城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

教育という難題 21.1.6

2021-01-06 19:59:42 | 面白い本はないか
 今日は教育について書きたいので、少しおじさん自身の教育歴について話をする。もちろんこれはこの後に続けるテーマの導入として適当かなと思うためであり、決して自慢するとかでないことを述べておく。おじさんの両親は大正生まれであり、その学歴は高等小学校卒(当時父親の学歴を書く書類が結構あったように思うが正直言っていやだった。)であった(この時代としては庶民の普通の教育歴)。父親が戦争から帰ってきて産まれたのがおじさんで、小学校低学年は劣等生、中学年は普通、高学年はやや良、中学校は少し良、そして進学校に入り、名古屋の大学に入学した。当時大学まで進学する者はおよそ20%位であったと思う。では両親が教育熱心で家には本があった(教育環境、このほかに美術館とか音楽会に行っていたとか習い事をしていたかということも含まれる)かというと全然そうではない。家庭の所得から言うと結構無理していたかもしれないので、反対しなかっただけでも非常にラッキーだったと今更ながら思う次第である。大学卒同士で結婚し、生まれた子どもたちは当然のように大学卒となった。

 ここからが本題である。

 松岡亮二著「教育格差」から引用
実はこの問題全部で7個あり、恥ずかしながらおじさんの正答は1個だけ(質問4だけ、本当に情けない!)。有名な著者の書く教育論とか教育社会学の本を沢山読んできたのにこのていたらく。さあ皆さんはどうだろうか?

著者が最後の方にまとめてくれているので、それをそっくり引用する。( )は拙いおじさんの説明
 ①いつの時代にも教育格差・子どもの貧困がある(最近になって教育格差・子どもの貧困が酷くなったわけではない)
 ②教育意識の地域格差は2000年代以降拡大(要するに経済・文化等における地域格差が大きくなったことにより大学への進学意向に違いが出ている)
 ③住民大卒割合の地域格差が戦後一貫して緩やかに拡大
 ④格差は未就学時点で存在。親学歴によって子どもは異なる時間を過ごす(自然にまかせるかあるいは明確な意図を持って育てるかによる)
 ⑤「多様な(背景の)子が通う公立校」は小学校であっても幻想に過ぎない(同じような教育環境を持つ子どもが多くなる、出来る子が多い学と出来ない子が多い学校)
 ⑥中学校入学時点で経験の蓄積に大きな格差があり、中学校教育への適応度と関連している
 ⑦(略)
 ⑧高校受験によって、小中学校よりも大きな「生まれ」の学校間格差が生じる
 ⑨他国と比較すると日本の児童・生徒のPISA平均値は高い。しかし、うまれによる学力格差は平均並みに存在する。
 ⑩他国と比べて日本の高校教育制度は特異。制度によって底辺校が作られる。底辺校は家庭の教育資源が乏しく、教員の期待も低い
以下、最低限行って欲しいこととして
 ⑪現状把握なき「改革」のやりっ放しを止める 例として学校群、ゆとり教育(いずれも高学力の者を私学へ向かわせただけに終わる)
 ⑫分析可能なデータの継続的収集・効果測定による改善
 ⑬教員免許取得のための必修科目として「教育格差」を取り上げる(現状では漠然とした格差を認識できたとしてもきちんとした認識・対応はできない) 

 本文を読まずにまとめだけを見ても理解は難しいであろう。かなり端折って要約すれば、人間は生まれた瞬間からその両親あるいは育つ家庭の影響を受ける。教育環境の良い家庭の子どもは読み聞かせや習い事をさせたり、塾に通わせたりする。しかし、こうした子どもたちと家庭が貧しい、両親が仕事で忙しいなどにより教育環境に恵まれない子どもたちとの間では、既に小学校入学前に学力格差はできてしまう。その格差は学校において解消できるかというと、残念ながらこれはできない(日本の教育は各子どもに対する公平性という点で優れているものの、元々違うスタートラインに立つ子どもたちすべてを引き上げることまではできない)。また、比較的教育環境が良い子どもたちが多く住んでいる地域(親の大卒者の割合が高い地区)とそうでない地域とでは大きな格差が生まれる。その学力格差を決定的にするのが、高校受験であり、底辺校の子どもたちは学ぶことさえあきらめてしまう。世界中見回しても教育格差を解消した社会は存在しない(大きいか小さいかはある、日本は著者が言うところの「凡庸な格差」)。

 私たちはこうした社会を続けていくことが良いのか考えてみる必要がある。家庭に差があるのだから、あるいは個人の能力に差があるのだから仕方ないと考えるのか(こう考える人が結構多いかもしれないが、それを個人責任だとしているからなのかもしれない。制度を改善すればできるのだと考えることもできる。アメリカのノーベル経済学者ジョセフ・スティグリッツは様々な問題は制度を改善すればできると主張している。)一人一人の可能性を信じる著者が考えるのは、もちろんそうではない。15歳の高校受験で「身の程」を知るような社会ではなく、学び直しも含めて、全ての人が常に自分の可能性に挑戦できることが「常識」になり、大半の人々が現在の大学教育レベルの学識を持つ日が来ることを夢見るのは世迷い言だろうかと熱く語る。特に少子化で子どもの数は少なくなる。この子どもたちの出来るだけ多くがそれぞれ能力を発揮してくれることがなにより大事となっている。落ちこぼれをそのままにしておく余裕は日本にはないはずだ。

 著者が「おわりに」で述べていることが学者としての良心を現している気がする。いわく、私は教育格差を高SES家庭(いわゆる教育熱心な家庭)出身の学生(早稲田の生徒)に教えることで、「生まれ」の世代間再生産を強化している。この本に手を伸ばす人たちも大卒者が多いだろう。格差の現実を知って、自分の家族や身近な人たちに便益をもたらすかもしれない。住居を決めるとき、学区の大卒者割合を調べて選択するようになれば社会経済的な分断を後押ししていることとなる。私は教育格差を発信することで、格差の再生産を強化していることになる。私の両手も他者の血で赤く染まっている。

クイズの答え 質問1・小学校就学前、質問2・1年生から、質問3・変わらない、質問4・日本

 この本のかなりの部分が教育現場ではいわば常識となっていることを丁寧に少ないデータ(日本は教育や労働などで信頼に足る調査が行われていない、あたかも不都合な真実は調べもしないし、発表もしない)を駆使して裏付けているので、読むのに正直言って退屈で我慢を強いられた。しかし、後半では著者の熱い思いに触れ、本当に読んで良かったと思った。この本を知ったのは、少しだけ紹介した平田オリザ著「22世紀を見る君たちへ」だった。こちらの補充をすべきだったのだが、「教育格差」に方が先に来てしまった。次回はこの本をもう少し詳しく紹介する。

 
 
コメント
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