『春を恨んだりはしない 震災をめぐて考えたこと』の読後印象を、4月、ここに載せた。この本を読んだことがきっかけで、この著者を知り、その作品を読書範囲に取り込むことになった。著者の小説を読むのはこの作品が初めてである。なぜ、これを最初にしたか。原発に対して、自然エネルギー源の一つとしての風車がテーマになっているということと、タイトルに惹かれたためである。本書は2000年9月に初版が出版された。
この小説は、天野林太郎という風車を設計する一技術系サラリーマンが主人公である。話は、林太郎と妻アユミ、一人息子の森介が、沖縄に「台風を見に行く」ことから始まる。実は、自分が担当し工事監督もした出力500キロワットの発電用風車が台風に立ち向かっている状態を見に行ったのだ。翼の直径40m、秒速3.5mから25mまで同じ速度で回転し、風速が25mを超えると、原則風車はカット・アウト、停止する。放置しておくと停止速度を10%以上超えたら、自動停止するという。
沖縄のホテルに滞在中に、アユミの友人からアユミを介して、林太郎に仕事の話が舞い込んで来る。アユミは、この話の始まった時点では、「環境情報連絡会議 青空の会」というボランティア組織の事務局員で、ニュースレターを作成発行している。いわゆる地球環境改善推進派である。学生時代にインド哲学を勉強した人物という設定。その友人、森本タマちゃんは「ネパールNGO手をつなぐ会」の人。小さい発電機が所望なのだ。灌漑用電力で、安くて丈夫、絶対に壊れないのが欲しいというニーズである。1メガワットが風車の標準機になると予測する林太郎に、5キロワット程度の風車を作るという話なのだ。「小さいものは小さい会社が作ればいい」と話す林太郎に、アユミは「技術が道徳をひっぱっていくの。だから、あなたは、小さくて壊れない優秀な風力発電機を作らなければならない」と主張する。沖縄では、風車(かざぐるま)のことをカジャマーというところから、アユミは「すばらしい。林太郎の小型風車開発計画は、『カジャマー・プロジェクト』という名にしましょう」と言う。
いつしか、林太郎はこの小さな風車を設計するという課題に引き込まれていく。頭の中で、ヒマラヤの雪の山稜を背景にくるくると回る小さな風車のイメージが見え始めるのだ。そしてこの小さな風車がネパールの奥地ナムリン(勿論、架空の地名だが)に、林太郎の設計・施工で据え付けられ、灌漑用に利用されるという形に展開していく。その経緯が小説という虚構の形で紡がれていく。林太郎、アユミ、森介のファミリーにとって、「すばらしい新世界」とのかかわりができていく物語である。
林太郎にとっては、個人的ネットワークの依頼から始まったカジャマー・プロジェクトが、会社の仕事の一環として正式に採りあげられ、その仕事を引き受け、完成させるという新規ビジネスの試金石になる。アユミは、チベット、ネパールという地域に出張した夫との間で、チベットやネパールの文化、宗教などについて、Eメール交信を林太郎と始め、自らの思い、考えを深めていく。小学生の森介には、この話の最終段階で父・林太郎を助けに、単身ナムリンに赴くという冒険が待っている。
この作品は、小説という虚構に仮託された、著者による地球環境論、エネルギー論、文明論、文化論、ボランティア論、宗教論、教育論などの展開のようにも読める。また、風車という商品開発プロセス論として読むことができておもしろい。いろいろ考えるべき観点が詰め込まれ、真理の一端が書き込まれているように思う。
林太郎が会社の仲間や上司と交わす会話・議論を通じて、小さな風車の企画・商品開発に関わるプロセスが描かれていく。そこに現代のエネルギー論が関連してきて、内容としてリアルである。商品のフィージビリティ・スタディから始まり、企画、設計、搬入、据え付け工事、メンテナンス教育とアフターケアの問題まで、ちゃんと触れられていてそのビジネスサイクルがリアルである。そこには、先進国商品の援助という名目での押し込めへの批判も描き込まれている。現実味を感じさせる話になっているように思う。
この作品は林太郎が現地調査、据え付けと教育のために現地入りし、そこで「ナムリン開発協力会」というボランティア団体の人々や宿泊先のオーナーの日本人、現地案内人や現地の人々との関わりを深めていく。その中で、林太郎が現地で観察し、考えた事として、ボランティア論が展開する。真に現地に役立つボランティア活動、ボランティア行為、その貢献とは何なのかが語られることになる。著者は文明国側の独りよがりなボランティア意識とその活動の局面を客観的に眺めている。そして、林太郎の風車には、真に現地に永続的に有益な結果を生ませようという姿勢が貫かれていく。さらに林太郎の仕事は、ボランティアではなく、ビジネスという視点での一貫性で語っていくのだ。
林太郎の目は、日本の大都会での日常生活とその原理、ナムリンの日常生活とその原理を対比的に眺め、林太郎に人間の生活を考えさせる。そして、林太郎の思いは、ナムリンの林太郎と東京のアユミがEメール交信での対話という形をとって、違和感を感じさせずに読者を様々な議論に引き込むことになる。Eメールの多くは、アユミが問題提起、解説を行い、林太郎がそれに意見を交わしていくという形で展開されていく。電気のない高山の地ナムリンと現代文明の縮図、日本の東京との間での異質な生活空間が同時存在し、Eメールという媒体で瞬時に結び付けるという設定が巧みな小説の全体構成になっている。これ自体、インターネット社会の現実描写でもある。異質世界の同時存在。人間の歴史的発展段階をある意味で無視した文明利用の実在。その中で、文明論、文化論、ボランティア論、宗教論、教育論などが語られていくのだ。
それぞれの観点について、現代高度文明社会で日常生活を送る人間に対して、グローバルに地球を眺めた視点からの問題提起を、著者が行っているように受け止めた。
ネパール奥地のナムリンという地域設定の虚構性が、逆にチベット・ネパールという地域についての普遍性を描き出す枠組みになっているようだ。そして、高度科学技術文明に汚された現代先進社会で疑問を抱かずに日常生活を送る人間に対して、「すばらしい新世界」とは何かを考えさせる形に導いていく。
もう一つ面白いと感じるのは、小説の中に頻繁に著者自身が顔を出す語り口である。まず、この作品の冒頭が、「この話をいったいどこから始めたものか、作者であるぼくは最初から迷っている」という一文から書き出されている。「今ごろになって言うのも変だが、林太郎とアユミがほんとうに『変な人』であるかどうか、作者は考え込んでいる」(p39、「日常生活の原理」の冒頭)、「林太郎は今、異国に向かって飛んでいる。作者は彼をいささかの不安とともに見守っている。」(p96)「小説の作者にはいろいろな悩みがつきまとう。」(p158、「偉人の肖像」の冒頭)「作者は不信心者である。何の信仰もない。」(p222、「信仰の問題」の書き出し4行目)といった具合である。作者もこの小説の登場人物として参画していると見た方がよいのかもしれない。この点、ちょっと、奇妙でおもしろい作品の仕上がりになっている。
この物語の最終段階で、風車建設とメンテナンスのための担当者教育を一通り終えた林太郎が、帰国しようとするときに熱を出す。帰国するためには家族を呼び寄せる必要があるとのンガパの助言で、森介が単身でナムリンまでやって来る。それは、林太郎はチベットの友人から、二人が出国する際に、秘かにテルマと称される埋蔵経典を運搬し、ダライ・ラマ猊下に届けるという使命を託されるという冒険譚の始まりになるのだ。ここで森介がどういう役回りを担ったかがおもしろい。読んでお楽しみいただければと思う。
最後に、印象深い章句をいくつか覚書かわりに抽出しておきたい。私に取っては、この作品を起点にして、改めて考えるための糧でもある。
*進歩って本当にそんなにいいものだろうか。不安もあるんだ。ここの暮らしを見て見ると、なんだかこのままでもいいんじゃないかって気がしてくる。余計なものを持ち込んで、平穏な暮らしをひっかき回して、いいんだろうか。
識字教育や生活の電化は本当に善か? それを決めるのはぼくたちではない。 p207
*アウトドアで生きてきた者はなかなかインドアには入れない。入ったら出られないわけではないのだろうが、心理的な敷居は踏み越えがたい。たくさんの中から一つを選ぶのがむずかしそうだし、さしあたりアウトドアで生きていけないわけではないのだ。 p223
*衆生を救うことと社会を救うことは違います。短い期限のうちに社会全体を救おうとすれば、無理な危ない方法に頼ることになる。それを成功させるほどの力はもちろんあの人(付記:オウム真理教のアサハラをさしている)にはなかった。だからああいう最悪の結果になった。
宗教は一方では永遠と無限を扱うのに、時々いきなり期限を突きつけます。終末論で人の不安をあおる。 p247
*毎日を生きていくことはできるけれど、自分が何のために生きているかがわからない。飢えた状態だから何にでもとびつく。 p248
*「ボランティアはまったく新しいことなんですよ」と塩沢さんは言った。「営利から一歩離れて自由になることなんです。あるいは、自発的な、下からの社会主義」 p270
*どんな場合にもまず相手を見る、相手が何を必要としているかを見るというのが、ボランティアの基本です。そうでないと善意の押しつけになる。慈善と偽善は紙一重なのですから。 p271
*こういう小規模で低価格のものもやっていかなければならないと思うんです。田舎の復権の日がやってくるとぼくは思っているんです。 p273
*その電力を供給する事業体がもしも安定供給を人質にして世界を脅迫したら、困ったことになる。・・・・いずれにしても、供給源は分散しておいた方がいいんですよ。そこで、集中化とはまったく逆に、少々効率が悪くても小さな施設をたくさん用意すべきだという考え方が出てくる。 p274
*「現場の知」という言葉がよく使われました。ボランティア活動で基礎になるのはこれだというのです。環境運動でもそうです。「現場の知」を欠いた運動はすべて堕落する。 p367
*外から持ち込まれたものは、現地になじまないかぎり、やがては死に絶える。あるいは現地の人を殺す。きつい言いかたをすればそういうことになります。なじませる主役が「現場の知」なのです。 p370
*警戒すべきは客観のふりをする主観だ。大東亜共栄圏の類。それが歴史の必然だというような言いかた。 p427
*人間がすることはいつだって間違いがつきまとう。それをゼロにはできない。だから人間がすることはすべて、ある程度の事故の確率を想定して行われる。でも、核の場合、事故の確率は変わらないのに(なんといっても同じ人間がやっているんですから)、事故の影響はずっと大きい。飛行機で万一の時は数百人が亡くなります。辛いことですが、このくらいの損害に人間はなんとか耐えられる。だから飛行機を飛ばすのをやめはしない。
核事故では、最悪の場合、その数字がもう二桁か三桁増えかねない。そして、そのような損害には人は耐えられないだろうと思うのです。だからあなたの風車が私の誇りなのです。 p468-469
*形容詞が多すぎる文章には用心した方がいい、というのは文章にたずさわる者の心得の一つである。そういう文章には誠意がない。形容詞を乱発するのは何かを隠している時だ。(付記:東海村でもらったパンフレットの言葉づかいが気になったという文脈で) p494
*「先進国を横目で見ながら、ここなりの暮らしやすさを求める。ちょっと便利になればいいんです。」「しかし、それには先進国の暮らしを知る必要がある。いずれにしても暮らしは変わらざるを得ない。外部から押しつけられたり、だまされたり、搾取されたりするのではなく、十分な情報を持った上で自分たちで選択する。そのための電気です。p501
*「超伝導のグローバル送電網や、砂漠に造る大規模な太陽光発電所もいいけれど、家庭レベルの電力管理も大事です」「陽光と風力という変動する生産量と、消費者の気まぐれというこれまた変動する消費量の関係を最適化する。集中と分散の組み合わせ」「あるいは、田舎暮らしの勧め、とか」 p508
*歳の違う子を見るということは、弱者への配慮の練習である。・・・・日本の子供はある時からそういうことを一切しなくなった。学童は学年で仕切られ、歳の違う子が接する場は奪われた。少子化が進んで家庭から弟や妹が消えた。従兄弟の数が減った。ご近所というものがなくなり、外遊びの伝統が失われた。
他人への関心が薄れて、みんながエゴばかり言い立てるギザギザした社会になったのは、子どもを年齢ごとの箱に囲い込んで、カリキュラムを押しつけた結果ではないのか。
ここの子どもたちは幼い子の面倒を見ることで温かい人間関係の基礎を身につけている。幼稚園受験の歪みで二歳の子どもが殺される世界からは遙かに遠い。 p522
*遊牧とは、家畜を導くことではなく、家畜の後についていくのだという言葉を林太郎は思い出した。 p546
*農業というのはもともとは周辺の自然とのトータルな交際であった。土に合わせ、水に合わせ、季節に合わせ、気候に合わせて、人はさまざまな作物を組み合わせて育てた。言ってみれば、それは観察と判断と労働からなる知的な舞踊だった。・・・・古風な総合的な農業を見た時、初めて自分たちが失ったものに気づく。 p550
*そうなのだ。国家とか民族とかではなく、結局は人と人の仲がことを決めるのだ。p567
著者は、p159に「虚構の枠組みの中に真理を埋め込むというのが、フィクションの原理である」と明確に記している。その点を追記しておきたい。本書を読み、ぜひ著者が埋め込んだ「真理」を見つけ出してほしい。
ご一読ありがとうございます。
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。
本書を読みながら、注目したキーワードから波紋を広げ、検索してみた項目を一覧にまとめておきたい。
再生可能エネルギー導入ポテンシャルマップ(平成22年度) :環境省
「自然エネルギー白書2011」 :自然エネルギー政策ポータルサイト
2011年版が公開されていて、pdfファイルでダウンロード可能です。
2012年5月1日に最新版「自然エネルギー白書2012」が発刊されていますが、有料です
認定NPO法人 環境エネルギー政策研究所(ISEP)編集
「風力発電導入促進に向けて」 :日本風力発電協会
第5回中長期ロードマップ委員会 資料 2010年6月
風力発電長期導入目標とロードマップ V1.1 2010/01/15 :日本風力発電協会
詳細資料「風力発電の賦存量とポテンシャルおよびこれに基づく長期導入目標とロードマップの算定 (V1.1)」
風力発電の仕組み/風力発電の技術的ポイント :「<<発電>>自然エネルギーの活用法」
小型風力発電 :「<<発電>>自然エネルギーの活用法」
地球に優しい小形風力発電 無電地帯における利用
チベット仏教 :ウィキペディア
密教 :ウィキペディア
タントラ :ウィキペディア
無上瑜伽タントラ :ウィキペディア
ロンチェン・ニンティック法脈 :「Mangala Shri Bhuti」
化身ラマ :ウィキペディア
ダライ・ラマ :ウィキペディア
ダライ・ラマ14世 :ウィキペディア
テルマ :ウィキペディア
ボランティア :ウィキペディア
NPO法人 れんげ国際ボランティア会
チベットスノーライオン友愛会と日本カム基金
特定非営利活動法人 ジュレー・ラダック
motherteresa-vol.com
ネパール ボランティア クエスト :「ユナイテッド・プラネット」
ネパールのボランティア :「海外移住情報 旅コラム」
梅光学院大学 ネパールボランティア実習 ビデオレポート前編 :YouTube
梅光学院大学 ネパールボランティア実習 ビデオレポート後編 :YouTube
石黒承子 「ネパール現地レポート」 :「JICA東北」
ヒマールチュリ (ネパールの元ボランティア教師のホームページ)
チベットを知るために :ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
19項目の一覧ページです。そこからリンクされているサイトをいくつか列挙
チベットの概要
チベットの歴史
現在のチベットの状況
ネパール連邦民主共和国 :外務省
基礎データ
最近のネパール情勢と日ネパール関係
ネパール :ウィキペディア
ネパール便り :「社団法人日本ネパール協会」HP
「孤児院の経営難」 投稿日: 2012年6月2日 作成者: jns
「生物多様性保全と先住民族の権利」投稿日: 2012年6月2日 作成者: jns
ナビィの恋 :ウィキペディア
セブン・イヤーズ・イン・チベット :ウィキペディア
チベットを知るための映画・ドキュメンタリー :ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。
この小説は、天野林太郎という風車を設計する一技術系サラリーマンが主人公である。話は、林太郎と妻アユミ、一人息子の森介が、沖縄に「台風を見に行く」ことから始まる。実は、自分が担当し工事監督もした出力500キロワットの発電用風車が台風に立ち向かっている状態を見に行ったのだ。翼の直径40m、秒速3.5mから25mまで同じ速度で回転し、風速が25mを超えると、原則風車はカット・アウト、停止する。放置しておくと停止速度を10%以上超えたら、自動停止するという。
沖縄のホテルに滞在中に、アユミの友人からアユミを介して、林太郎に仕事の話が舞い込んで来る。アユミは、この話の始まった時点では、「環境情報連絡会議 青空の会」というボランティア組織の事務局員で、ニュースレターを作成発行している。いわゆる地球環境改善推進派である。学生時代にインド哲学を勉強した人物という設定。その友人、森本タマちゃんは「ネパールNGO手をつなぐ会」の人。小さい発電機が所望なのだ。灌漑用電力で、安くて丈夫、絶対に壊れないのが欲しいというニーズである。1メガワットが風車の標準機になると予測する林太郎に、5キロワット程度の風車を作るという話なのだ。「小さいものは小さい会社が作ればいい」と話す林太郎に、アユミは「技術が道徳をひっぱっていくの。だから、あなたは、小さくて壊れない優秀な風力発電機を作らなければならない」と主張する。沖縄では、風車(かざぐるま)のことをカジャマーというところから、アユミは「すばらしい。林太郎の小型風車開発計画は、『カジャマー・プロジェクト』という名にしましょう」と言う。
いつしか、林太郎はこの小さな風車を設計するという課題に引き込まれていく。頭の中で、ヒマラヤの雪の山稜を背景にくるくると回る小さな風車のイメージが見え始めるのだ。そしてこの小さな風車がネパールの奥地ナムリン(勿論、架空の地名だが)に、林太郎の設計・施工で据え付けられ、灌漑用に利用されるという形に展開していく。その経緯が小説という虚構の形で紡がれていく。林太郎、アユミ、森介のファミリーにとって、「すばらしい新世界」とのかかわりができていく物語である。
林太郎にとっては、個人的ネットワークの依頼から始まったカジャマー・プロジェクトが、会社の仕事の一環として正式に採りあげられ、その仕事を引き受け、完成させるという新規ビジネスの試金石になる。アユミは、チベット、ネパールという地域に出張した夫との間で、チベットやネパールの文化、宗教などについて、Eメール交信を林太郎と始め、自らの思い、考えを深めていく。小学生の森介には、この話の最終段階で父・林太郎を助けに、単身ナムリンに赴くという冒険が待っている。
この作品は、小説という虚構に仮託された、著者による地球環境論、エネルギー論、文明論、文化論、ボランティア論、宗教論、教育論などの展開のようにも読める。また、風車という商品開発プロセス論として読むことができておもしろい。いろいろ考えるべき観点が詰め込まれ、真理の一端が書き込まれているように思う。
林太郎が会社の仲間や上司と交わす会話・議論を通じて、小さな風車の企画・商品開発に関わるプロセスが描かれていく。そこに現代のエネルギー論が関連してきて、内容としてリアルである。商品のフィージビリティ・スタディから始まり、企画、設計、搬入、据え付け工事、メンテナンス教育とアフターケアの問題まで、ちゃんと触れられていてそのビジネスサイクルがリアルである。そこには、先進国商品の援助という名目での押し込めへの批判も描き込まれている。現実味を感じさせる話になっているように思う。
この作品は林太郎が現地調査、据え付けと教育のために現地入りし、そこで「ナムリン開発協力会」というボランティア団体の人々や宿泊先のオーナーの日本人、現地案内人や現地の人々との関わりを深めていく。その中で、林太郎が現地で観察し、考えた事として、ボランティア論が展開する。真に現地に役立つボランティア活動、ボランティア行為、その貢献とは何なのかが語られることになる。著者は文明国側の独りよがりなボランティア意識とその活動の局面を客観的に眺めている。そして、林太郎の風車には、真に現地に永続的に有益な結果を生ませようという姿勢が貫かれていく。さらに林太郎の仕事は、ボランティアではなく、ビジネスという視点での一貫性で語っていくのだ。
林太郎の目は、日本の大都会での日常生活とその原理、ナムリンの日常生活とその原理を対比的に眺め、林太郎に人間の生活を考えさせる。そして、林太郎の思いは、ナムリンの林太郎と東京のアユミがEメール交信での対話という形をとって、違和感を感じさせずに読者を様々な議論に引き込むことになる。Eメールの多くは、アユミが問題提起、解説を行い、林太郎がそれに意見を交わしていくという形で展開されていく。電気のない高山の地ナムリンと現代文明の縮図、日本の東京との間での異質な生活空間が同時存在し、Eメールという媒体で瞬時に結び付けるという設定が巧みな小説の全体構成になっている。これ自体、インターネット社会の現実描写でもある。異質世界の同時存在。人間の歴史的発展段階をある意味で無視した文明利用の実在。その中で、文明論、文化論、ボランティア論、宗教論、教育論などが語られていくのだ。
それぞれの観点について、現代高度文明社会で日常生活を送る人間に対して、グローバルに地球を眺めた視点からの問題提起を、著者が行っているように受け止めた。
ネパール奥地のナムリンという地域設定の虚構性が、逆にチベット・ネパールという地域についての普遍性を描き出す枠組みになっているようだ。そして、高度科学技術文明に汚された現代先進社会で疑問を抱かずに日常生活を送る人間に対して、「すばらしい新世界」とは何かを考えさせる形に導いていく。
もう一つ面白いと感じるのは、小説の中に頻繁に著者自身が顔を出す語り口である。まず、この作品の冒頭が、「この話をいったいどこから始めたものか、作者であるぼくは最初から迷っている」という一文から書き出されている。「今ごろになって言うのも変だが、林太郎とアユミがほんとうに『変な人』であるかどうか、作者は考え込んでいる」(p39、「日常生活の原理」の冒頭)、「林太郎は今、異国に向かって飛んでいる。作者は彼をいささかの不安とともに見守っている。」(p96)「小説の作者にはいろいろな悩みがつきまとう。」(p158、「偉人の肖像」の冒頭)「作者は不信心者である。何の信仰もない。」(p222、「信仰の問題」の書き出し4行目)といった具合である。作者もこの小説の登場人物として参画していると見た方がよいのかもしれない。この点、ちょっと、奇妙でおもしろい作品の仕上がりになっている。
この物語の最終段階で、風車建設とメンテナンスのための担当者教育を一通り終えた林太郎が、帰国しようとするときに熱を出す。帰国するためには家族を呼び寄せる必要があるとのンガパの助言で、森介が単身でナムリンまでやって来る。それは、林太郎はチベットの友人から、二人が出国する際に、秘かにテルマと称される埋蔵経典を運搬し、ダライ・ラマ猊下に届けるという使命を託されるという冒険譚の始まりになるのだ。ここで森介がどういう役回りを担ったかがおもしろい。読んでお楽しみいただければと思う。
最後に、印象深い章句をいくつか覚書かわりに抽出しておきたい。私に取っては、この作品を起点にして、改めて考えるための糧でもある。
*進歩って本当にそんなにいいものだろうか。不安もあるんだ。ここの暮らしを見て見ると、なんだかこのままでもいいんじゃないかって気がしてくる。余計なものを持ち込んで、平穏な暮らしをひっかき回して、いいんだろうか。
識字教育や生活の電化は本当に善か? それを決めるのはぼくたちではない。 p207
*アウトドアで生きてきた者はなかなかインドアには入れない。入ったら出られないわけではないのだろうが、心理的な敷居は踏み越えがたい。たくさんの中から一つを選ぶのがむずかしそうだし、さしあたりアウトドアで生きていけないわけではないのだ。 p223
*衆生を救うことと社会を救うことは違います。短い期限のうちに社会全体を救おうとすれば、無理な危ない方法に頼ることになる。それを成功させるほどの力はもちろんあの人(付記:オウム真理教のアサハラをさしている)にはなかった。だからああいう最悪の結果になった。
宗教は一方では永遠と無限を扱うのに、時々いきなり期限を突きつけます。終末論で人の不安をあおる。 p247
*毎日を生きていくことはできるけれど、自分が何のために生きているかがわからない。飢えた状態だから何にでもとびつく。 p248
*「ボランティアはまったく新しいことなんですよ」と塩沢さんは言った。「営利から一歩離れて自由になることなんです。あるいは、自発的な、下からの社会主義」 p270
*どんな場合にもまず相手を見る、相手が何を必要としているかを見るというのが、ボランティアの基本です。そうでないと善意の押しつけになる。慈善と偽善は紙一重なのですから。 p271
*こういう小規模で低価格のものもやっていかなければならないと思うんです。田舎の復権の日がやってくるとぼくは思っているんです。 p273
*その電力を供給する事業体がもしも安定供給を人質にして世界を脅迫したら、困ったことになる。・・・・いずれにしても、供給源は分散しておいた方がいいんですよ。そこで、集中化とはまったく逆に、少々効率が悪くても小さな施設をたくさん用意すべきだという考え方が出てくる。 p274
*「現場の知」という言葉がよく使われました。ボランティア活動で基礎になるのはこれだというのです。環境運動でもそうです。「現場の知」を欠いた運動はすべて堕落する。 p367
*外から持ち込まれたものは、現地になじまないかぎり、やがては死に絶える。あるいは現地の人を殺す。きつい言いかたをすればそういうことになります。なじませる主役が「現場の知」なのです。 p370
*警戒すべきは客観のふりをする主観だ。大東亜共栄圏の類。それが歴史の必然だというような言いかた。 p427
*人間がすることはいつだって間違いがつきまとう。それをゼロにはできない。だから人間がすることはすべて、ある程度の事故の確率を想定して行われる。でも、核の場合、事故の確率は変わらないのに(なんといっても同じ人間がやっているんですから)、事故の影響はずっと大きい。飛行機で万一の時は数百人が亡くなります。辛いことですが、このくらいの損害に人間はなんとか耐えられる。だから飛行機を飛ばすのをやめはしない。
核事故では、最悪の場合、その数字がもう二桁か三桁増えかねない。そして、そのような損害には人は耐えられないだろうと思うのです。だからあなたの風車が私の誇りなのです。 p468-469
*形容詞が多すぎる文章には用心した方がいい、というのは文章にたずさわる者の心得の一つである。そういう文章には誠意がない。形容詞を乱発するのは何かを隠している時だ。(付記:東海村でもらったパンフレットの言葉づかいが気になったという文脈で) p494
*「先進国を横目で見ながら、ここなりの暮らしやすさを求める。ちょっと便利になればいいんです。」「しかし、それには先進国の暮らしを知る必要がある。いずれにしても暮らしは変わらざるを得ない。外部から押しつけられたり、だまされたり、搾取されたりするのではなく、十分な情報を持った上で自分たちで選択する。そのための電気です。p501
*「超伝導のグローバル送電網や、砂漠に造る大規模な太陽光発電所もいいけれど、家庭レベルの電力管理も大事です」「陽光と風力という変動する生産量と、消費者の気まぐれというこれまた変動する消費量の関係を最適化する。集中と分散の組み合わせ」「あるいは、田舎暮らしの勧め、とか」 p508
*歳の違う子を見るということは、弱者への配慮の練習である。・・・・日本の子供はある時からそういうことを一切しなくなった。学童は学年で仕切られ、歳の違う子が接する場は奪われた。少子化が進んで家庭から弟や妹が消えた。従兄弟の数が減った。ご近所というものがなくなり、外遊びの伝統が失われた。
他人への関心が薄れて、みんながエゴばかり言い立てるギザギザした社会になったのは、子どもを年齢ごとの箱に囲い込んで、カリキュラムを押しつけた結果ではないのか。
ここの子どもたちは幼い子の面倒を見ることで温かい人間関係の基礎を身につけている。幼稚園受験の歪みで二歳の子どもが殺される世界からは遙かに遠い。 p522
*遊牧とは、家畜を導くことではなく、家畜の後についていくのだという言葉を林太郎は思い出した。 p546
*農業というのはもともとは周辺の自然とのトータルな交際であった。土に合わせ、水に合わせ、季節に合わせ、気候に合わせて、人はさまざまな作物を組み合わせて育てた。言ってみれば、それは観察と判断と労働からなる知的な舞踊だった。・・・・古風な総合的な農業を見た時、初めて自分たちが失ったものに気づく。 p550
*そうなのだ。国家とか民族とかではなく、結局は人と人の仲がことを決めるのだ。p567
著者は、p159に「虚構の枠組みの中に真理を埋め込むというのが、フィクションの原理である」と明確に記している。その点を追記しておきたい。本書を読み、ぜひ著者が埋め込んだ「真理」を見つけ出してほしい。
ご一読ありがとうございます。
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。
本書を読みながら、注目したキーワードから波紋を広げ、検索してみた項目を一覧にまとめておきたい。
再生可能エネルギー導入ポテンシャルマップ(平成22年度) :環境省
「自然エネルギー白書2011」 :自然エネルギー政策ポータルサイト
2011年版が公開されていて、pdfファイルでダウンロード可能です。
2012年5月1日に最新版「自然エネルギー白書2012」が発刊されていますが、有料です
認定NPO法人 環境エネルギー政策研究所(ISEP)編集
「風力発電導入促進に向けて」 :日本風力発電協会
第5回中長期ロードマップ委員会 資料 2010年6月
風力発電長期導入目標とロードマップ V1.1 2010/01/15 :日本風力発電協会
詳細資料「風力発電の賦存量とポテンシャルおよびこれに基づく長期導入目標とロードマップの算定 (V1.1)」
風力発電の仕組み/風力発電の技術的ポイント :「<<発電>>自然エネルギーの活用法」
小型風力発電 :「<<発電>>自然エネルギーの活用法」
地球に優しい小形風力発電 無電地帯における利用
チベット仏教 :ウィキペディア
密教 :ウィキペディア
タントラ :ウィキペディア
無上瑜伽タントラ :ウィキペディア
ロンチェン・ニンティック法脈 :「Mangala Shri Bhuti」
化身ラマ :ウィキペディア
ダライ・ラマ :ウィキペディア
ダライ・ラマ14世 :ウィキペディア
テルマ :ウィキペディア
ボランティア :ウィキペディア
NPO法人 れんげ国際ボランティア会
チベットスノーライオン友愛会と日本カム基金
特定非営利活動法人 ジュレー・ラダック
motherteresa-vol.com
ネパール ボランティア クエスト :「ユナイテッド・プラネット」
ネパールのボランティア :「海外移住情報 旅コラム」
梅光学院大学 ネパールボランティア実習 ビデオレポート前編 :YouTube
梅光学院大学 ネパールボランティア実習 ビデオレポート後編 :YouTube
石黒承子 「ネパール現地レポート」 :「JICA東北」
ヒマールチュリ (ネパールの元ボランティア教師のホームページ)
チベットを知るために :ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
19項目の一覧ページです。そこからリンクされているサイトをいくつか列挙
チベットの概要
チベットの歴史
現在のチベットの状況
ネパール連邦民主共和国 :外務省
基礎データ
最近のネパール情勢と日ネパール関係
ネパール :ウィキペディア
ネパール便り :「社団法人日本ネパール協会」HP
「孤児院の経営難」 投稿日: 2012年6月2日 作成者: jns
「生物多様性保全と先住民族の権利」投稿日: 2012年6月2日 作成者: jns
ナビィの恋 :ウィキペディア
セブン・イヤーズ・イン・チベット :ウィキペディア
チベットを知るための映画・ドキュメンタリー :ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。