遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『散り椿』 葉室 麟  角川書店

2012-09-23 15:05:30 | レビュー


 <五色八重散椿>と和歌一首
   くもり日の影としなれる我なれば目にこそ見えね身をばはなれず
印象として、この二つが発想の原点となってこの物語が紡ぎだされたと感じている。

 普通の椿はあたかも首がぽとりと落ちる様に、花が落ちる。それに対し、<五色八重散椿>は、花びらが一片一片散っていくという。そのひっそりと咲き散っていく寂しさ。この散り椿の姿を、著者は登場人物の幾人かに投影している。そんな思いでこの物語を読んだ。
 一方、和歌は、調べてみると『古今和歌集』巻十四、恋歌四にある。一つ前に小野小町の歌、一つ後は紀貫之の歌、その間にこの歌が載っていて、<しもつけのおむね>が詠んだ歌だった。著者は歌の作者に触れていない。歌そのものの歌意を本書で展開したかったのではないか。関わる人々の読み方で歌の解釈が大きく転換する。それが実に大きな意味を持ってくる。この和歌を返事に替えた心の機微を感じた。

 流浪の果てに、<五色八重散椿>の咲く京の地蔵院の庫裡に身を寄せて3年になる瓜生新兵衛とその妻・篠。病床に臥す篠が「もう一度、故郷の散り椿が見てみたい」という思いをいだいたまま、亡くなる。その篠が、夫・新兵衛に故郷に戻ってしてほしいという頼み事を託す。篠の頼み事を果たすために新兵衛は故郷である扇野藩六万五千石の地に戻る。そこからこの物語が始まる。

 勘定方だった瓜生新兵衛は勘定方頭取である榊原平蔵が田中屋惣兵衛から賄賂を受け取っていると重役に訴えた。それが原因で藩放逐の憂き目にあう。そして妻・篠とともに国を去った。その3年後に榊原平蔵が暗殺されてしまう。藩内では恨みに思う新兵衛が立ち戻っての仕業ではないかという噂が立つ。
 新兵衛は国にいた時、一刀流平山道場の代稽古を務める腕前であり、当時新兵衛を含め四天王と呼ばれる者たちがいた。榊原采女、篠原三右衛門、坂下源之進である。互いに切磋琢磨し、剣技を磨いた仲間だった。
 新兵衛が篠の頼み事を胸に国に戻った時には、勘定方だった坂下源之進は1年前に突如自害して果てていた。家老の石田玄蕃から使途不明金について糾問され、あくまで無実だと反論したその直後である。源之進は篠の妹・里美の夫だった。榊原采女は、榊原平蔵の養子であり、今や側用人となっていた。篠原三右衛門は馬廻役である。
 新兵衛は国に戻り、篠の妹・里美の居る坂下家を訪ねる。坂下家は源之進の息子・藤吾が家督を継ぎ、父の汚名をそそぐためにも、如何に立身出世をするかを常に考えながら勘定方として勤めるようになっている。小身からの出頭人であり側用人から家老に昇り詰めるのではないかと目されている榊原采女に、藤吾はひそかに憧れている。里美の勧めで新兵衛は坂下家に寄寓するようになる。立身を望む藤吾は叔父とはいえ、藩から放逐された新兵衛が寄寓することを心良しとは思わない。その藤吾が何時しか藩内の派閥抗争・政争の渦中に巻き込まれていく。

 国に戻った新兵衛は、田中屋惣兵衛を訪ねることを契機に、かつて自分が訴えた不正の事実背景を暴こうとする。榊原平蔵の不正には家老・石田玄蕃が陰で糸を引いていたことがわかっていたからだ。一方、榊原平蔵が暗殺された原因及び犯人の究明を試みようとする。だが、この行動が大きな波紋を拡げていくことになる。本書ではこの二つの謎解きが基軸となりながら、扇野藩の抱える問題が浮彫にされていく。

 平山道場を訪れた新兵衛は、代稽古を務める馬廻役の小杉十五郎に尋ねる。彼の父が目付方であり、15年前、榊原平蔵が斬られた後の検分をしていたからだ。十五郎が父から聞き伝えた内容は、鮮やかな切り口であり、平山道場の四天王のひとりがやったのではないかということだった。
 一方、田中屋惣兵衛を訪ねた新兵衛は、その帰り道に襲われる。その後田中屋から賄賂の事実を確かめるために、新兵衛は田中屋を幾度も訪ねる。その田中屋から襲われる危惧があるので、用心棒になってくれと頼み込まれる。扇野紙の公許紙問屋になっている田中屋がかつて榊原平蔵に賄賂を贈った問題に繋がる理由があったのだ。田中屋惣兵衛の身を護る大事な書状がそこに絡んでいた。その書状には現藩主親家の庶兄である鷹ケ峰様(刑部家斉)の名が記されていたのだ。新兵衛には、扇野藩の家督継承への確執につらなる背景が徐々に見えてくる。

 新兵衛が藩放逐の処分を受けた時、篠を離縁せずに伴って国を出たのは、篠の希望だったという。そこには、篠の複雑な思いがあった。
 新兵衛との縁談の前に、篠は榊原采女との間で互いの思いが芽生えてきており、父・平蔵の了承を得た采女から縁談を申し込まれていたのだ。だが、独自に大身の家から采女に妻を迎えさせようとしていた母・滋野が横槍を入れる。篠を悪者に仕立てて采女と篠の縁談話をご破算に追い込んでしまったのだ。それに立腹した篠の父は、速やかに瓜生新兵衛と篠の縁談を進めてしまったという経緯があった。
 新兵衛に嫁ぐ篠に采女は自らの思いを記した書状を届けさせる。篠はその返状を送る。そこには、冒頭に記した『古今和歌集』の歌一首が書かれているだけだった。
 采女はその後、滋野からの縁談話は全て断り、独り身を通す。側用人となった現在も妻を迎えてはいなかった。

 新兵衛が持ち帰り里美に形見分けとして渡した衣類を、里美は整理していて着物の袖に入っている三通の書状を見つける。それは采女が篠への思いを綴った書状だった。それを読んだ里美は複雑な思いに捕らわれる。篠の思い。采女の思い。新兵衛の思い。新兵衛はその書状を承知しているのか・・・・・
 新兵衛は、坂下家の屋敷に来た最初の夜、里美に「庭の椿を自分の代わりに見て欲しいと篠はわたしに頼んだのです。」(p109)と打ち明けていた。里美はそのことをはっと思い出す。

 扇野藩の十二代現藩主・右京大夫親家は、50を過ぎたばかりだが病がちであり、隠居願を幕府に出し、江戸育ちの嫡男左近将監政家に家督を譲る。その政家が来春初めて国入りをし、親政を行おうと考えているのだ。側用人榊原采女は政家に具申している立場にいる。一方鷹ケ峰様と繋がりを深めている国家老石田玄蕃にとって、それは大きな問題である。その渦中で、隠し目付・蜻蛉組がその姿を見せ始める。扇野藩内の政争の確執が徐々に深刻なものへと進展していく。

 政争の間に挟まれて翻弄される立場に陥っていく藤吾を新兵衛は時折助けながらも、知り得た事実を藤吾に教える。新兵衛は藤吾に言う。榊原平蔵の不正の一件を暴くという目的以外に、ひとり斬りたい男がいるのだと。
 藤吾は新兵衛を当初は疎ましく思いながらも、確執の渦中に投げ込まれ、新兵衛との関わりを深めていく。藤吾の心理的変化と成長の過程を描くことが、本書のサブテーマでもあったのではないか。それは散り椿ではない生き方として・・・。私はそういう風に受け止めた。

 この作品は、新兵衛による不正の解明と暗殺犯人の究明が、扇野藩一国の政争確執に及んで行き、そこにかつて共に切磋琢磨した平山道場の四天王が複雑に絡んでいたという構図になっている。この真相解明の推理プロセスが読ませどころである。
 一方、四天王の一人、榊原采女は新兵衛にとって、篠の思いを明らかにするために、一度は対峙しなければならない相手でもあった。そして、篠が采女に対する最後の返状に記した和歌に託した真意が、二人の対話で明らかになっていく。
 さらに、篠が新兵衛に、国に戻ってしてほしいと頼み事をした真意は何だったのか。
 
 散り椿は花びらが一片一片散っていく。あでやかに咲き、ひっそりと咲き散っていく椿には寂しさがある。この「散り椿」に、二重三重に人々の思い、生き様が重ね合わされている。一方、篠の脳裏に浮かんだ庭に咲く散り椿の花のことをこうも語らせている。
「白、紅の花びらがゆっくりと散っていく。あれは、寂しげな散り方ではなかった。豊かに咲き誇り、時の流れを楽しむが如き散り様だった」(p306)と。

 本書で印象深い文をいくつか記しておきたい。
*ひとは大切なものに出会えれば、それだけで仕合わせだと思うております。 p111
*お主たちにはわかるまいが、あれが、あの者たちの友としての情だったのであろう。 p273
*篠殿は、お主を生かすために心にもないことを言わねばならなかったのだぞ。そのつらさが、お主にはわからんのか。   p297
*新兵衛、散る椿はな、残る椿があると思えばこそ、見事に散っていけるのだ。 p307
*ひとには自ずと宿命がござる。それが嫌ならば家を捨て、国を出て生きるしかござりませぬ。欲しいものが手に入らぬからといって、無闇に謀をめぐらすのは武士のすることではござりますまい。 p342
*主君が魚であるとすれば、家臣、領民は水でござるぞ。水無くば、魚は生きられませぬ。このことをおわかりくださらねば、いたしかたござらぬ。  p343


ご一読、ありがとうございます。

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 本書に出てくる語句で、ネット検索して得た内容を一覧にしておきたい。

速水御舟「名樹散椿」 :「山種美術館」のHP
  作品解説 「作品紹介」ページの末尾に。
五色散り椿 :「私の花図鑑」
五色散り椿2:「私の花図鑑」
地蔵院(通称:椿寺)  :「名所旧跡めぐり」
京都歴史探訪 散りツバキ、枝垂れ桜と天野屋利兵衛ゆかりの地蔵院:「プロフ・ユキのブログ」
地蔵院(椿寺)・五色八重散り椿、三分咲き :「京都・フォト日記」
関西の椿の名所

海鼠塀 ← 海鼠壁 :「不動産用語集」
海鼠壁 :「城用語集」

譜代大名 :ウィキペディア
京職(きょうしき) :ウィキペディア
日本の官制 :ウィキペディア
武家官位  :ウィキペディア
戦国武士の官職名(官途・受領名):リサーチナビ 国立国会図書館
雑談「武家官位」(位階編) :「呆嶷独言部屋」
雑談「武家官位」(名乗り編):「呆嶷独言部屋」

詩経 :ウィキペディア
関関雎鳩 → 関雎 『詩經』周南 :「詩詞世界」碧血の詩篇

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