「雲とへだつ友かや雁の生き別れ」芭蕉二九歳 寛文一二年(1672)
句郎 この句には次のような文章が残っている。「かくて蝉吟子の早世の後、寛文一二子の春29歳仕官辞して甚七と改め、東武に赴く時、友だちの許へ留別」。竹人著『芭蕉翁全伝』にこのような文章がある。
華女 芭蕉が江戸に立つときに仲間に贈った留別吟だったということね。
句郎 芭蕉が仕官していた藤堂蝉吟が寛文6年亡くなった。それから6年間、芭蕉は藤堂藩に仕えていた。がしかし、寛文12年に官を辞し江戸に出て、俳諧師として立机する夢を抱いて故郷伊賀上野を後に江戸に向かった。
華女 江戸には伝手があったのかしら。
句郎 芭蕉は主君蝉吟亡きあとも京の北村季吟の下に通い、古典文学を学んでいたようだ。その北村季吟の伝手を頼って江戸に出たのだと思う。
華女 元禄時代には地方の人が仕事を求めて東京に出てくるようなことがもうすでに始まっていたということなのね。
句郎 東京の下町、太陽のない街、長屋街、貧民窟がつくられていった。
華女 東京の下町には江戸開府以来300年にわたる歴史があるということなのね。
句郎 芭蕉も仕事を求めて江戸に出た。江戸には俳諧の需要があると考えたんだと思う。
華女 京や大坂でなく、江戸に出たということが芭蕉を芭蕉にしたということかしらね。
句郎 そのとおり。京や大坂では蕉風の俳諧を完成させることはできなかったと思う。芭蕉は江戸に出たからこそ俳諧宗匠になり、新しい俳諧を想像することができた。
華女 どうしてそんなことが言えるの?
句郎 京や大坂には古い俳諧宗匠たちの堅い地盤が張っていたからね。新しい俳諧を創造するには抵抗が強いだろうからね。芭蕉は江戸に出たからこそ若くして俳諧宗匠として立机することができた。
華女 芭蕉は目端の利く人だったのね。
句郎 江戸に出た芭蕉は上水道建設やらその維持管理の仕事を請け負う商売人としても成功しているようだからね。
華女 孤高の俳人というイメージが芭蕉にはあるわよね。でも違っているのね。生活力旺盛な俳人だったということなのね。
句郎 どうもそうだよ。田中善信著『芭蕉二の顔』を読むと高校生の頃、国語の授業で培ったイメージが壊されたかな。
華女 考えてみればそうよね。伊賀上野の田舎から江戸に出てきて錦を飾って帰郷した俳諧師ですものね。
句郎 渡り鳥、雁の旅たちに擬えて江戸への旅立ちを芭蕉はこの句で詠んでいる。自然を詠んで人間を表現している。
華女 人間が表現されていなければ文学じゃないということなのよね。
句郎 人生とは出会いと別れだから別れ、留別というのは俳句の主題の一つだ。芭蕉にはいくつものの留別吟がある。
華女 『おくのほそ道』は別れで始まり、また新しい別れで終わっているのじゃないかしら。
句郎 そうかな。「行く春や鳥啼魚の目は泪」。日光街道出発、千住で詠んだ句はまさに別れの句で始まっている。最後の句「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」だ。別れは同時に新し出会いでもあるからな。大垣で終わった陸奥への旅の終わりはまた新しい伊勢路への旅の始まりだった。
句郎 「雲とへだつ友かや雁の生き別れ」の「雁」と「仮」とは掛詞にしているのかもしれないな。また「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」の「ふたみ」は「二見ケ浦」の「二見」を掛けているようだから芭蕉の句には談林派俳諧の発句の強い影響が生涯ついてまわっていた。俳諧読者の支持を得ることなしに芭蕉は生きることができなかった。だから談林派的な俳句を芭蕉は詠んでいるのではないかと考えている。何も食わずに生きることはできない。だから支持者の共感が必要だ。それは文学者芭蕉の求めるものではなくとも談林派的な句を詠まざるを得なかった。ここに芭蕉の生きる哀しみがあったのではないかと考えている。