しない限り成り立たない。日本軍は補給がたたれたとき、武器を生活用具とする生活者集団に変化せざるをえない。陸海を問わず日本軍の最も大きな特徴で、人があまり指摘していない特徴は「言葉」を奪ったことである。これが諸悪の根源だと思う。帝国陸軍は、日本国行政府の支配下になかったという意味で、天皇の軍隊であっても、日本国「政府軍」でないという形態にいつしか進んでいた。

 皇国史観を始めとした戦前の思想をきちんと総括してこそ、戦後は始めることができたはずだが、それを日本はしなかった。変わって日本はアメリカ教に振り回されているというのが七平の言うところである。自由、平和、人権の尊重、民主主義、友好外交そうした美名のかげにある実体はまやかしであり、戦後日本の出発点には大きな欠落がある。以上が七平の説くところであるが、こうした「まやかし」だと主張する知識人は多い。保守派の江藤淳、三島由紀夫、このブログで紹介した西部邁、佐伯啓思などなど多い。百田尚樹は保守の立場だと思うが、本当の保守とは何であるかわかっているのであろうか。保守を自称する保守もどきが増殖しているのではないだろうか。

 山本七平の思想を理解するのは難しく、ここに書いたことも間違ったところがあるかもしれない。皇国史観に興味があるならば、片山杜秀の「皇国史観」がずっとわかりやすい。
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