遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『安土城の幽霊 「信長の棺」異聞録』 加藤 廣  文藝春秋

2013-07-22 12:53:09 | レビュー
 著者は2005年に書き下ろし長編『信長の棺』で作家としてデビューした。本能寺の変の経緯に絡めて、変後に信長の死体が遂に発見されなかった謎に大胆な仕掛けの仮説と推理を盛り込んでストーリーを展開していたのが新鮮だった。出版当時に読んだがその頃は読後印象の覚書を残していない。再読したら、あらためて印象記をまとめてみたいと思っている。

 本書は副題に信長の棺異聞録と冠している。「信長の棺」というキーワードに惹かれて読んでみた次第。本書には「藤吉郎放浪記」(全67ページ)、「安土城の幽霊」(全78ページ)、「つくもなす物語」(全89ページ)という3つの小品が収録されている。直接には2つめの作品が本書のタイトルになったといえる。

「藤吉郎放浪記」
 針売りの行商をしていた藤吉郎は、東芳川(ひがしほうがわ)と呼ばれた小川のところで、今川氏の配下にあり頭陀城を預かる松下源太左衛門長則に声をかけられたことからその家来となる。この主人から嫁を世話されるがその嫁に逃げられる。それを潮に藤吉郎は出奔するのだが、源太左衛門に挨拶に行き、尾張の生駒屋敷を尋ねよと諭される。藤吉郎の行動を読んでいて、一筆まで準備していたのだ。その源太左衛門は、別れる前に藤吉郎の手相を診て、不思議な手と言い、もう一つ、案外な多情者の手相だと読み取る。
 これが縁で、生駒屋敷で、生駒八右衛門の許で働く内に、彼の妹・吉乃の許を訪れる信長のことを知り、信長に己を売り込む。そこから信長と秀吉の関係が生まれていく。この辺りの経緯に著者の想像力が大いに羽ばたいているように感じる。面白い箇所である。また本作品では、信長の家来になった藤吉郎が、清洲城時代に薪奉行に採りあげられて、そこで才覚を発揮し、頭角を現す様を描いている。このエピソードが史実なのかどうか、秀吉の伝記を読んでいないので不詳である。著者は「駿馬に塩車を引かせて苦しめるに同じ。大材を小事に用い続けるは愚かなこと」という言い伝えが残ると記す(p68)。この一行で、さもありそうな気がしてくる。著者は藤吉郎を「山の民」として設定している。
 信長と藤吉郎の関係が生まれていなければ、つまり、藤吉郎を見出す場がなければ、「信長の棺」への繋がりは発生しなかったことになる。歴史は変わっていたかもしれない。 清洲城時代から24年後、天正11年(1583)、大坂に城を築いた後、愛妾の一人、西の丸(京極龍子)と一緒に居る場で、秀吉が思いに耽るシーンを4ページほどの余談として著者は記している。このオチが興味深い。

「安土城の幽霊」
 徳川家康の立場から見た信長、信長への報復心が描かれている。天正7年(1579)、家康は信長の命で、己の妻・築山の死と嗣子・信康の切腹を甘受する。この作品はその翌年、天正8年に、家康が忍び軍団の総帥・服部半蔵正成を呼び出し、信長に仕返しをして、胸にわだかまる溜飲を少しでも下げたいという望みを語り、何らかの手を打ってくれと命じるところから始まる。
 女忍者を信長の居室に忍び込ませ、多志の幽霊を幻視させるという企みが作品の筋になっている。多志は、信長の愛人で事実上の正室だった吉乃の、死んだ先夫との間の子で、信長の命で荒木村重の後妻に押し込んだ女である。そして村重の謀叛の結果、多志とその侍女たち十数名は六条河原で打ち首となっている。多志の幽霊となり信長を威すという算段である。その企みを聴いた家康は、岐阜城にまつわる城と幽霊話の情報を半蔵に教える。このエピソードも面白い。
 ただの企み話では能がない。さすがに著者はそこに一ひねり加えてストーリーを展開させていく。この幽霊話を信長側から見れば、物の怪に憑かれた信長に対し、物の怪退散の秘法で対抗しようとする。織田家菩提寺・阿弥陀寺開山の清玉上人が請われて登場してくることになる。
 神仏や俗信を無視し合理主義に徹する信長が、清玉上人の呪文秘法で「信長復活」となるのだから、皮肉なものである。
 この作品にも、8ページの余話が付いている。信長が石山本願寺絡みで京に行き、新装なった本能寺を滞在場所にするという半蔵の報告に対し、家康が「運の悪い寺」だといい、砦同様かそれ以上の防御体制になっているという半蔵の言に、疑問を抱くという話。「信長の棺」への伏線を暗示するがごとしである。女忍び・千代を忘れていないのが、さすが家康というところ。
 信長が天主閣で戦略思索に時を過ごすという著者の描き方に信長への興味を一層深めている。信長の時間の使い方が描かれていて、興味深い。

「つくもなす物語」
 本作品は、現在は東京にある静嘉堂文庫美術館(岩崎家の蔵品を展示)が所蔵する「つくも茄子」という名物茶器の奇々怪々な因縁物語に信長も係わってしまったという筋立てである。本能寺の変を生み出した遠因はこの茶器ではないかといういわく話。実におもしろい。

 高さ6cm、重さ70g強の小壺である。明との交易品の中にひっそりと混じっていたという。足利三代将軍義満が明船の到来物をすべて自分で吟味する中から見出したのだ。播州・兵庫港に近い播磨国分寺の末寺で明船からの到来品を吟味するために義満は出かける。それに同行した女衆の中の少女が最初にこの小壺を発見したところから始まる。
 義満がその小壺を片時も傍から離さなくなるのだ。そして異変が起こる。
 この小壺が人から人に流転し、その有為転変が問題なのだ。どいういう風に持ち主が変化するかを記しておこう。
 義満-(足利家宝物蔵に眠る)ー足利義政-山名正豊-朝倉教景(宗滴)-小袖屋-松永弾正久秀-織田信長-豊臣秀吉-(徳川家康)-藤重家-岩崎家(弥太郎の弟・弥之助)-静嘉堂文庫美術館 である。

 この小壺が義満に天下取りの魔力を授けた器だと噂されるようになり、一方、異変が生じることから、あるときは「付喪神」の取り憑いた小壺と恐れるようになる。それが、義政の頃には、壺の甑際(こしきぎわ)に釉薬のかかっていない白い石間があることから、九十九髪(白髪)になぞらえられるようになったとする。
 
 上記の小壺の流転から何が想起できるか。この小壺から見た所有者の栄枯盛衰の顛末潭といえる。本能寺の変もその転変の一コマという訳だ。まさに異聞である。後は読んでお楽しみいただくとよい。人の不幸には関心を抱かされるもの。そんなことがあったのか・・・・と。つくも茄子が禍を引きよせた結果なのだと・・・・・。

 これら三作品、異聞の観点が全く異なる点がよい。「安土城の幽霊」には家康が全面的に関わり、「つくも茄子」には家康の好奇心が顔を覗かせるという点がおもしろい。あの吝嗇の家康が、つくも茄子の破片を徹底的に探させて、復元させたというのだ。だが、上記で括弧の中に入れたことには意味がある。そして、そこに本作品のオチが。この部分は、作品での余話としての語りなのだが。

ご一読ありがとうございます。


本書に出てくる語句で、周辺あるいは背景のイメージを広げるためにネット検索した結果を一覧にまとめておきたい。

山の民 → サンカ(民俗学):ウィキペディア
山の民 :「日月昭々 歴史ボード」

生駒屋敷跡(小折城跡) :「ふるさと江南歴史散歩道」江南市
生駒屋敷 →小折城 :ウィキペディア
尾張・生駒屋敷 :「城郭放浪記」
 写真館の10枚の中に「生駒屋敷絵図」が掲載されています。

生駒吉乃 :ウィキペディア
服部半蔵 → 服部保長 :ウィキペディア
  服部正成 :ウィキペディア

阿弥陀寺 :「信長墓所」(信長研究所)
清玉上人 → 阿弥陀寺の信長忌 :「京都旅屋」

大名物 唐物茄子茶入 付藻茄子(松永茄子) :「靜嘉堂文庫美術館」
九十九髪茄子 :ウィキペディア
唐物茶入「つくも茄子」:「戦国日本の津々浦々」

松永久秀 :ウィキペディア
岩崎弥之助:ウィキペディア



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