「時雨をやもどかしがりて松の雪」芭蕉二三歳 寛文6年(1666)
華女 このような句を私が詠んで句会に出したならコテンパンにやられてしまうわ。そうでしょ、この句は季重なりと言って誰からも採ってもらえないと思うわ。
句郎 「時雨」は冬の季語、「雪」もまた冬の季語ということかな。
華女 季重なりの句で有名な句もあるわよ。最も有名なところでは「目には青葉 山ほととぎす初がつを」、山口素堂の句ね。季語が三つも入っている有名な句よね。
句郎 芭蕉の句にも季重なりの句があるな。『おくのほそ道』に載せてある句「啄木も庵はやぶらず夏木立」。この句も現代にあっては季重なりということになるかな。「啄木鳥」は秋の季語、「夏木立」は夏の季語だから。
華女 啄木鳥というと水原秋櫻子の季重なりの有名な句があるわね。「啄木鳥や 落ち葉をいそぐ 牧の木々」。「啄木鳥」と「落ち葉」よね。この句は「啄木鳥」と「落ち葉」との主従というか、何を詠んでいるのかというのが明確に読者に伝わる句はいいと聞いたことがあるわ。秋櫻子は啄木鳥を詠んでいることが読者に伝わるからいいということなのよね。
句郎 芭蕉の句「啄木も」の句は「夏木立」を詠んでいることが読者に伝わるからいいということになるということかな。
華女 そうなのよ。芭蕉の句「時雨をや」の句は「松の雪」の「雪」を詠んでいることが読者に伝わるからいいと思うわ「もどかしがりて」という言葉が今ではちょっとわかりづらい言葉ね。
句郎 「もどかしい」と言う言葉は今でも使われているのじゃないかと思う。「きがもめる」とか、「じれったい」と言う意味だと思う。
華女 「気がもめて」いるのは誰なのかしら。
句郎 季を揉んでいのは芭蕉本人なんじゃないの。時雨がいつまでも降ったり止んだりしているのがもどがしく芭蕉は感じていただと思う。
華女 「時雨をやもどかしがりて松の雪」ということは、「雪」を擬人化しているのね。
句郎 「松の雪」は時雨を間違いなく「もどかしがって」いるに違いない。芭蕉は自分の思いを「松の雪」に託した。
華女 俳句を詠む場合、できるだけ擬人法は避けた方がいいという話を聞いたことがあるわ。
句郎 擬人法を使った芭蕉の名句があるよ。最上川を船で下った芭蕉は「五月雨をあつめて早し最上川」と詠んでいる。名句の誉れ高い句として知られている。擬人法が嫌われる理由は何なのかな。
華女 確かに擬人法を用いた名句があるのを私も知っているわ。「大寺を包みてわめく木の芽かな」と高浜虚子は詠んでいるわ。「木の芽」が「わめく」と虚子は詠んでいるのよ。この句は擬人法の句よね。でも上手よね。芭蕉や虚子は名人だから擬人法の句を詠んでもいいのよ。俳句初心者が擬人法の句を詠むとわざとらしさというか、気取りが見え見えで嫌味になってしまうみたいよ。
句郎 若き芭蕉の句「時雨をや」の句は擬人法の句で嫌味の句だという人がいるみたいだ。
華女 雪が時雨をもどかしがっているということね。ここに嫌味があるということね。分かるような気がしてきたわ。芭蕉もまだ俳句初心者だったということね。
句郎 岩波新書小宮豊隆著『芭蕉俳句抄』に「時雨をや」の句が紹介されている。この著書は1961年に出版され、私か読んだものは1972年に印刷された13版のものだ。この小宮の著書は読者の共感を得たものだと思う。この中で小宮は芭蕉の実感が表現された句として紹介している。夏目漱石の弟子「漱石山房」に集まった小説家小宮の芭蕉俳句解釈はそれなりに評価されていると思う。小宮の批評を読み、夕べからあり続けた時雨がいつの間にか、雪が変わり朝起き戸を開けてみると松の枝に積もった雪を見、その美しさに感動した芭蕉の実感がこの句には表現されていると主張し、擬人法の句だという理由で嫌味の句だとは言えないと主張している。
華女 降りみ降らずみの時雨に溜まり兼ねた雪がよくぞ枝に降り積もってくれたと芭蕉は感じたということね。