あやめ草足にむすばん草鞋の緒 元禄二年 芭蕉
「名取川を渡て仙台に入。あやめふく日也。旅宿をもとめて、四、五日逗留す。爰(ここ)に画工加右衛門と云ものあり。聊(いささ)か心ある者と聞て、知る人になる。この者、年比(としごろ)さだかならぬ名どころを考置侍ればとて、一日案内す。宮城野の萩茂りあひて、秋の気色思ひやらるゝ。玉田・よこ野、つゝじが岡はあせび咲ころ也。日影ももらぬ松の林に入て、爰を木の下と云とぞ。昔もかく 露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。薬師堂・天神の御社など拝て、其日はくれぬ。猶、松島・塩がまの所々画に書て送る。且、紺の染緒つけたる草鞋二足餞(はなむけ)す。さればこそ、風流のしれもの、爰に至りて其実を顕す」と『おくのほそ道』に書き、「あやめ草」の句が載せてある。
『曽良旅日記』によると芭蕉と曽良が名取川を渡り、仙台に入ったのは旧暦の五月四日(新暦六月二十日)、その日は国分町大崎庄左衛門宅に泊めてもらっている。翌五月五日、端午の節句の日、俳諧師大淀三千風を曽良は訪ねるが逢うことはできなかった。しかし三千風の門人で画工の加右衛門と知り合うことができた。その日を加右衛門は待っていたのか、一日芭蕉と曽良とを連れ仙台の名所、歌枕を案内してもらっている。その一つが歌枕「宮城野の木の下」である。「みさぶらいみかさと申せ宮城野の木の下露は雨にまされり(お付きの人よ、(ご主人に)「御笠をどうぞ」と申し上げてください。この宮城野の木の下に落ちる露は雨以上に濡れますから)」。古今集にある詠み人知らずの歌の一部を芭蕉は紹介している。
あやめ草、菖蒲はその香りによって邪気を払うと思われていた。大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)の歌、「昨日までよそに思ひしあやめ草今日わが宿のつまと見るかな」が『拾遺和歌集』にある。きのうまで無縁なものと思っていたものが今日は我が家のつま(端)になっているんだなぁー。我が家を守ってくれているんだという感慨を詠んでいる。
また、あやめ草(菖蒲)には霊気がある。「ほととぎす鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな」古今集にある恋の歌である。ホトトギスが鳴き、あやめ草が生い茂ると訳も分からず人は恋に落ちる。人にそのような気力を与えてくれる草があやめ草だ。
端午の節句の日には風呂の湯にあやめ草、菖蒲を入れる。軒にあやめ草を家の軒に刺し、家内安全、家族の無病息災を願う風習が定着し、江戸時代からは男の子の成長を祝う日としての行事が定着していった。菖蒲は尚武(武事・軍事を尊ぶこと)になる。端午の節句は男の子を祝う祭事へなっていった。
あやめ草にはいろいろな人の思いが詰まっている。芭蕉はあやめ草の霊験、旅の安全を願い、旅の目的が全うできることを願った句が「あやめ草足に結ばん草鞋の緒」である。