花に明かぬ嘆きや我が歌袋 芭蕉 24歳 寛文7年
「
華女 この句は何を詠んでいるのかしら。芭蕉が何を表現したのかしらね。
句郎 この句には前詞がある。「花の本にて発句望まれ侍りて」とある。桜の花の下で一句お願いしますと、芭蕉は依頼されたが、何も詠むことができなかった。俳諧師として恥ずかしい思いが湧きあがった。何も詠めませんと嘆いた。この嘆きを詠んだ句なんじゃないのかな。
華女 俳諧師のつもりになっていた若き芭蕉にも一句いかがですと依頼されても、恥ずかしながら,詠めませんという「嘆き」を詠んだということね。でも「花に明かぬ嘆き」とは、どんなことを言っているのかしら。
句郎 発句が詠めない苦しみからとっさに言葉が湧きでてきた。『伊勢物語』に親しんでいた芭蕉は在原業平の歌を思い出した。「花に飽かぬ嘆きはいつもせしかどもけふの今宵に似る時はなし」。この歌だ。「花に飽かぬ嘆き」を「花に明かぬ嘆き」としてみてはどうかなとね。
華女 業平の歌の「花飽かぬ嘆き」は分かるわ。桜の花はどんなに見ていても飽きることがない。花の美しさに魅入られてしまうことを嘆きと表現したということよね。でも「花に明かぬ嘆き」ということがピンとこないのよ。
句郎 「花に明かぬ嘆き」とは、花の美しさをどのように表現したらいいのか、分からないということを言っているのではないかと思っているんだけどね。
華女 「飽かぬ」を「明かぬ」と言い換えることによって「嘆き」の意味に句を詠めない苦しみ、恥ずかしさを持たせようとしたということね。
句郎 花に明け暮れる日を過ごしていても句が詠めない「我が歌袋」よということじゃないのかな。
華女 俳諧師を目指していてもちっとも句が詠めない。花を見ても何も見えてこない。このような苦しみを青年芭蕉は経験しているということね。青春の苦しみをしている芭蕉の姿が偲ばれるような句ね。
句郎 「飽かぬ」を「明かぬ」と言い換えることによって新しい発句を詠んでみようとしたところに芭蕉の若さのようなものを感じる。
華女 私たちと同じような芭蕉がいたという感じがする句だと思うようになったわ。
句郎 芭蕉は努力の人だったんだろうね。特に才能に恵まれた人でもなかったように感じるな。
華女 『新古今和歌集』や『伊勢物語』、『源平盛衰記』、『平家物語』などをむさぼり読んだというような青少年期を過ごした人だったのね。
句郎 そのような人だったことを思わせる句の一つが「花に明かぬ嘆きや我が歌袋」なのかもしれない。