「はじめに」と「おわりに」を読めば、著者の意図が明確に述べられている。
著者は「地球上に生命活動が始まって以来、絶えることなく続いてきた生命エネルギー」(p191)を「聖なるもの」と呼ぶ。さらに「そのエネルギーを有するモノ」も「聖なるもの」とする。その上で、「『聖なる』意味はあくまで人間が歴史のなかで育て上げてきたものであって、自然と人間の歴史を超越したものではない」(p191)とその立脚視点を明にしている。また「風土も生活習慣もまったく異なる場所で、まるで示し合わせたかのように近似した思想が同じように育まれてきている例が少なくない」(p1)という。
本書は日本の伝統や文化のルーツについて、ユーラシアの各地にその淵源を求めることができると考えた「ルーツ探し」の旅のまとめである。「聖なるもの」の「かたち」を探り、地域や民族、宗教の違いを超えたかなたにみる「神々」の地下水脈を掘り当てる試みなのだと、著者はいう。
ユーラシアの各地に住む人間がそれぞれの歴史の中で育て上げてきた「聖なるもの」の「かたち」を探る著者の旅の過程は、我々の住む日本における「聖なるもの」とその「かたち」に様々な示唆を与えてくれる。この旅の記録は、我々にとって、日本を知る鏡の役割を果たしていると思う。何気なく思ってきた「聖なるもの」がユーラシア大陸のはるかかなたと結びついていたという不思議さ。
本書は次の各章で構成されている。目次をご紹介しよう。
はじめに
第1章 根源的なるもの 大地 /水 /火
第2章 食べものの聖性 無花果 /米と麦 /薬草
第3章 聖なる幻獣 蛇と竜 /幻獣マカラ /無常大鬼とメドゥーサ
第4章 コスモスを求めて 世界軸と須弥山 /マンダラ /人体という宇宙
第5章 祈りのゆくえ 舞踏 /供物 /聖なるものへ
おわりに
目次から類推できるように、全体としてゆるやかな流れがあるが、項目は列挙主義的でそれぞれのエッセイが独立してそれなりにひとつのまとまりとして完結している。場合によっては、関心のある項目から読み進めてもそれほど支障はないと思う。
仏教思想では地・水・火・風・空の5つを宇宙の生成要素だと説く。本書では「根源的なるもの」として、この内の大地・水・火を取り上げている。例えば「大地」のエッセイでは、「『旧約聖書』における大地」「古代インドにおける大地」「マンダラにおける地」「空海における地」「聖なるものの『かたち』とは」という小見出しで、大地に人々が見いだし、与えた意味の考察を著者は展開する。『旧約聖書』、古代インド、古代ギリシャでは大地そのものを認識しているが、特別に聖性を与えていないと考察を進め、5~6世紀以降の密教の台頭により、大地が聖性を帯びるようになったという。そして9世紀に唐で密教理論を学んだ空海が日本にマンダラの世界観をもたらしたと説く。現象世界が「聖なるもの」であるという考え方が伝えられたのだ。それが日本古来の宇宙観に通じるものがあったので、日本に仏教が根付いたと説く。
「聖なるもの」ととそれが現される「かたち」がキーワードである。それが「大地」という切り口でその受け止め方が分析され、判別されたといえる。ユーラシア空間の広がりとその地の歴史の悠遠なる時の深みの中で、流れ来る「聖なるもの」とその「かたち」について、どこに水脈の源があるかが辿られる。「大地」について、「聖なるもの」としての認識は、密教の台頭という時点、その発祥地に淵源があったということなのだ。
考察のスケールに沿いながら、その事実の分析、例示説明のプロセスを楽しみ、知的好奇心を満たしていける本である。この本は、「聖なるもの」と「かたち」を求める切り口ごとに考察がまとめられている。
われわれは日本の神道と仏教をとおして、聖なるものの「かたち」を自然に、あたりまえのごとくに受け入れている。普段はそれで通り過ぎてしまう。立ち止まり、その意味を問うことはない。
だが、喩えれば、ユーラシア文明の各地に淵源を持つ水が、はるかかなたから流れくるプロセスでいくつものフィルターを通して濾された水となる。それが日本にもたらされ、日本の水と混ざり融合した。その水を何気なく水として受け止めているだけ。しかし、その水脈を辿って、遡っていくという行為が、「あたりまえ」というベールを取り払ってくれる。そこに新鮮さとエキゾチシズム、その反面の共通基盤の存在する感覚を見いだしていく。私にはその点が興味深い。所変われば品変わるという言い回しがあるが、変化はあれどその基盤に共通する要素があるということ、現在の「あたりまえ」感を視点を変えて見るきっかけとなることが、実に楽しい。
各エッセイに大村次郷氏の写真が数葉掲載されている。私には他書や映像、展覧会その他で、今まで見たことのない写真を数多く見る事ができたのもイメージを広げる契機になった。私が興味・関心をいだいた写真をいくつかご紹介しよう。写真をまず見ることで、本書への興味が高まるかもしれないから。
アルテミスの神像:トルコ(p5)、ナムチェ・バザールの仏塔:ネパール(p11)
タ・プローム遺跡のガジュマル:カンボジア(p51)、ウロボロスのレリーフ:シリア(p83)
シヴァ神のシンボル、リンガ:ネパール(p81)、石窟寺院天井のナーガ:インド(p91)
マカラのレリーフ:インド(p95)、キールティムカ:インド(p97,107)
少林寺の鴟尾:中国(p103)、地下貯水槽の柱石のメドゥーサ:トルコ(p111)
エローラ石窟:インド(p117,p119) など。
本書からその淵源について学んだこと、あるいは目からウロコと思えたことを、第3章までの範囲で引用し例示してみたい。
*ヴェーダの宗教の後に生まれたヒンドゥー教における最も一般的な儀礼は、プージャー(供物を捧げて神を崇めること:供養)である。・・・プージャーは日本の仏教にも取り入れられており、真言宗では十八道として行われている。 p21
*インド・ヨーロッパ語族は、火の儀礼を重視してきた。古代ギリシャの儀礼において火が聖なるものであったことはよく知られている。・・・ヴェーダの宗教(バラモン教)では「火の神への供物の奉献」はホーマと呼ばれ、ゾロアスター教ではハマオと呼ばれる。これらの名詞が同族の動詞から派生したことは明かだ。 p30
*インドやネパールなどでは、人と火は運命的に結びつけられている。・・・・火は「許された時を終えた身体」つまり遺体や終焉を迎えた世界(宇宙)を焼き尽くす。では、それで何もかも終わりなのか。いや、そうではない。インド人たちは何もない無は考えない。消滅あるいは無の後には必ず再生がある、と考えられている。火葬によって肉体が亡くなったとしても、それは魂を包んでいる衣服がなくなったにすぎない。人が古い衣服を捨てて新しい衣服をまとうように、魂は輪廻の世界の中でまた新しい肉体をまとう。火は古いものを焼き、新しいものを用意するのである。 p33-34
*死者の霊を送るものといえば、光明真言が思い出される。・・・『般若心経』を読む時に一緒に唱えられることもある。また、真言宗では、通夜の時や火葬の直前などに唱えられる。インドにおいてこの真言が死者の霊を送るためのものであったとは考えられない・・・ちなみに、インドでは光は「火」の要素の一つのあり方である。 p36
*インドにおいても三種のイチジク(無花果)が特に「聖なる」樹である。ニャグローダ、ピッパラ(インド菩提樹)およびウドゥンバラである。 p42
*日本では「菩提樹」といえば、シューベルト作曲、ミュラー作詞の歌曲を思い出す。・・・ここで詠われている菩提樹はリンデンバウムのことだが、これはインドの菩提樹つまりピッパラとは別物であり、シナノキ科の落葉樹である。リンデンバウムの葉の先端はわずかにとがっており、インドの菩提樹の葉の形と似ている。おそらくはこの類似点のためにリンデンバウムが菩提樹と呼ばれるようになったと思われる。・・・結局、リンデンバウムから区別するために「インド菩提樹」と呼ばれるようになった。 p48
*米俵の上で笑っている大黒は、日本神話の大国主命の「大国」が「だいこく」と読まれて、インド伝来の「マハーカーラ」(大いなる黒い者、シヴァ神)とみなされたと考えられている。このようにユーラシアの神々と米とは日本においても結びついてきた。 p56
*東インドでは、しばしば小さな丸い米の餅が作られる。これは祖先に捧げるもの(ピトリ・ピンダ)であって、彼岸団子の格好だ。・・・・この小さな丸餅が、インドから中国や朝鮮を通って日本の彼岸団子になったのだろう。 p60
*現在のパキスタンとインドとの国境線は、世界のパンの作り方の境界線でもある。p62
→ パキスタン以西は発酵パン、インド以東は無発酵の小麦食品あるいは米
チベット人は無発酵のツァンパ、チベット自治区より西の地域は発酵パン
*パンと水の正餐は、『新約聖書』の成立期とほとんど同時代に興隆していたミトラ教にも見られた。・・・人々は、そしてわれわれは「聖なるもの」としての「パン」を恵みとして食べているのである。 p64
*ヒンドゥー教の神シヴァのシンボルであるリンガ・・・リンガとは、元来は目印を意味するが、男性の目印つまり男根のことでもある。古代インド社会に男根崇拝が存在したことは明らかだ。・・・起源前1,2世紀頃になって、リンガ崇拝はシヴァ崇拝の中に組み入れられていったのだが、その際、リンガはシヴァ神のシンボルとして採用されたものと考えられる。 p80
*自身の尾を咥える蛇は、古代ギリシャではウロボロスと呼ばれ、再生や完全性を意味すると考えられてきた。蛇は脱皮して大きくなることから、再生や不死を意味するものと考えられてきたのだが、古代エジプトにも見られるそのイメージの源泉は、詳らかではない。 p82
*ヒンドゥー教の主神のひとりヴィシュヌ神は、神話の中で、世界を創造した後、海上でとぐろを巻く巨大な蛇アナンタ(無限なるもの)の上でまどろむ。また図像化されたヴィシュヌ神の頭上を覆う傘は、喉を膨らませたコブラの鎌首である。インドや東南アジア諸国の仏教寺院では、ブッダは身体を身体をコイル状に巻いた蛇の上に坐し、ブッダの頭上には、喉を膨らませた鎌首が傘あるいは光背の役をなす蛇の造形が見られる。 p86
*『道成寺縁起絵巻』には、鐘に長い体を巻き付け、口から火を吐いている竜が描かれているが、このイメージは、奇妙なほど・・・リンガに巻き付く蛇クンダリーニのそれと似ている。インドからの直接的な影響があったとは思えないのだが。 p88
*インドでは、鐘あるいは鈴は女性のシンボルであることはよく知られている。密教では金剛杵(ヴァジュラ)は男性原理=迷いの世界を、鈴(ガンター)は女性原理=悟りを意味する。 p88
*後世のヒンドゥー教では・・・シヴァ派とヴィシュヌ派に加え、ヒンドゥー教の第三の勢力として女神崇拝(シャクティズム)を数えるのが、今日では一般的となっている。 p90
*「こんぴら」(金比羅)という名称・・・これはサンスクリットの「クムビーラ」が転訛したものだ。・・・・ワニに似た伝説上の幻獣「マカラ」のことである。名古屋城大天守の屋根の上で逆立ちしている金鯱も、実はマカラだ。この幻獣の故郷は、ナイル河のあたりらしい。 p92
*マカラは、多くの場合、ライオンに似た顔面と両手のみの幻獣キールティムカと組になって現れる。 p99
*「キールティムカ」とは、文字通りには「ほまれの[高い]顔」を意味する。・・・キールティムカは輪廻図以外にも現れる。そうした場合、一般には顔のみで胴はなく、口には二匹の蛇を咥えている。顔の両側から両手がのびて、それぞれの手が蛇を掴んでいる。p106
*インドでキールティムカ、日本で無常大鬼と呼ばれている・・・・中国や日本では、「無常大鬼」は、輪廻という世界が無常であることを見せつけているようであり、無常なる世をとらえている鬼神と考えられた。
東南アジアではこの幻獣はカーラ(時)とも呼ばれる。または、インドではカーラは「それぞれに許された時を司る者」という意味で「死に神」をも意味する。輪廻の輪を咥え、両手で輪廻の輪を掴んでいる姿は「時」あるいは「死に神」と呼ばれるにふさわしい。 p109
*キールティムカの源泉を考える際に、ゴルゴーンと呼ばれるギリシャ神話の怪物との関係を考えるべきであろう。・・・ゴルゴーンの3人の娘のひとりがメドゥーサだ。メドゥーサの顔は髪の毛が蛇であったといわれる。勇者ペルセウスに首を切り落とされた後もメドゥーサの首は人々を石に変えてしまう力を持ち、多産豊饒の神としてローマ帝国および西アジアの領域において崇拝された。 p110
*インドにおけるキールティムカは基本的には獅子の顔をしているが、このことはどこかの時点で「シリア的要素」と結びついた結果とも考えられる。・・・・
多聞天は毘沙門天とよばれることがある。この天はしばしば腹部にキールティムカを付ける。ベルトがこの「獅子」の口に懸かっていることが多い。・・・尊像の腹部に見られるキールティムカは、「獅噛」(しがみ)と呼ばれる。文字通り、獅子が噛みつく、というイメージを踏まえている。 p112-114
名古屋の金鯱がインドを経て、ギリシャ神話のメドゥーサに及び、近くでは多聞天のベルトの「獅噛」に繋がっていた、というのは実に悠久の時を経、雄大な広がりをもつ。実に楽しい旅ではないだろうか。ユーラシア文明を旅してみよう。
ご一読ありがとうございます。
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本書に関連する語句をネット検索してみた、一覧にしておきたい。
ゾロアスター教 :「バルバロイ」
ピッパラ → ブッダガヤの大菩薩寺 :「タイに魅せられてロングステイ」
大国主 :ウィキペディア
大黒天 :ウィキペディア
マハーカーラ論 小目次 :「石仏ライブラリ」(大畠洋一著作集)
シヴァという世界観 :「chaichai」
リンガ(男根像)(Lingam) :「バルバロイ」
金鯱 :ウィキペディア
兜跋毘沙門天 :ウィキペディア
兜跋毘沙門天像(教王護国寺)の写真の腹部にキールティムカが付けられている。
「獅噛」(しがみ)と呼ばれているという。
毘沙門天の海若と鬼瓦とキールティムカ No340 :「吉田一氣の熊本霊ライン」
無常大鬼 → チベット縦断3000kmツアー第10回:「須摩ビーチ猫通信(from神戸)」
メドゥーサ :ウィキペディア
カイラーサ・ナータ寺院 :「のぶなが」
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著者は「地球上に生命活動が始まって以来、絶えることなく続いてきた生命エネルギー」(p191)を「聖なるもの」と呼ぶ。さらに「そのエネルギーを有するモノ」も「聖なるもの」とする。その上で、「『聖なる』意味はあくまで人間が歴史のなかで育て上げてきたものであって、自然と人間の歴史を超越したものではない」(p191)とその立脚視点を明にしている。また「風土も生活習慣もまったく異なる場所で、まるで示し合わせたかのように近似した思想が同じように育まれてきている例が少なくない」(p1)という。
本書は日本の伝統や文化のルーツについて、ユーラシアの各地にその淵源を求めることができると考えた「ルーツ探し」の旅のまとめである。「聖なるもの」の「かたち」を探り、地域や民族、宗教の違いを超えたかなたにみる「神々」の地下水脈を掘り当てる試みなのだと、著者はいう。
ユーラシアの各地に住む人間がそれぞれの歴史の中で育て上げてきた「聖なるもの」の「かたち」を探る著者の旅の過程は、我々の住む日本における「聖なるもの」とその「かたち」に様々な示唆を与えてくれる。この旅の記録は、我々にとって、日本を知る鏡の役割を果たしていると思う。何気なく思ってきた「聖なるもの」がユーラシア大陸のはるかかなたと結びついていたという不思議さ。
本書は次の各章で構成されている。目次をご紹介しよう。
はじめに
第1章 根源的なるもの 大地 /水 /火
第2章 食べものの聖性 無花果 /米と麦 /薬草
第3章 聖なる幻獣 蛇と竜 /幻獣マカラ /無常大鬼とメドゥーサ
第4章 コスモスを求めて 世界軸と須弥山 /マンダラ /人体という宇宙
第5章 祈りのゆくえ 舞踏 /供物 /聖なるものへ
おわりに
目次から類推できるように、全体としてゆるやかな流れがあるが、項目は列挙主義的でそれぞれのエッセイが独立してそれなりにひとつのまとまりとして完結している。場合によっては、関心のある項目から読み進めてもそれほど支障はないと思う。
仏教思想では地・水・火・風・空の5つを宇宙の生成要素だと説く。本書では「根源的なるもの」として、この内の大地・水・火を取り上げている。例えば「大地」のエッセイでは、「『旧約聖書』における大地」「古代インドにおける大地」「マンダラにおける地」「空海における地」「聖なるものの『かたち』とは」という小見出しで、大地に人々が見いだし、与えた意味の考察を著者は展開する。『旧約聖書』、古代インド、古代ギリシャでは大地そのものを認識しているが、特別に聖性を与えていないと考察を進め、5~6世紀以降の密教の台頭により、大地が聖性を帯びるようになったという。そして9世紀に唐で密教理論を学んだ空海が日本にマンダラの世界観をもたらしたと説く。現象世界が「聖なるもの」であるという考え方が伝えられたのだ。それが日本古来の宇宙観に通じるものがあったので、日本に仏教が根付いたと説く。
「聖なるもの」ととそれが現される「かたち」がキーワードである。それが「大地」という切り口でその受け止め方が分析され、判別されたといえる。ユーラシア空間の広がりとその地の歴史の悠遠なる時の深みの中で、流れ来る「聖なるもの」とその「かたち」について、どこに水脈の源があるかが辿られる。「大地」について、「聖なるもの」としての認識は、密教の台頭という時点、その発祥地に淵源があったということなのだ。
考察のスケールに沿いながら、その事実の分析、例示説明のプロセスを楽しみ、知的好奇心を満たしていける本である。この本は、「聖なるもの」と「かたち」を求める切り口ごとに考察がまとめられている。
われわれは日本の神道と仏教をとおして、聖なるものの「かたち」を自然に、あたりまえのごとくに受け入れている。普段はそれで通り過ぎてしまう。立ち止まり、その意味を問うことはない。
だが、喩えれば、ユーラシア文明の各地に淵源を持つ水が、はるかかなたから流れくるプロセスでいくつものフィルターを通して濾された水となる。それが日本にもたらされ、日本の水と混ざり融合した。その水を何気なく水として受け止めているだけ。しかし、その水脈を辿って、遡っていくという行為が、「あたりまえ」というベールを取り払ってくれる。そこに新鮮さとエキゾチシズム、その反面の共通基盤の存在する感覚を見いだしていく。私にはその点が興味深い。所変われば品変わるという言い回しがあるが、変化はあれどその基盤に共通する要素があるということ、現在の「あたりまえ」感を視点を変えて見るきっかけとなることが、実に楽しい。
各エッセイに大村次郷氏の写真が数葉掲載されている。私には他書や映像、展覧会その他で、今まで見たことのない写真を数多く見る事ができたのもイメージを広げる契機になった。私が興味・関心をいだいた写真をいくつかご紹介しよう。写真をまず見ることで、本書への興味が高まるかもしれないから。
アルテミスの神像:トルコ(p5)、ナムチェ・バザールの仏塔:ネパール(p11)
タ・プローム遺跡のガジュマル:カンボジア(p51)、ウロボロスのレリーフ:シリア(p83)
シヴァ神のシンボル、リンガ:ネパール(p81)、石窟寺院天井のナーガ:インド(p91)
マカラのレリーフ:インド(p95)、キールティムカ:インド(p97,107)
少林寺の鴟尾:中国(p103)、地下貯水槽の柱石のメドゥーサ:トルコ(p111)
エローラ石窟:インド(p117,p119) など。
本書からその淵源について学んだこと、あるいは目からウロコと思えたことを、第3章までの範囲で引用し例示してみたい。
*ヴェーダの宗教の後に生まれたヒンドゥー教における最も一般的な儀礼は、プージャー(供物を捧げて神を崇めること:供養)である。・・・プージャーは日本の仏教にも取り入れられており、真言宗では十八道として行われている。 p21
*インド・ヨーロッパ語族は、火の儀礼を重視してきた。古代ギリシャの儀礼において火が聖なるものであったことはよく知られている。・・・ヴェーダの宗教(バラモン教)では「火の神への供物の奉献」はホーマと呼ばれ、ゾロアスター教ではハマオと呼ばれる。これらの名詞が同族の動詞から派生したことは明かだ。 p30
*インドやネパールなどでは、人と火は運命的に結びつけられている。・・・・火は「許された時を終えた身体」つまり遺体や終焉を迎えた世界(宇宙)を焼き尽くす。では、それで何もかも終わりなのか。いや、そうではない。インド人たちは何もない無は考えない。消滅あるいは無の後には必ず再生がある、と考えられている。火葬によって肉体が亡くなったとしても、それは魂を包んでいる衣服がなくなったにすぎない。人が古い衣服を捨てて新しい衣服をまとうように、魂は輪廻の世界の中でまた新しい肉体をまとう。火は古いものを焼き、新しいものを用意するのである。 p33-34
*死者の霊を送るものといえば、光明真言が思い出される。・・・『般若心経』を読む時に一緒に唱えられることもある。また、真言宗では、通夜の時や火葬の直前などに唱えられる。インドにおいてこの真言が死者の霊を送るためのものであったとは考えられない・・・ちなみに、インドでは光は「火」の要素の一つのあり方である。 p36
*インドにおいても三種のイチジク(無花果)が特に「聖なる」樹である。ニャグローダ、ピッパラ(インド菩提樹)およびウドゥンバラである。 p42
*日本では「菩提樹」といえば、シューベルト作曲、ミュラー作詞の歌曲を思い出す。・・・ここで詠われている菩提樹はリンデンバウムのことだが、これはインドの菩提樹つまりピッパラとは別物であり、シナノキ科の落葉樹である。リンデンバウムの葉の先端はわずかにとがっており、インドの菩提樹の葉の形と似ている。おそらくはこの類似点のためにリンデンバウムが菩提樹と呼ばれるようになったと思われる。・・・結局、リンデンバウムから区別するために「インド菩提樹」と呼ばれるようになった。 p48
*米俵の上で笑っている大黒は、日本神話の大国主命の「大国」が「だいこく」と読まれて、インド伝来の「マハーカーラ」(大いなる黒い者、シヴァ神)とみなされたと考えられている。このようにユーラシアの神々と米とは日本においても結びついてきた。 p56
*東インドでは、しばしば小さな丸い米の餅が作られる。これは祖先に捧げるもの(ピトリ・ピンダ)であって、彼岸団子の格好だ。・・・・この小さな丸餅が、インドから中国や朝鮮を通って日本の彼岸団子になったのだろう。 p60
*現在のパキスタンとインドとの国境線は、世界のパンの作り方の境界線でもある。p62
→ パキスタン以西は発酵パン、インド以東は無発酵の小麦食品あるいは米
チベット人は無発酵のツァンパ、チベット自治区より西の地域は発酵パン
*パンと水の正餐は、『新約聖書』の成立期とほとんど同時代に興隆していたミトラ教にも見られた。・・・人々は、そしてわれわれは「聖なるもの」としての「パン」を恵みとして食べているのである。 p64
*ヒンドゥー教の神シヴァのシンボルであるリンガ・・・リンガとは、元来は目印を意味するが、男性の目印つまり男根のことでもある。古代インド社会に男根崇拝が存在したことは明らかだ。・・・起源前1,2世紀頃になって、リンガ崇拝はシヴァ崇拝の中に組み入れられていったのだが、その際、リンガはシヴァ神のシンボルとして採用されたものと考えられる。 p80
*自身の尾を咥える蛇は、古代ギリシャではウロボロスと呼ばれ、再生や完全性を意味すると考えられてきた。蛇は脱皮して大きくなることから、再生や不死を意味するものと考えられてきたのだが、古代エジプトにも見られるそのイメージの源泉は、詳らかではない。 p82
*ヒンドゥー教の主神のひとりヴィシュヌ神は、神話の中で、世界を創造した後、海上でとぐろを巻く巨大な蛇アナンタ(無限なるもの)の上でまどろむ。また図像化されたヴィシュヌ神の頭上を覆う傘は、喉を膨らませたコブラの鎌首である。インドや東南アジア諸国の仏教寺院では、ブッダは身体を身体をコイル状に巻いた蛇の上に坐し、ブッダの頭上には、喉を膨らませた鎌首が傘あるいは光背の役をなす蛇の造形が見られる。 p86
*『道成寺縁起絵巻』には、鐘に長い体を巻き付け、口から火を吐いている竜が描かれているが、このイメージは、奇妙なほど・・・リンガに巻き付く蛇クンダリーニのそれと似ている。インドからの直接的な影響があったとは思えないのだが。 p88
*インドでは、鐘あるいは鈴は女性のシンボルであることはよく知られている。密教では金剛杵(ヴァジュラ)は男性原理=迷いの世界を、鈴(ガンター)は女性原理=悟りを意味する。 p88
*後世のヒンドゥー教では・・・シヴァ派とヴィシュヌ派に加え、ヒンドゥー教の第三の勢力として女神崇拝(シャクティズム)を数えるのが、今日では一般的となっている。 p90
*「こんぴら」(金比羅)という名称・・・これはサンスクリットの「クムビーラ」が転訛したものだ。・・・・ワニに似た伝説上の幻獣「マカラ」のことである。名古屋城大天守の屋根の上で逆立ちしている金鯱も、実はマカラだ。この幻獣の故郷は、ナイル河のあたりらしい。 p92
*マカラは、多くの場合、ライオンに似た顔面と両手のみの幻獣キールティムカと組になって現れる。 p99
*「キールティムカ」とは、文字通りには「ほまれの[高い]顔」を意味する。・・・キールティムカは輪廻図以外にも現れる。そうした場合、一般には顔のみで胴はなく、口には二匹の蛇を咥えている。顔の両側から両手がのびて、それぞれの手が蛇を掴んでいる。p106
*インドでキールティムカ、日本で無常大鬼と呼ばれている・・・・中国や日本では、「無常大鬼」は、輪廻という世界が無常であることを見せつけているようであり、無常なる世をとらえている鬼神と考えられた。
東南アジアではこの幻獣はカーラ(時)とも呼ばれる。または、インドではカーラは「それぞれに許された時を司る者」という意味で「死に神」をも意味する。輪廻の輪を咥え、両手で輪廻の輪を掴んでいる姿は「時」あるいは「死に神」と呼ばれるにふさわしい。 p109
*キールティムカの源泉を考える際に、ゴルゴーンと呼ばれるギリシャ神話の怪物との関係を考えるべきであろう。・・・ゴルゴーンの3人の娘のひとりがメドゥーサだ。メドゥーサの顔は髪の毛が蛇であったといわれる。勇者ペルセウスに首を切り落とされた後もメドゥーサの首は人々を石に変えてしまう力を持ち、多産豊饒の神としてローマ帝国および西アジアの領域において崇拝された。 p110
*インドにおけるキールティムカは基本的には獅子の顔をしているが、このことはどこかの時点で「シリア的要素」と結びついた結果とも考えられる。・・・・
多聞天は毘沙門天とよばれることがある。この天はしばしば腹部にキールティムカを付ける。ベルトがこの「獅子」の口に懸かっていることが多い。・・・尊像の腹部に見られるキールティムカは、「獅噛」(しがみ)と呼ばれる。文字通り、獅子が噛みつく、というイメージを踏まえている。 p112-114
名古屋の金鯱がインドを経て、ギリシャ神話のメドゥーサに及び、近くでは多聞天のベルトの「獅噛」に繋がっていた、というのは実に悠久の時を経、雄大な広がりをもつ。実に楽しい旅ではないだろうか。ユーラシア文明を旅してみよう。
ご一読ありがとうございます。
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ゾロアスター教 :「バルバロイ」
ピッパラ → ブッダガヤの大菩薩寺 :「タイに魅せられてロングステイ」
大国主 :ウィキペディア
大黒天 :ウィキペディア
マハーカーラ論 小目次 :「石仏ライブラリ」(大畠洋一著作集)
シヴァという世界観 :「chaichai」
リンガ(男根像)(Lingam) :「バルバロイ」
金鯱 :ウィキペディア
兜跋毘沙門天 :ウィキペディア
兜跋毘沙門天像(教王護国寺)の写真の腹部にキールティムカが付けられている。
「獅噛」(しがみ)と呼ばれているという。
毘沙門天の海若と鬼瓦とキールティムカ No340 :「吉田一氣の熊本霊ライン」
無常大鬼 → チベット縦断3000kmツアー第10回:「須摩ビーチ猫通信(from神戸)」
メドゥーサ :ウィキペディア
カイラーサ・ナータ寺院 :「のぶなが」
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