遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『古田織部』 土岐信吉 河出書房新社

2012-03-14 13:21:01 | レビュー
 1992年3月に出版された伝記小説である。『小堀遠州』(中尾實信著)を読み始めたのだが、その第一章の冒頭に古田織部が登場してくる。そこで、古田織部についての小説があることを知り、つい脇道にそれてこちらを先に読んでしまった。

 私は、織部焼に関心を抱いている。斬新な意匠とその器の形状の特異性、あの時代にあのセンスの陶器が創造されたことに興味がある。織部はどちらかというと陶器に関しては、千利休と同じように、プロデューサーあるいはコーディネーターのような位置づけにいたのだろうと思う。自ら陶器を焼くということもしたのだろうが、陶工に己の意匠、工夫を伝えて焼かせたのだろう。小堀遠州の茶の師匠が古田織部だったということと、織部が江戸幕府への反逆を理由され、処刑(切腹)という形で最後を遂げたということから、俄然興味をいだいたのだ。

 本書は、永禄10年(1567)の井ノ口での戦いから書き始められる。織田信長の使い番、古田左介(後の織部)が尾張と三河の国境に近い猿投山山麓の猿投神社に居る窯大将・加藤景光に信長の口上を告げに行く。そして、そこで墨俣にいるはずの木下藤吉郎に出会う。著者はここで、藤吉郎にワタリ(山岳信仰の山の民・川の民、漂白民衆)の出だと語らせている。藤吉郎は山岳戦となることを見越しワタリ衆に与力を頼もうとしているのだという。この戦での一番乗りを左介が藤吉郎に譲るということから、左介と藤吉郎の関わりが出来ていく。
 井ノ口山は金華山、井ノ口城は岐阜城と信長が名を変えることになる。斎藤龍興を滅ぼした合戦だ。この戦の後、瀬戸の陶工たちは朱印状を与えられ美濃・可児郡の萱、大平、久尻などに移住していったということを初めて知った。これが後の美濃焼となるのだろう。

 翌永禄11年、左介は美濃久尻の加藤景光の屋敷を訪ね、そこで中川瀬兵衛清秀の妹、おせんと運命的な出会いをする。著者は「そこには小柄な娘が桜の精かと思われるほど艶麗な姿で微笑んでいた」と描写する。そして、このおせん様が景光に持参した宇治の茶を景光から、おせんを交え馳走を受けることになる。この出会いがきっかけで後に夫婦になる約束が二人の間で交わされたという風に描かれている。茨木の豪族の妹おせんと信長の一使番の左介、当時の身分感覚を越えた破格の生き方の現れが冒頭から表出されていく。

 著者は、左介の中にある二つの側面を追究していく。一つは武人として信長の使番から徐々に能力を発揮し武士の身分を高めていく側面である。もう一つは千利休を師匠とし、茶の道を究め、一方茶陶に自らの思いを具象化していこうとする文化人の側面である。著者はこの二つの側面を絡ませ、織部が内奥にどのような葛藤を抱きながら、戦国の世を生き、突き進んでいったのかを明らかにしようとする。

 武士として信長の傍近く使えた左介は、戦を通じて藤吉郎との関係を深めていく。信長は茶の湯、茶道具を天下統一への道具として使う。藤吉郎は、信長存命中は茶の湯を人脈を広げる道具として、信長没後は茶の湯を一層政治の手段として使う。著者は、武人としての能力もさることながら、左介の茶道具に対する関心、造詣が二人の信頼を深める形になっていることを折に触れ描き出している。一方、左介にとっては、滅多に接することができない茶道具や茶人達との交流を深め、人脈が広がる機会を与えられる事にもなる。
 武人としての左介は、その都度与えられた場で、その力を最大限に発揮するという行動をとる。だが、本書を通じて感じたのは、あくまで与えられた活躍の場に左介が応じたという生き方だった。左介自らが求めて行った場ではない。それ自体が戦国の世の武人としては、やはり破格の存在だったことを示すと思う。

 その武人の側面について、こんな記述を著者は点在させていく。
 松永久秀が信長に降伏し、多聞城を差し出す。その多聞城の天守閣でこうつぶやく。
「・・・武将たちは猫も杓子も天下人になりたがって死に急いでおる。婆娑羅にはこれしか道はないのであろうか・・・。空しいことではないか・・・。いずれは信長様も天守閣を持つ城をつくられることになる。何やら魔物に取り憑かれておる様で空恐ろしいばかりだ。この世に生まれて、わしはこのような生き方はしたくないものよ」
 信貴山城に移った久秀の許を訪れた時に、
「はい、できれば武士をやめて茶の湯だけに・・・」
 比叡山焼き討ちの後、おせんとの会話で
「・・・たしかに叡山の僧侶たちは弁解の余地がないほど堕落していた。しかし、民衆はあまりその事実については知らぬ。強引な上様のやり方は人びとの心に大きな傷痕を残してしもうた。人びとの心が荒れることに心を配らぬ者は天下人になどなれぬ。天下統一などと言うてみても所詮は幻ということだ。わしは武士稼業をやめとうなった」(p134)
 松永久秀の降伏に功績があったことに信長が左介に対し加増を考える。この時、秀吉に佐介は伝えてもらいたい願いを語る。
 「御加増の義、ご辞退申し上げます。・・・大きな軍団を率いて合戦をするという武将には、なりたくございませぬ。できれば武士をやめたいのでございます。・・・今までにも充分、殺生を重ねてまいりました。もうこれ以上、人殺しはしたくありませぬ。茶の湯を学んで一生を終わりとうございます。・・・・山城の代官としてお仕えするだけでよければできまするが、それ以上のことはお断りしたいのが本心でございます」と。
 「わが身を守るためには仕方なく戦いますが、逃げる敵を追うてまで斃そうとは思いませぬ。拙者は使い番で結構です」
 
 秀吉は言う。「奇妙な奴がおるものだ、これだけの腕前を持ちながら、前途の出世を拒否するとは・・・・。」「未来の”豊かな”生活は左介にとって意味のないことなのか。欲ぼけの多い世の中じゃ、左介みたいな男がいることは救いかも知れぬ」
 
 左介の文化人の側面に目を転じてみよう。著者は、左介が茶の湯の道を深めていくプロセスをかなり克明に描写していく。今まで、陶器の観点で興味を持っているだけだったが、本書で、織部の茶道というものの存在を知り、そして関心をいだくきっかけができた。左介の文化人としての側面の描写に、心惹かれていくところが多かった。

 左介の実父、古田主膳正重定は、若き日に武野紹鴎について茶を学び、勘阿弥という同朋衆だったようだ。その父から左介は茶の湯の手ほどきをうけたという。左介の精神遍歴に影響を与えた人びとが何人かいる。一人は200年以上まえに示寂している夢窓国師である。左介がおせんに出会った直後、二人で訪れる虎渓山永保寺での会話で語られる。
「・・・いずれの勢力からも帰依を受けた不思議なお方。この庭は自然を無理に破壊したところは一つもない。人工が大規模に加えられたのに、自然は類のないほどのびのびしたさわやかさに満ちている・・・・。来るたびに新鮮な感動があります」「夢窓国師の狙いは・・。まず、この庭の美しさで人の心を惹きつけ、道心に導いてゆかれるのだと思う。山河大地草木瓦石の中に自己の本分があると・・・・」

 信長、秀吉、松永久秀などは、彼らの茶の湯に対する考え方が、左介にとっての反面教師の役割になるようだ。茶会の機会を左介に提供した人びとであるが、茶の湯のあり方について左介が否定していく材料や観点を提供する人びとという意味で。
 信長の命を受け、秀吉と共に堺に矢賤を課す使者として赴くことから、左介は堺の茶人たちと接するようになり、千宗易とも初めて出会うことになる。阿古陀形の冑姿の宗易との出会いを著者は描き出す。「われら堺の商人はいつも外敵の危険にさらされながら商取引をいたす。納屋衆は皆、二、三百余の浪人を召しかかえて、みずからも剣技を磨かねば生きてゆけないのが当節です。われら家族や商売を守るために武家の方々と同様に命を懸けております」その出会いが戦乱が落ち着いてからの子弟関係の始まりになる。
 宗易に引き合わされた山上宗二も、左介には茶の道を究める上での反面教師として登場する。宗二と左介がともに天文十三年生まれだということを、この作品で知った。
 宗易は二人に語る。「左介は茶の湯の指導を受けたいそうだが、それはできぬ。宗易の茶の湯は宗易一人のもの。宗二には宗二の、左介には左介にしかできぬ茶の湯がある。左介が宗易好みを真似したところで仕方あるまい。茶碗のあつかい方、茶筅のふり方など、点前の所作は多くの茶会を経験して自分流を組み立てればよいことじゃ。宗易はその手助けはできる。しかし、手助けだけであって教えることはできぬ。知識はいくら頭に詰め込んでも、そこに本当の”気づき”がなければ行動には結びつかぬ。”気づき”こそが大切なのだ」(p111) 本書のところどころで宗易と左介の対話が重ねられていく。これらの内容が、左介にとっては、己の茶の道への杖となり指針となっていくようだ。 

 利休と秀吉の両者に接する左介は、茶の湯の視点でその二人の確執を眺めつづける。利休切腹後は、秀吉から「町衆主導の茶の湯を正して、武家の茶の湯を創ってみよ」と命じられる。しかし、それが逆に、織部に己の茶の道を目指す核心を育んでいくことになる。自己の道を求めていくことになるのだ。
 左介が織部と称されるようになるのは、秀吉が従一位に叙せられ関白に任ぜられた時である。この時、左介は従五位織部正となり山城国西岡に城を築き3万5000石を与えられた。「織部正とは綾、羅、錦などの織物・染物のことを司る役所の長官のことで、左介は西陣にも出入りするようになる。左介は織部の職権を利用して美濃の窯業をもりたてようと、瀬戸十作をきめることにした」(p237)ということを、本書で初めて知った。

 左介のこころの内奥で武人の側面と文化人の側面が統合される時が訪れる。天正11年10月に大坂城内での公式の茶会に初めて招かれ、寝殿へとつづく小径で草叢に咲く秋萩に目を止めた瞬間だと著者は描写する。
 「わしが気づこうと気づくまいとまったく関わりなく咲きつづけている。わしは今まで、大きな誤りに気づかずに悩んでおったようだ。『武士』と『茶の湯者』はまったく矛盾するものではなかった。古田左介という茶の湯者がいて、身すぎ世すぎのために武士という職業を選び、その結果として多くの家来をかかえている。わしは全存在をかけて茶の湯者として生き、その中に武士としての生きざまがある・・・・。古田左介の茶の湯は他人に理解できようができまいが、まったくわしの意志の外にあることなのだ。気楽に肩の力をぬかねばならぬな--」

 利休は左介に言う。「人にはそれぞれの茶の湯があるはずだ」と。利休が極めようとした茶の湯の道、その姿勢を左介は受け止め、左介自身の茶の湯を極めていこうとした。その道程を共に歩める愉しみが本書にあると感じる。

 また、もう一つの茶陶に対する左介(織部)の力の入れようがよくわかる。美濃焼をバックアップしつづけた織部。自ら山野に散在する古陶の破片を収集し、その文様などに思いを馳せ、意匠を帳面にまとめていく織部。一人一人が己の思う陶器を作れと励ます織部。「永い年月をかけて茶人たちがみがきあげてきた”美”に対する鋭い感覚を今焼として大成してみようと思わぬか。一人だけが苦労するのではなく陶人すべてが過去にこだわらずに新鮮な感覚のものを競作する。それを世人にしらしめる役がこの織部だ」と窯大将、加藤景延に語りかける織部。九州・唐津から美濃に登り窯の技術を導入する力添えをする織部。『辻が花』染めの染色の工人と美濃の陶人との交流の下地づくりをする織部・・・・・・この作品を読み、美濃焼、織部焼誕生のプロセスや「茶陶が新しい生命を持てば、茶の湯が深まる」という織部の広大な想念に思いを深めた。
 処刑で自刃をする前に、織部が口縁の欠けた飯茶碗を手にする。このシーンの描写が織部の万感の思いを放出させていて、感激する。

 最後に、徳川、江戸幕府に対する叛逆を理由に処刑される織部の立場と行動が描かれる。著者は、堺の外れで家康の籠を襲い、討ち果たし、槍で止めを刺したという展開が挿入されている。そういう風聞が事実としてあったのだろうか・・・
 いずれにしても、千利休の後を歩く、織部の生き様が明確に出ていると思う。己の茶の湯の道を歩み続け、その中で武士としての信条を貫いたのだ。家康は織部の破格の生き様が江戸幕府の存続にとって放置できなかったということだろう。秀吉が利休の生き様を認められなかったように・・・・

 この伝記小説は、視点を移すと、千利休の略伝小説にもなっている。さらに本書の半ばから登場する尾形光琳のごく簡略な伝記を描くことにもなっている。

 本書から、印象深い詞章を引用させていただく。

*国師は”山水に得失なし、得失は人の心の中にあり”と申された。わしは美しい庭の中に置かれておる石のことを考えておる。豊麗な風景に陶然となっていると、視線は周囲に溶け込んでいて目立たない冴え冴えとした石を発見する。その石は清らかな中にも浩然と見る人の心をはねつけて、内なる心にむけさせる・・・・・。”禅”とは”心”のことだ。禅宗などという宗教ではない。道元禅師も禅宗という言葉を使うてはならぬと申された。自分の心を日常から解き放って、旅(非日常)に出してみるがよい。旅から戻ったとき、心は蘇生しておる。    p82

*われらは茶の湯をとおして禅の修行をしておる。・・・”己を発見する”ために修行をするのが禅だと思う。永遠なる生命のあらわれとして草や木、動物や自分の姿を形づくっておる。”己を発見する”ということは”永遠の生命”を認識することでもある。一休禅師は永遠の生命に現在の身を置いて、そこから現在を見詰めよと考えられたのではあるまいか。芸術の面では、”脱伝統”ということになる。茶の湯の村田珠光は一休禅師の説かれる”淡飯粗茶”から侘び茶に入られたと聞いておる。   p112-113

*目利きをするとはその対象のものの中に”永遠の生命”を発見することであって、ものの値段を考えることではない。茶人といわれる人は対象物の微妙なさまを見極めて目利きをする。心頭の網の目を細かくせねばならぬ。・・・・目利きは心頭の動きを、より自由なものとするため修業と心得ておる。  p113

*頭はよいが、修行しておらぬから、只それだけのもの。体得しておらぬ。体得せぬば創造力は湧いてこぬ。ただ悩むだけのことだ。  p137

*戦が人をみにくくするのではない。人の心にひそむ、みにくさが合戦となって現れるのだ・・・・ p141

*豊かさを求めて身のまわりの品物を無限に加えても心は安定しはせぬ。貧なることこそ心の安定に必要なこと・・・・・食べものは飢えぬほど、家は漏らぬほどの貧こそ悟りへの道なのだ。悟れば創意工夫が湯水のように湧き出してくる。 p147

*物が美しいのではなく、それを美しいと思う人の心が美しいのでござるよ。 p166

*何もない無相のところに尽きることのない無限の美があるということをな。無所得のところに無限の所得があることは間違いない。 p176

*悟りという境地にこだわれば・・・・、つまりそのような”執着する心”こそもっとも憎むべきことなのだ。茶人にとって茶室だけが修業する場所ではない。ありとあらゆるものが道場であるといえような。 p177

*この世の中には自分の行動の中にあるものと手のとどかぬものがある。手のとどかぬところで起きたことはどうしようもないことだ。これで世の中が動きはせぬ。動くのは人の心じゃ。自分の心が動かねば恐ろしいことは何もない。心配せずにこの佐介を信じて待っていてくれ。   p198

*”ほんもの”とは何処に置いても、その場に適合し、それでいて、よく見ると、はっとする美しさに溢れているものなのだ。そしてそのそばにおると心がすっとおだやかになって、よい気持ちになる・・・・。そんなものが”ほんもの”の条件ではあるまいか。 p232

*茶の湯は”もの狂い”の火炎の中で激しく反応をくり返し、思いもかけぬ美に、めぐり逢うことになるのではなかろうか。”もの狂い”のものとは物質のこととではない。”運命”とでも言いかえることができような。  p234

*存在せぬものは存在するものを超越するのだ。  p271

*ここに一本の棒がある。真ん中はここだ。だがな、この真ん中で折ってしまうと、半分になった棒では、さっきまで真ん中であったところが端になってしまう。世の中にあるものはこれと同じで、生と死、美と醜、是と非などは本来、同じものなのだ。何を基準とするかで違ってくるが、本来同じものだといえよう。陶器もそうだ。今までの価値感を捨ててみようではないか。   p274

*わしの考えを伝えたいと思う。「こうしろ」「ああしろ」と命ずるのではないぞ。工夫の糸口を教えたい。あとはそちたちが自分勝手にやるのだ。「勝手にやる」ことが最高なのだ。あまりに自分の一人よがりのものであれば、世人は受け入れてはくれぬ。それを解った上で、自分勝手にやることがよいのだ。  p275

*”相反する認識は本来、同一のものなのだ”という維摩経不二法門こそが織部が求める茶の湯なのだ。  p297

*破格とは常識を打ち破る勇気のある行為です。  p327

*茶の湯では椿を好んで活けます。瞬間の儚さの中に永遠を観るゆえです。茶室とは本来、暗くて明るく、明るくて暗いところです。  p327

*何故に人間はわが身、わが部屋を飾りたてるのか・・・それは、心の痛みの鎮痛藥として”贅沢さ”を求めるのじゃよ。  p335

*癒すことは癒されることなのだな。茶の湯の心はこれなのだ。  p348

*わしは茶の湯で『ほんもの』を追求してみたい。『ほんものとは何か』という視点で茶道具の名物を見直してみたいものよ。・・・・壊れても腹を立てぬようにするためには自分で多くつくればよいことだ。  p218


ご一読ありがとうございます。


付記
 家康暗殺説の真偽は・・・・興味深い謎である。小説に許される作家の想像力の飛躍なのか、闇の中に隠された事実が存在するのか。史実に記されていない部分の面白さか。
 もう一つ、著者は「6月10日、摂津木幡の処刑場は人里離れた荒涼とした草原であった。」と、織部自刃の地を描写する。「摂津木幡」とはどこなのだろう?今、読み続けている『小堀遠州』(中尾實信著)では、冒頭のページで、「遠州の住む六地蔵から古田織部の下屋敷がある木幡までは、数町しか離れていない」とし、切腹したのはこの下屋敷と設定しているようだ。摂津が摂津国を意味するなら、大阪府北部と兵庫県南東部の地域になり、かなり自刃場所に違いが出てくる。終焉の地について史実の記録が現存するのか。ここにも、謎が残る。

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 本書を読みながら、関心事項をネット検索してみた。以下一覧にしておきたい。


古田織部 ← 古田重然 :ウィキペディア
美濃の茶人 古田織部 の生涯 :「奥美濃散歩」

芦浦観音寺  :ウィキペディア
近江芦浦観音寺
芦浦観音寺 公式HP
南宗寺 :「大坂再発見!」
本圀寺 :ウィキペディア
永保寺 :ウィキペディア
宝積寺 :ウィキペディア
妙喜庵 HP
仏徳山興聖禅寺 (興聖寺) :国際日本文化研究センター
引接寺 :ウィキペディア
千本ゑんま堂引接寺 HP

織部(古田織部について) :器.com
古田織部とオリベ陶 :國分義司氏
九十九髪茄子 :ウィキペディア
大名物 唐物茄子茶入 付藻茄子(松永茄子)  :静嘉堂文庫美術館 HP
荒木高麗 ← 唐草文染付茶碗 銘 荒木 :徳川美術館
水指 伊賀破れ袋 :「鶴田鈍久の章」
伊賀破れ袋擂座水指 :「鶴田鈍久の章」
唐津沓茶碗 :堺市HP
瀬戸十作 :「茶道百字辞典」芳香園
美濃焼  :ウィキペディア
ヴァーチャル美術館 :多治見市・美濃焼HP
織部焼  :ウィキペディア
織部焼  :NHK・「美の壺」
辻が花とは :辻が花染め工房「絵絞庵」

藤戸石 :「ふるさと昔語り」 京都新聞
九山八海の構造 :「日本庭園の時代様式」(←ようこそ中田ミュージアムへ)
東福寺霊雲院の九山八海の庭  :「西陣に住んでます」kazu氏

加藤景延 :朝日日本歴史人物事典
松永久秀 :ウィキペディア
三好長慶 :ウィキペディア
会合衆 :ウィキペディア
利休と堺 :「堺、香りの物語」奥野晴明堂
あの人の人生を知ろう ~ 千 利休 :「あの人の人生を知ろう~45通りの生涯」
村田 珠光 :ウィキペディア
武野紹鴎 :ウィキペディア
今井宗久 :ウィキペディア
津田宗及 :ウィキペディア
呂宋助左衛門 :ウィキペディア
呂宋助左衛門とカンボジア :「メコンプラザ情報DB」
日比屋了慶 ← 日比屋了珪 :朝日日本歴史人物事典
山上宗二   :ウィキペディア
山上宗二記  :ウィキペディア
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今井宗薫   :ウィキペディア
松井友閑   :ウィキペディア
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夢窓疎石  :ウィキペディア
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金地院崇伝 :ウィキペディア
南光坊天海 :ウィキペディア
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台目畳 :「京町家改修用語集」
茶杓  :「茶の湯倶楽部」

豊旗雲 :「歳時記したら」
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法語(破れ虚堂) :e国宝
虚堂録 :禅語データベース 花園大学国際禅学研究所

三十六間兜 ←鉄黒漆塗三十六間総覆輪筋兜 :「甲冑ギャラリー」
仁王胴具足 :文化遺産オンライン
日根野形兜 ← 甲冑の構成:「甲冑(よろい・かぶと)」

卯の花 :「和歌歳時記」水垣久氏
紫苑  :「季節の花 300」山本純士氏
   :「季節の花 300」山本純士氏
モチノキ :「植物雑学事典」岡山理科大学・植物生態研究室(波田研)
しゃら ← 沙羅双樹 :「季節の花 300」山本純士氏
とうしゅろ :「植物雑学事典」岡山理科大学・植物生態研究室(波田研)


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