醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  892号  白井一道

2018-10-25 14:26:35 | 随筆・小説


 あやめ草足にむすばん草鞋の緒 元禄二年  芭蕉



「名取川を渡て仙台に入。あやめふく日也。旅宿をもとめて、四、五日逗留す。爰(ここ)に画工加右衛門と云ものあり。聊(いささ)か心ある者と聞て、知る人になる。この者、年比(としごろ)さだかならぬ名どころを考置侍ればとて、一日案内す。宮城野の萩茂りあひて、秋の気色思ひやらるゝ。玉田・よこ野、つゝじが岡はあせび咲ころ也。日影ももらぬ松の林に入て、爰を木の下と云とぞ。昔もかく 露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。薬師堂・天神の御社など拝て、其日はくれぬ。猶、松島・塩がまの所々画に書て送る。且、紺の染緒つけたる草鞋二足餞(はなむけ)す。さればこそ、風流のしれもの、爰に至りて其実を顕す」と『おくのほそ道』に書き、「あやめ草」の句が載せてある。
 『曽良旅日記』によると芭蕉と曽良が名取川を渡り、仙台に入ったのは旧暦の五月四日(新暦六月二十日)、その日は国分町大崎庄左衛門宅に泊めてもらっている。翌五月五日、端午の節句の日、俳諧師大淀三千風を曽良は訪ねるが逢うことはできなかった。しかし三千風の門人で画工の加右衛門と知り合うことができた。その日を加右衛門は待っていたのか、一日芭蕉と曽良とを連れ仙台の名所、歌枕を案内してもらっている。その一つが歌枕「宮城野の木の下」である。「みさぶらいみかさと申せ宮城野の木の下露は雨にまされり(お付きの人よ、(ご主人に)「御笠をどうぞ」と申し上げてください。この宮城野の木の下に落ちる露は雨以上に濡れますから)」。古今集にある詠み人知らずの歌の一部を芭蕉は紹介している。
 あやめ草、菖蒲はその香りによって邪気を払うと思われていた。大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)の歌、「昨日までよそに思ひしあやめ草今日わが宿のつまと見るかな」が『拾遺和歌集』にある。きのうまで無縁なものと思っていたものが今日は我が家のつま(端)になっているんだなぁー。我が家を守ってくれているんだという感慨を詠んでいる。    
 また、あやめ草(菖蒲)には霊気がある。「ほととぎす鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな」古今集にある恋の歌である。ホトトギスが鳴き、あやめ草が生い茂ると訳も分からず人は恋に落ちる。人にそのような気力を与えてくれる草があやめ草だ。
 端午の節句の日には風呂の湯にあやめ草、菖蒲を入れる。軒にあやめ草を家の軒に刺し、家内安全、家族の無病息災を願う風習が定着し、江戸時代からは男の子の成長を祝う日としての行事が定着していった。菖蒲は尚武(武事・軍事を尊ぶこと)になる。端午の節句は男の子を祝う祭事へなっていった。
 あやめ草にはいろいろな人の思いが詰まっている。芭蕉はあやめ草の霊験、旅の安全を願い、旅の目的が全うできることを願った句が「あやめ草足に結ばん草鞋の緒」である。

醸楽庵だより  891号  白井一道

2018-10-25 14:26:35 | 随筆・小説


 笠島はいづこさ月のぬかり道 元禄二年  芭蕉

「鐙摺(あぶみずり)、白石の城を過、笠島の郡(こおり)に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと、人にとへば、是より遥右に見ゆる山際の里を、みのわ・笠島と云、道祖神の社 、かた見の薄、今にありと教ゆ。此比(このごろ)の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺やりて過るに、簑輪・笠島も五月雨の折にふれたりと」と、『おくのほそ道』にある。その後にこの句が載せてある。また「藤中将真方(とうのちゅうじょうさねかた)のつかは、ミちのく名取郡かさしまといふ処(ところ)にありとかや。枯野の薄とよみ侍る西上人のうたさえ、今かなしびのかずにくははりて、あはれに覚え侍れば、ゆきてみむ事しきりなれども、この比降つづきたる五月雨に、道いとあしきなれば、わりなくてすぎぬ」とてう文章も伝わっている。
 西行を慕っていた芭蕉は笠島で西行が詠んだ歌を諳んじていた。「朽ちもせぬその名ばかりを留め置て枯野の薄形見にぞ見る」。西行は藤中将の塚の前でこの歌を詠んでいた。西行の時代にはすでに藤中将の伝説は「枯野の薄」になっていた。
『山家集』にあるこの歌には次のような前詞が載せてある。「西行の陸奥の国にまかりたりけるに、野の中に常よりもとおぼしき塚の見えけるを、人に問ひければ、中将の御墓と申は是が事なりと申ければ、中将とは誰がことぞと、又問ひければ、実方の御事なりと申ける、いとかなしかりけり。さらぬだに物哀に覚えけるに霜枯れの薄、ほのぼの見えわたりて、   のちに語らんも言葉なきやうにおぼえて」とある。
「笠島」は歌枕だ。歌枕「笠島」を訪ねて行ったが、「笠島」を遠くに見てその場所に行くことができなかった。芭蕉は歌枕「笠島」にどのようなイメージを描いたのだろうか。ただ「枯野の薄」があるだけの普通のどこにでもある風景を思い浮かべていたのだろうか。里山の風景を思い描いていたのかもしれない。しかしその場所で西行が歌を詠んだ場所だと思うだけで感動することができたのだろうか。
「笠島」は『万葉集』にも詠まれている。
草陰の荒藺(あらい)の崎の笠島を見つつか君が山路越ゆらむ  万葉集  
この歌に詠われている「笠島」が現在の宮城県名取郡笠島だと考えると「草陰の荒藺(あらい)の崎」、この地名を解明する必要がある。「草陰」を「荒藺(あらい)の崎」にかかる枕詞として理解しても、「荒藺(あらい)の崎」が不明である。ここで一つの仮説がある。「荒藺(あらい)の崎」が葬所、万葉の時代、死者を葬った場所だという仮説である。この防人の歌は都に連れ去られていった夫を詠んだ妻の歌になる。解釈は「あの世に旅立たれてしまわれた貴方を、私たちは葬所である笠島の地に丁重に葬り終えました。貴方の亡骸が眠るその荒藺の崎の笠島を、遙か上空から眺めやりながら、貴方は死出の山路をたった一   人で今現在、越えていらっしゃるのでしょうか。私たちは、海の彼方にあるという黄泉の世界に、貴   方が無事にたどり着かれることをただ願い、祈るばかりです」。このような鎮魂の歌になるというのだ。
防人として出兵することは死を意味した。「笠島」とは、墓所、死者を鎮魂するところ。それは枯野の薄、藤中将実方の魂を鎮めるところ、そのような認識が芭蕉にはあったかもしれない。
「笠島はいづこ」、古人の魂が彷徨っていることはないだろうか。五月雨によって道がぬかるみ、探すことができず、供養できないのが残念でならない。このような万葉の歌人、藤中将実方、西行を偲び詠んだ句が「勝島はいづこさ月のぬかりみち」だったのかな。