黒田官兵衛という人物には、戦国武将の一人として関心を抱いている。
本書のタイトル「風の王国」という言葉と「異聞」にまず興味を抱いた。「異聞」という言葉を見ると、何かおもしろいことが書かれているのだろうとワクワクする。
本書は黒田官兵衛という秀吉の軍師にもなり、戦国の世を行き抜いたキリシタン大名が抱き続けた謀をテーマに、様々な角度からその一つの謀を実行展開していく過程に迫った短編集だった。その謀を「異聞」と称するのだろう。
本書は「太閤謀殺」「秘謀」「謀攻関ヶ原」「背教者」「伽羅奢-いと女覚え書-」という五編で構成されている。
秀吉が伴天連追放令を出した時の有力なキリシタン大名は、高山右近、蒲生氏、小西行長、黒田如水の四人。官兵衛の如水という号はポルトガル語のジョスエを表すという。「ジョスエとはエジプトの奴隷となっていたユダヤ民族を脱出させ、約束の地カナンに向かった預言者モーゼの後継者ヨシュアのことだ。」という。
著者は「如水=ヨシュア」というところから、点の史実を縦横に絡ませ、膨らませて、線とし面として行ったのだろう。伴天連追放令の出た後のこの日本に、キリシタンの王国を造るという一つの強烈な謀を胸中に秘めて、如水が様々に行動していく。新たな官兵衛像が築かれている。
もう一つ、私がびっくりし一層興味を覚えたのは、著者がこの小説に不干斎ハビアンを登場させていることだ。この小説で、こんなに早く再びハビアンという人物に、たとえフィクションの世界とはいえ、出会うとは思ってもいなかったから・・・・(『不干斎ハビアン 神も仏も棄てた宗教者』釈撤宗著・新潮選書について10月31日に載せています)
ハビアンとガラシャ夫人は、官兵衛の背景に置かれた著者のサブテーマでもあるように感じた。この二人についても私は「異聞」の類だと思う。
さて、どんな視点から各短編が紡ぎ出されているかに触れてみる。
「太閤謀殺」
天正15年(1587)、秀吉が九州を平定し、伴天連追放令を出したことから、秀吉の軍師としてまさに水魚の交わりというくらいの関係であった官兵衛の心は秀吉から離れて行く。文禄4年(1595)関白豊臣秀次とその眷属は、秀吉に謀反の疑いをかけられ、切腹或いは極刑にされる。文禄元年に秀吉は朝鮮に侵攻する(文禄の役)。この時、小西行長がなぜ大いに戦働きをしたのかという背景を語りながら、著者は官兵衛の謀の始まりを重ねていく。そして1597年の慶長の役。太閤を渡海させるように仕向け、「戦は戦で終わらせる」、秀吉を戦で倒すという如水の謀が続くのだが・・・。
時を同じくして、ゴアのヴァリニャーノ巡察使から、パードレのペドロ・ゴメスに、日本人修道士ジョアン宛の手紙とある物が送られてくる。ある物とは、「ボルジア家の毒薬」カンタレラを仕込んだ指輪だという。だがそれは持ち出されてしまう。何と持ち出した修道士がハビアンなのだ。
そのハビアンはガラシャ夫人を介して、官兵衛に会う。そして指輪は如水の手に渡る。 秀吉の死にカンタレラが絡んでいくという発想がおもしろい。
「秘謀」
官兵衛の死。2年後、慶長11年(1606)夏、筑前黒田藩から後藤又兵衛は出奔する。又兵衛は豊前細川藩の藩主細川忠興にある密謀の経緯を語る。関ヶ原の戦の頃、九州に居た官兵衛は、「石垣原の合戦」で豊前・豊後の二国を手に入れる。九州で兵をあげたのは、キリシタンの王国を造らんがためだったと・・・・。
如水の遺言により、福岡の教会で葬儀が行われ、ハビアンがその追悼式で話をする。黒田家にとって、如水の謀は隠し通さねばならない秘謀となっている。だがそのハビアンが林羅山との教義問答の際、如水のことを迂闊にももらしたという。ハビアンは黒田家にとって斬らねばならぬ人物になった。又兵衛がハビアンを斬るという。
そして、又兵衛が出奔したのは、黒田如水の最後の謀だったのだと。
又兵衛を介して如水、ハビアン像が語られる点が、興味深い。ハビアンの著した教義書『妙貞問答』にガラシア夫人が関わっていたとか、ハビアンの棄教に又兵衛がなにがしか関わったという想定に、歴史小説の面白さを感じる。まさに異聞か。
「謀攻関ヶ原」
秀吉の伴天連追放令によりイエズス会が逼塞している中、スペイン系のフランシスコ会が京で公然とした布教をして秀吉の怒りを買う。そして、慶長元年(1596)、長崎の西坂でフランシスコ会のパードレら26人が殉教するという事態が起こる。その26人の中に、イエズス会の信徒も巻き込まれていた。フランシスコ会は徳川家康に接近していく。
信長の嫡男信忠の嫡子、その幼児名は三法師。秀吉は秀信(三法師)に天下を引き渡すのではなく、美濃の大名、岐阜城の城主とした。その秀信は文禄3年(1594)にキリシタンとなる。
秀吉亡き後、イエズス会のヴァリニャーノは、織田秀信をテンカ様にしたいと望む。如水は謀る。「まずは、家康を助け、天下を争う戦を引き起こさねばなりませんな」と。その戦の地は関ヶ原と如水は予測する。「関ヶ原で勝つのは、徳川でもなく豊臣でもなく、織田でござる」
関ヶ原の合戦の裏には、キリシタン王国を造るという企てが進行していた。そこに光秀の娘、ガラシャ夫人と信長の孫・秀信がキリシタンとして奇縁で繋がっていく。さらにその背景にはイエズス会とフランシスコ会の確執があった。又兵衛は如水の黒子として立ち働いていく。
だが、大阪方の人質になることを拒絶したガラシャ夫人の死。ガラシャ夫人が亡くなったのは細川忠興が殺させたのだと、石田三成の謀臣島左近が秀信に使者として伝えていた。如水の謀は崩れていく。
関ヶ原の合戦には、キリシタン王国を造るという策謀が一枚絡んでいたという。この発想の広がりがおもしろい。
「背教者」
元和7年(1621)3月、長崎西坂に近い丘の藁ぶき家に、旅姿の武家の娘らしきみなりの者が訪れる。清原いとの娘と名乗る。この家に昨年から住み着いていた男の名は不干斎。 細川ガラシャとその小侍従清原いとの協力で、不干斎ハビアンが『妙貞問答』を書いたことが語られる。そして、娘が不干斎に尋ねたのは、「なぜ不干斎様が変わられたのか」ということ。母いとが尋ねたいと望んだことなのだと。
不干斎は、原田喜右衛門に会ったことが、棄教の道へと歩ませたのだと物語っていく。 宗教と貿易、二十六聖人の殉教、慶長元年(1596)のスペイン船サン=フェリペ号の土佐沖漂着など、キリシタンの事象すべてが絡み合って関わっていく。そして、ボルジア家の指輪とそれに仕込まれたカンタレラを日本にもたらされたこと。ハビアンがカンタレラにかかわって行った経緯。ハビアンに又兵衛が白刃を突きつけたときに言い捨てた又兵衛の言葉。
「もはや、心の中にデウスはおるまい」
なぜ、ハビアンが棄教したのか。その謎、経緯をこの短編で著者は紡いでいく。真実味を帯びた虚構性をひととき味わえる短編に仕上がっている。
「伽羅奢-いと女覚え書-」
ガラシャ夫人の小侍従として仕えた清原いとの回想という形で、ガラシャ夫人の思いの真実を語るという一編。「ガラシャ様のようにデウスを信じられるのか、ひとを愛することができるのか。それにしても、ガラシャ様はどなたを愛おしく思われたのか」
16歳で光秀の莫逆の友、細川幽斎の嫡男忠興に嫁いだ玉(ガラシャ)と忠興の二人の関係・有り様。ガラシャと秀信の奇縁。幽斎とガラシャの会話で、幽斎は光秀が山崎の戦いで敗れた後落ちのびて、キリシタンになったという噂、そしてその人物は昔のことを覚えていないのだということをガラシャに伝えたこと。幽斎が抱く「謀反の疑いをかけられては家を保てぬ」という疑念。日本人修道士ジョアンが、ガラシャ夫人の同席で、秀信に「キリシタンの天下人になっていただきたい」とヴァリニュアーノの意図を伝えた話。これらが一連のこととして語られていく。そして、忠興が上杉討伐の戦に加わることになるにあたって、ガラシャに言い置いた言葉が加わる。
ガラシャ夫人が人質となることを拒否し、亡くなった後、関ヶ原の戦のさなかに、いとはガラシャ夫人の思いを伝えるために織田秀信の陣に赴く。如水の密使としてひそかに秀信と会おうとしていた又兵衛と出会い、ともに秀信の陣に行く。しかし、事態は既に動いていた。ガラシャと秀信の思いが重ならない結末。
ガラシャ夫人が果たした役割。著者は史実の読み取りの中にロマンを織り込んでいく。
「謀攻関ヶ原」に、ジョアンと如水の対話-「かなわぬ夢」-が記されている。
如水はジョアンに言う。
「キリシタンにとって、キリシタンの天下人が現れることが、もっともよいことです。しかし、それは、キリシタンではないひとびとにとっては望ましいことではございますまい。かなわぬ夢というより、かなえてはならぬ夢だと思ったのでござる」
「キリシタンの天下人を望みはしませんでしたが、キリシタンが禁じられずに生きることができる国を造りたかったのです」
「キリシタンは異国からこの国に吹いた風でござった。われらは風となって生きましたが、風はいつかは吹き去る日が来るのです」
『風の王国』というタイトルに、この如水の思いが込められているようだ。
キリシタンが禁じられずに生きられる国を造ろうとする如水の謀の展開という筋を、さまざまな視点からの短編という形でコラージュしていった作品だと私は思った。
ネットを検索していて、黒田官兵衛の辞世の句というのに出会った。
おもひおく言の葉なくてつひに行く道は迷はじなるにまかせて
ご一読、ありがとうございます。
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本書を読み、ネット検索して背景を知るとともにイメージを拡げてみた。
検索語句のリストをまとめる。
黒田官兵衛 :ウィキペディア
黒田氏 :「SENGOKU」サイトから
黒田官兵衛 :YouTube
細川ガラシャ :ウィキペディア
織田秀信 :ウィキペディア
グネッキ・ソルディ・オルガンティノ :ウィキペディア
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ :ウィキペディア
日本二十六聖人 :ウィキペディア
日本二十六聖人記念館HP
キリシタン大名一覧表 :結城了悟氏
ボルジア家 :「グレゴリオス講座」サイトから
チェザーレ・ボルジア :「チェザーレ・ボルジアとその周辺」サイトから
イエズス会 :ウィキペディア
フランシスコ会 :ウィキペディア
「黒田官兵衛を歩く」(神戸新聞連載) :「播磨の黒田武士顕彰会」サイトから
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本書のタイトル「風の王国」という言葉と「異聞」にまず興味を抱いた。「異聞」という言葉を見ると、何かおもしろいことが書かれているのだろうとワクワクする。
本書は黒田官兵衛という秀吉の軍師にもなり、戦国の世を行き抜いたキリシタン大名が抱き続けた謀をテーマに、様々な角度からその一つの謀を実行展開していく過程に迫った短編集だった。その謀を「異聞」と称するのだろう。
本書は「太閤謀殺」「秘謀」「謀攻関ヶ原」「背教者」「伽羅奢-いと女覚え書-」という五編で構成されている。
秀吉が伴天連追放令を出した時の有力なキリシタン大名は、高山右近、蒲生氏、小西行長、黒田如水の四人。官兵衛の如水という号はポルトガル語のジョスエを表すという。「ジョスエとはエジプトの奴隷となっていたユダヤ民族を脱出させ、約束の地カナンに向かった預言者モーゼの後継者ヨシュアのことだ。」という。
著者は「如水=ヨシュア」というところから、点の史実を縦横に絡ませ、膨らませて、線とし面として行ったのだろう。伴天連追放令の出た後のこの日本に、キリシタンの王国を造るという一つの強烈な謀を胸中に秘めて、如水が様々に行動していく。新たな官兵衛像が築かれている。
もう一つ、私がびっくりし一層興味を覚えたのは、著者がこの小説に不干斎ハビアンを登場させていることだ。この小説で、こんなに早く再びハビアンという人物に、たとえフィクションの世界とはいえ、出会うとは思ってもいなかったから・・・・(『不干斎ハビアン 神も仏も棄てた宗教者』釈撤宗著・新潮選書について10月31日に載せています)
ハビアンとガラシャ夫人は、官兵衛の背景に置かれた著者のサブテーマでもあるように感じた。この二人についても私は「異聞」の類だと思う。
さて、どんな視点から各短編が紡ぎ出されているかに触れてみる。
「太閤謀殺」
天正15年(1587)、秀吉が九州を平定し、伴天連追放令を出したことから、秀吉の軍師としてまさに水魚の交わりというくらいの関係であった官兵衛の心は秀吉から離れて行く。文禄4年(1595)関白豊臣秀次とその眷属は、秀吉に謀反の疑いをかけられ、切腹或いは極刑にされる。文禄元年に秀吉は朝鮮に侵攻する(文禄の役)。この時、小西行長がなぜ大いに戦働きをしたのかという背景を語りながら、著者は官兵衛の謀の始まりを重ねていく。そして1597年の慶長の役。太閤を渡海させるように仕向け、「戦は戦で終わらせる」、秀吉を戦で倒すという如水の謀が続くのだが・・・。
時を同じくして、ゴアのヴァリニャーノ巡察使から、パードレのペドロ・ゴメスに、日本人修道士ジョアン宛の手紙とある物が送られてくる。ある物とは、「ボルジア家の毒薬」カンタレラを仕込んだ指輪だという。だがそれは持ち出されてしまう。何と持ち出した修道士がハビアンなのだ。
そのハビアンはガラシャ夫人を介して、官兵衛に会う。そして指輪は如水の手に渡る。 秀吉の死にカンタレラが絡んでいくという発想がおもしろい。
「秘謀」
官兵衛の死。2年後、慶長11年(1606)夏、筑前黒田藩から後藤又兵衛は出奔する。又兵衛は豊前細川藩の藩主細川忠興にある密謀の経緯を語る。関ヶ原の戦の頃、九州に居た官兵衛は、「石垣原の合戦」で豊前・豊後の二国を手に入れる。九州で兵をあげたのは、キリシタンの王国を造らんがためだったと・・・・。
如水の遺言により、福岡の教会で葬儀が行われ、ハビアンがその追悼式で話をする。黒田家にとって、如水の謀は隠し通さねばならない秘謀となっている。だがそのハビアンが林羅山との教義問答の際、如水のことを迂闊にももらしたという。ハビアンは黒田家にとって斬らねばならぬ人物になった。又兵衛がハビアンを斬るという。
そして、又兵衛が出奔したのは、黒田如水の最後の謀だったのだと。
又兵衛を介して如水、ハビアン像が語られる点が、興味深い。ハビアンの著した教義書『妙貞問答』にガラシア夫人が関わっていたとか、ハビアンの棄教に又兵衛がなにがしか関わったという想定に、歴史小説の面白さを感じる。まさに異聞か。
「謀攻関ヶ原」
秀吉の伴天連追放令によりイエズス会が逼塞している中、スペイン系のフランシスコ会が京で公然とした布教をして秀吉の怒りを買う。そして、慶長元年(1596)、長崎の西坂でフランシスコ会のパードレら26人が殉教するという事態が起こる。その26人の中に、イエズス会の信徒も巻き込まれていた。フランシスコ会は徳川家康に接近していく。
信長の嫡男信忠の嫡子、その幼児名は三法師。秀吉は秀信(三法師)に天下を引き渡すのではなく、美濃の大名、岐阜城の城主とした。その秀信は文禄3年(1594)にキリシタンとなる。
秀吉亡き後、イエズス会のヴァリニャーノは、織田秀信をテンカ様にしたいと望む。如水は謀る。「まずは、家康を助け、天下を争う戦を引き起こさねばなりませんな」と。その戦の地は関ヶ原と如水は予測する。「関ヶ原で勝つのは、徳川でもなく豊臣でもなく、織田でござる」
関ヶ原の合戦の裏には、キリシタン王国を造るという企てが進行していた。そこに光秀の娘、ガラシャ夫人と信長の孫・秀信がキリシタンとして奇縁で繋がっていく。さらにその背景にはイエズス会とフランシスコ会の確執があった。又兵衛は如水の黒子として立ち働いていく。
だが、大阪方の人質になることを拒絶したガラシャ夫人の死。ガラシャ夫人が亡くなったのは細川忠興が殺させたのだと、石田三成の謀臣島左近が秀信に使者として伝えていた。如水の謀は崩れていく。
関ヶ原の合戦には、キリシタン王国を造るという策謀が一枚絡んでいたという。この発想の広がりがおもしろい。
「背教者」
元和7年(1621)3月、長崎西坂に近い丘の藁ぶき家に、旅姿の武家の娘らしきみなりの者が訪れる。清原いとの娘と名乗る。この家に昨年から住み着いていた男の名は不干斎。 細川ガラシャとその小侍従清原いとの協力で、不干斎ハビアンが『妙貞問答』を書いたことが語られる。そして、娘が不干斎に尋ねたのは、「なぜ不干斎様が変わられたのか」ということ。母いとが尋ねたいと望んだことなのだと。
不干斎は、原田喜右衛門に会ったことが、棄教の道へと歩ませたのだと物語っていく。 宗教と貿易、二十六聖人の殉教、慶長元年(1596)のスペイン船サン=フェリペ号の土佐沖漂着など、キリシタンの事象すべてが絡み合って関わっていく。そして、ボルジア家の指輪とそれに仕込まれたカンタレラを日本にもたらされたこと。ハビアンがカンタレラにかかわって行った経緯。ハビアンに又兵衛が白刃を突きつけたときに言い捨てた又兵衛の言葉。
「もはや、心の中にデウスはおるまい」
なぜ、ハビアンが棄教したのか。その謎、経緯をこの短編で著者は紡いでいく。真実味を帯びた虚構性をひととき味わえる短編に仕上がっている。
「伽羅奢-いと女覚え書-」
ガラシャ夫人の小侍従として仕えた清原いとの回想という形で、ガラシャ夫人の思いの真実を語るという一編。「ガラシャ様のようにデウスを信じられるのか、ひとを愛することができるのか。それにしても、ガラシャ様はどなたを愛おしく思われたのか」
16歳で光秀の莫逆の友、細川幽斎の嫡男忠興に嫁いだ玉(ガラシャ)と忠興の二人の関係・有り様。ガラシャと秀信の奇縁。幽斎とガラシャの会話で、幽斎は光秀が山崎の戦いで敗れた後落ちのびて、キリシタンになったという噂、そしてその人物は昔のことを覚えていないのだということをガラシャに伝えたこと。幽斎が抱く「謀反の疑いをかけられては家を保てぬ」という疑念。日本人修道士ジョアンが、ガラシャ夫人の同席で、秀信に「キリシタンの天下人になっていただきたい」とヴァリニュアーノの意図を伝えた話。これらが一連のこととして語られていく。そして、忠興が上杉討伐の戦に加わることになるにあたって、ガラシャに言い置いた言葉が加わる。
ガラシャ夫人が人質となることを拒否し、亡くなった後、関ヶ原の戦のさなかに、いとはガラシャ夫人の思いを伝えるために織田秀信の陣に赴く。如水の密使としてひそかに秀信と会おうとしていた又兵衛と出会い、ともに秀信の陣に行く。しかし、事態は既に動いていた。ガラシャと秀信の思いが重ならない結末。
ガラシャ夫人が果たした役割。著者は史実の読み取りの中にロマンを織り込んでいく。
「謀攻関ヶ原」に、ジョアンと如水の対話-「かなわぬ夢」-が記されている。
如水はジョアンに言う。
「キリシタンにとって、キリシタンの天下人が現れることが、もっともよいことです。しかし、それは、キリシタンではないひとびとにとっては望ましいことではございますまい。かなわぬ夢というより、かなえてはならぬ夢だと思ったのでござる」
「キリシタンの天下人を望みはしませんでしたが、キリシタンが禁じられずに生きることができる国を造りたかったのです」
「キリシタンは異国からこの国に吹いた風でござった。われらは風となって生きましたが、風はいつかは吹き去る日が来るのです」
『風の王国』というタイトルに、この如水の思いが込められているようだ。
キリシタンが禁じられずに生きられる国を造ろうとする如水の謀の展開という筋を、さまざまな視点からの短編という形でコラージュしていった作品だと私は思った。
ネットを検索していて、黒田官兵衛の辞世の句というのに出会った。
おもひおく言の葉なくてつひに行く道は迷はじなるにまかせて
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黒田官兵衛 :ウィキペディア
黒田氏 :「SENGOKU」サイトから
黒田官兵衛 :YouTube
細川ガラシャ :ウィキペディア
織田秀信 :ウィキペディア
グネッキ・ソルディ・オルガンティノ :ウィキペディア
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ :ウィキペディア
日本二十六聖人 :ウィキペディア
日本二十六聖人記念館HP
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チェザーレ・ボルジア :「チェザーレ・ボルジアとその周辺」サイトから
イエズス会 :ウィキペディア
フランシスコ会 :ウィキペディア
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