上着きてゐても木の葉あふれだす 鴇田智哉
日曜、朝のNHK俳句を楽しみにしている。先日、神野紗希氏がゲストとして出演し、鴇田智哉氏の句を紹介した。この句は現代の
気分が表現されているというような発言をした。鴇田氏の句が何を表現しているのか、私には全然わからなかった。寒くなってきたか
ら上着をきてゐても「この葉あふれ出す」。何を言っているのか、全然通じない。こんなのが現代の俳句なのか。こんな句が今の若者の心に染みるとはなになんだ。
調べてみたら、鴇田氏は45歳だ。若者とは言えないな。中年の親爺がこんな人を煙に巻くような句を詠み、若い俳人と称する人々に人気を得ているようだ。
また、「上着きてゐても」と「い」の字を旧仮名「ゐ」を用いている。現代仮名遣いの「い」ではなく、旧仮名の「ゐ」で表現しようとしたことは何なのか。「ゐ」は「wi」だ。だから少し間ができる。「い」は「i」だ。間が抜けるのかな。「ゐ」の方が「い」よりゆっくりした時間が流れるように感
じる。何べんも声を出してこの句を読んでいるうちにふっと気づいた。寒くなってきたなー。上着を着ていーても木の葉が木から落ちてくるように私の心から言の葉があふれてくる。そういえば、今の日本社会は経済成長が止まり、給料が上がっていくことがない。正規職員への就職は難しい。豊かさのようなものが感じられない。上着を着ていても、寒い、寒いと木の葉があふれだすように不平、不満があふれだしてくる。
バブル景気に酔った若者がジュリアナ東京で踊り狂った話を聞くにつけ、今の若者はなんと寂しく、寒いのか、こんな若者の気分を
表現したものが鴇田氏の句なのかもしれないと感じた。今の若者は寒くなっていく時代を軽く軽く受け流している。鴇田氏の句のこの軽さが今の若者の心に染みるのかもしれない。
鴇田氏は上着を着て散歩でもしていた時の心象風景を詠んだものと私は理解した。
鴇田氏はまた、文語でこの句を表現している。文語で句を詠むとどのような効果があるのだろう。
山本健吉の「現代俳句」を読んだときに心に残った句があった。芝不器男の句である。「人入って門のこりたる暮春かな」。行く春の情緒が静かに表現されているなぁーと、しばらくぼんやりしていたことを思い出す。もう一句。「白藤の揺りやみしかばうすみどり」。垂れ下がった白い藤が静かに風に揺れている。揺れている白い藤の揺れが止まると白い藤に葉の緑が反射するのか薄緑に見える。ただそれだけの句だ。藤棚の下に一人たたずみ、藤の花をぼんやり眺めている自分が想像される。なんとなくゆったりした自分一人の時間が表現されているなぁー。
これはもしかしたら文語で表現されているからなのかなと鴇田氏の句を読み感じた。
『青春の文語体』」の中で安野光雅が言っている言葉を読んだ。文語文を知らなくとも楽しく生きていける。ただ「本当の恋をしらず」におわるだけだ。
文語文を読むと人を大事にする気持ちがそこはかとなく湧いてくるのかもしれない。それは言葉が流れていく時間がゆっくりしているから。ゆったりした時間間隔が芝の句の魅力になっているのだ。