この作品もまた、赤穂浪士忠臣蔵異聞といえる。異聞としては、雨宮蔵人・咲弥夫妻を軸として描き出された『花や散るらん』につぐ2作目となる。作品構成の基調となるスタイルには通底する部分がある。『花や散るらん』では、西行の歌と能「熊野」に出てくる和歌が底流にあり、蔵人・咲弥という夫婦を中心としたストーリー展開を通して、忠臣蔵が関わり織り込まれて行った。この作品もまた、忠臣蔵の義挙決行を周辺部の観点から織り交ぜながら描くというスタンスである。
著者は忠臣蔵という史実の間隙に、その周辺部に様々な人物を創作し、鮮やかに織り込んで行くことで、忠臣蔵のストーリーに光を当てていく。周辺部の人物を介して、その人物の生き様を主軸にしながら忠臣蔵の真実に迫るというテーマがここに結実している。
この作品でも、忠臣蔵の史実に対して、著者が次の和歌などに惹かれたことが創作欲を膨らませているのではないだろうか。
はだれ雪あだにもあらで消えぬめり世にふるごとやもの憂かるらん
と言う和歌の心が底流になる。この小説の主人公の一人、永井勘解由(ながいかげゆ)がふとつぶやいた歌として登場する。小説の中に『夫木和歌抄』に載る和歌と記されている。調べて見ると、『夫木和歌抄』巻十八・冬三に第7195番目の歌として収録されている。(国際日本文化研究センターの和歌デーダベース)
そして、戦国時代を生き抜いた蒲生氏郷の辞世の歌といわれる
限りあれば吹かねど花は散るものを心短き春の山風
万葉集に載る大伴家持の歌
わが薗の李(すもも)の花か庭に降るはだれのいまだ残りたるかも
この三首の歌に、箏曲「六段の調(しらべ)」(八橋検校作曲)、「梅枝(うめがえ)」(同作曲・別名<千鳥の曲>、源氏物語の『梅枝』に出てくる「梅が枝に 来いる鶯や ・・・・・」で始まる催馬楽と、琴、横笛、笙で奏される曲「想夫恋(そうふれん)」が配される。
さらに、史料が残っているのだろう。この小説のストーリー展開に以下がぴたりと織り込まれていく。
浅野内匠頭の口述による遺言
この段かねて知らせ申すべく候へども、今日やむを得ざる事に候ゆえ、
知らせ申さず候、不審に存ずべく候
浅野内匠頭の辞世歌
風さそう花よりもなお我はまた春の名残をいかにとかせん
萱野三平の俳句
晴れゆくや日ころこころの花くもり
大石内蔵助が作詞したという地歌の<狐火>と<里景色>
大石内蔵助の詠じた歌
とふ人とかたること葉のなかりせば身は武蔵野の露と答へん
あら楽し思ひはあるる身はすつる憂世の月にかかる雲なし
神埼与五郎の詠じた歌
照る月のまどかなるままにまどいする人の心の奧もくもらじ
吉良佐兵衛義周(さひょうえよしちか)が詠じた歌
雨雲は今夜の空にかかれども晴行くままに出る月かけ
この小説を読み、抜き出してみた。これらがストーリー展開のなかでどのように巧みに組みこまれ、織りなされているかも着目できるところだ。
小説のタイトル「はだれ雪」は、主人公・永井勘解由がつぶやいた和歌の冒頭の句に由来する。著者は「<はだれ雪>は、はらはらと降る雪だとも、とけ残り、まだらになった雪だともいう」(p20)と付記している。勿論、勘解由のつぶやきは「世にふるごとやもの憂かるらん」という下の句に心境が表出されているのである。
タイトルと照応するように、単行本の表紙に酒井抱一の「四季花鳥図屏風」の冬の場面が装画として使われているのも良い趣向と感じる。
「はだれ雪」自体は一方で、赤穂浪士の討ち入りの日を象徴しているとも考えられる。
この小説の時の流れは、元禄14年(1701)11月から16年の春にかけてである。
主人公となる永井勘解由は、赤穂浪士の討ち入り、忠臣蔵に関わる史実の間隙にフィクションとして創造した人物だろう。手許にある数冊の忠臣蔵に関する事実を分析する書を通覧した限りでは該当の人物は存在しない。逆にいえば、異聞として周辺部から忠臣蔵を副次的ストーリーの軸として語る上で、実に興味深い設定となっている。
勘解由は、二千五百石取りの旗本で、目付役だった。浅野内匠頭が切腹した日、切腹場所である田村右京大夫の屋敷に内匠頭の切腹する直前に、閉じ込められていた襖越しにわずかに言葉を交したという。勘解由は、稲葉正通の名を使い、目付として派遣されていた多門(たかど)伝八郎に問い合わせがあるとして田村屋敷に入った。しかし、勘解由も目付役ではあるが、浅野内匠頭の刃傷沙汰とは、役目上では無関係だったのである。なぜ勘解由が出向いたのか? そこには勘解由の内心に秘めた解けない思いが行動をとらせえた動機にある。著者も小説に明記しているが、検使としての目付・多門伝八郎は浅野内匠頭の切腹の前に様々な異を唱えた人物で実在した人で、自署を残している。
勘解由は浅野内匠頭の最後の言葉として何を聞いたのか? それについて様々な立場の人々により様々に憶測され、それが行動にも反映していくところに、このストーリー展開の面白さの一端がある。勘解由は黙して語らずの立場を当初は貫く。
殿中での刃傷事件の後、老中稲葉丹後守正通(まざみち)は刃傷沙汰発生の経緯が明らかになるまで、切腹の見合わせを主張したが、側用人柳沢美濃守吉保(よしやす)が切腹の断を下し、幕閣が押し切られたのである。浅野内匠頭の切腹見合せを稲葉正通に進言したのが勘解由だったという。また余談だが、上記『花や散るらん』では、柳沢保明という名前で柳沢吉保が登場している。保明から吉保に改名しているだけで、実在した同一人物である。元禄14年3月時点では、既に吉保と改名していたということか。ならば、前作は以前の名前で書かれていたことになる。勿論、小説なので厳密性は問わなくても作品を楽しむ分には何ら支障はない。少し調べた範囲では、不詳。なお、綱吉の諱の一字「吉」を与えられて「吉保」と改名したそうである。保明と吉保を一時期併用していた可能性もある。
この勘解由の行動が将軍綱吉の怒りにふれて扇野藩にお預けの身となる。実質上は流罪である。
この小説は、勘解由が扇野藩内の預け置かれる屋敷に到着するところから始まる。
扇野藩といえば、これも余談だが、葉室ワールドでは、『さわらびの譜』の舞台となった六万三千石の小藩である。
小藩にも内部に確執がある。家老馬場民部と次席の才津作左衞門は派閥争いを続けている。勘解由を流罪人として預かるにしろ、相手は旗本である。両者にとり、勘解由の扱い方について考え方が異なる。この事態をも政争相手を引きずりおろす材料と考えている。
流罪は一時的なもので綱吉の勘気が解けて江戸に呼び戻され、勘解由が幕閣に登用されるかもしれない。そうなら預かり中、粗略に扱うと将来に小藩の立場が悪くなるかもしれない。綱吉が気ままであるという噂もあり、綱吉の勘気が解けないと、厚遇しても無駄となる。流罪人を厚遇すれば世間のもの笑いになる可能性もある。勘解由が浅野内匠頭から何かを聞いているなら、浅野の旧家臣が近づくことも考えられる。それを防げなければ、扇野藩のは幕府の責めを受ける立場に陥る。吉良殿が浅野の旧臣に殺されるような事が起これば、その影響が扇野藩にどう及ぶか計りしれない。藩主信家は家老達の考えのいずれかを取るということはできない。ただ見守るだけである。
馬場民部が「ほどよきとことの対応が大事だ」という考えから始まる。そして、勘解由に関わり派閥抗争の策謀が繰り広げられていく。それぞれが藩のためと称して・・・・。
勘解由を扇野藩がどのように扱うかというやり方がストーリーの展開を色づけて行く。
扇野藩は勘解由を幽閉する屋敷に接待役として、嫁して3年だが後家となり子も生さずだったため実家の勘定方桑田家に戻っていた24歳の紗英(さえ)に接待役を命じる。家中でも琴の名手として知られ、控え目に世過ぎをしていたので、藩は適任と判断したのだ。接待役という名目だが、勘解由の監視役を兼ね、身の回りの世話をするというもの。勘解由に求められれば、流罪先での現地妻に等しい役割を果たせという訳である。
藩の為政層の様々な思惑が絡んでいるため、紗英に選択の余地はない。そこで、紗英は「自ら望んだように振舞う矜持を保とうと心に決め」(p14)、「わたしと永井様は結ばれてはならない」(p84)と自分に言い聞かせる。この紗英がもう一人の主人公である。ストーリーは、紗英の想いを主流にして語られていき、勘解由の想いが重奏していく。
紗綾と勘解由のそれぞれの過去が、二人の関わり方を大きく色づけていく。
紗綾は中川三郎兵衛の妻だったが、藩主が参勤交代で帰国の途次、間もなく国境というところで不慮の死を遂げる。行列の通過のために、古びた小橋を先行し確認に行くが、野犬が群がり寄ってきた。それを避けようとして足を踏み外し橋から落ち、露出の石に頭を打って死亡する。武士としてその死を取り沙汰されることになる。後家となった紗英は実家に戻る。夫の死に様が障害となり、世間に遠慮して生きる境遇に置かれていた。つまり、扇野藩の為政層にとり、紗綾は体の良い道具とみなされたのである。
勘解由は、父・松平隼人正と母・よしの息子だったが、勘解由が元服する前のある日、母が屋敷にて自害し、その後を追うようにして割腹死した。側用人の柳沢吉保が父の割腹を乱心しての自害と決めつけたという。松平家は改易となり、勘解由は親類預けの上、永井家の養子となった。親戚の者から母が自害する前に縁戚であるさる大名家に将軍の<お成り>があった際、手伝いのため出向いていたということだけそっと教えられた。また勘解由は「黒田殿に倣われたか」と親戚の者が漏らすのも聞いていた。勘解由の妻は嫁いできた後二年余りで病死したという。子供もいないので、勘解由は天涯孤独の身だった。勘解由は、柳沢吉保に取り立てられてきた反面、両親の死について確かめたい想いを心の内奥に秘めているのである。
流罪人勘解由、藩から接待役を命じられた紗英、召し使いとして松蔵と百姓娘のなかという4人の生活が始められていく。
この小説は、忠臣蔵異聞語りが重要な筋ではあるが、メインとなるストーリーは、勘解由と紗英という二人の在り方・関係が徐々に変容を遂げていくプロセスだと私は思う。著者はその経緯を詩情をこめて描いている。和歌や箏曲などが共鳴していく。
勘解由を幽閉する屋敷内での距離を置いた関係から、互いの人間性が伝わり始め、心に意識的に覆い被せていた氷層が徐々に溶けていく。互いの心情の通じ合いが深まっていく。互いの障壁となる浅野家の問題への対処の姿勢が、互いの関わりを深めて行く媒介に転換して行くのである。読者は次第に葉室ワールドに引き込まれて行くことだろう。
勘解由の護送役となった佐治弥九郎が、勘解由幽閉後は、藩家老と勘解由の間の窓口となる。江戸表に大石内蔵助が入ったという報せが届くと、弥九郎は勘解由に心当たりがないか問いかけにくる。その翌日、手紙の交信を藩に認められている勘解由は、江戸で旗本の家士を勤める内藤万右衞門宛てに手紙を出す。勘解由が浅野旧臣の動きに関心を持ち、情報を得ようと考えているのではと紗英は気づくが、気づかぬふりをして、飛脚便での手紙の送達を引き受ける。ここから、結果的に勘解由と赤穂浪士の秘やかなつながりが展開していく。勘解由が投げた一石が様々な波紋を広げ、忠臣蔵異聞が紡がれていくことになる。
密かに大石内蔵助自身が荻野藩内の幽閉屋敷を訪れてくる。さらに、大石の指示を受け吉田忠左衛門が訪ねてくる。そして、堀部安兵衛もまた・・・・。そして、再び大石が密かに再訪することとなる。
それは、勘解由を監視する藩側に大きな波紋を引き起こしていく。その展開がひとつの読ませどころとなっていく。
大石内蔵助自身も、この小説では准主人公である。大石内蔵助とともに、忠臣蔵の骨子となるストーリーが挿話的に織り交ぜられていく。忠臣蔵の粗筋を知っていても、違った視点からの語り口は新鮮である。
さらに言えば、佐治弥九郎と堀部安兵衛の人物描写が一つの楽しみ所にもなっていく。副次的にこの二人の生き様にも光が当てられているように思える。
この小説では、吉良邸討ち入りへのビフォーだけでなく、討ち入り後のアフターが異聞として重要なのだ。勘解由と紗英がどうなったかということである。
読者には、心温まるエンディングとなるということだけ述べておこう。葉室ワールドに浸る楽しみを奪わないために。
最後に、勘解由が語る言葉をご紹介しておこう。勘解由の人生と生き様に関わる発言である。
*大なるものには、大なるがゆえの都合があり、小なるものには小なるがゆえの意地があるということです。 p25
*武士たるものが口にすべきことではないが、ひとの死はまことに悲しきこと。徒やおろそかにひとを死なせてはならぬ。 p39
*わたしは流人の身とはいえ、幕臣だ。江戸で騒ぎが起きることは望まない。ただ、ひとの誠が尽くされるならば、それは見たいと思うが。 p45
*武士は戦で殺生をいたすのが、本道だ。それゆえ、地獄は必定を思い定めねばならぬ。しかし、同じ地獄へ参るにしても、武士の誇りはうしないたくないと私は思っている。 p151
*日々、どのように生きるかが士道であると私は思っている。 p209
*花は咲くべき時をおのずから知って、何の迷いもなく咲く。それゆえ、あのように清々しいのかもしれぬ。 p214
*さて、いかなるときも、武士は常在戦場でござる。危難について深く考えを及ぼしてもせんないことでござろう。 p285
*ひとは皆、さしたることでもなく、思わぬところで悲運に出会ったりいたします。嘆き沈むのはやむを得ないと存じますが、何より大事なのは悲運に負けて立ち止まらぬこと、歩き続けることではないかとそれがしは思っております。 p378
*ひとは自らの心願だけで生きられるものではない。生きていることを願ってくれるひとの想いに支えられて生かされているのだ。 p422
ご一読ありがとうございます。
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この作品を読み、関心事項を少し調べて見た。一覧にしておきたい。
柳沢吉保公 :「財団法人 歴史博物館」
六義園 概要 :「庭園へ行こう」(東京都公園協会)
徳川綱吉 :ウィキペディア
小人症だった犬公方―徳川綱吉 日本史上の絵画 :「健康百科」
吉良義央 :ウィキペディア
吉良上野介義央と吉良左兵衛義周の生涯 :「赤穂においでよ!」
元禄赤穂事件の一部始終 :「赤穂においでよ!」
多門重共 :ウィキペディア ← 多門伝八郎
多門筆記偽書弁 田中光郎氏
田村建顕 :ウィキペディア ← 田村右京大夫
細井広沢 :ウィキペディア
細井広沢 :「コトバンク」
公弁法親王 :ウィキペディア
公弁法親王 :「コトバンク」
夫木和歌抄 :「コトバンク」
夫木抄(夫木和歌抄) 日文研データベース
いわれ 「笹之雪」の名の起り :「根ぎし 笹之雪」
輪王寺宮 :「コトバンク」
東叡山寛永寺の歴史 :「東叡山寛永寺」
日光山 輪王寺とは :「日光山輪王寺」
吉良上野介を巡る旅 :「西尾市観光協会」
江戸の元禄忠臣蔵史跡の散歩 :「東京散歩『江戸史跡散歩』」
現代人の心に響く時代小説編 :「日刊ゲンダイDIGITAL」
連載小説 はだれ雪 を終えて 葉室麟 :「『聖教新聞』宝さがし」
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
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(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『鬼神の如く 黒田叛臣伝』 新潮社
『決戦! 大坂城』 葉室・木下・富樫・乾・天野・冲方・伊東 講談社
===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新4版(37+1冊)2016.1.27
著者は忠臣蔵という史実の間隙に、その周辺部に様々な人物を創作し、鮮やかに織り込んで行くことで、忠臣蔵のストーリーに光を当てていく。周辺部の人物を介して、その人物の生き様を主軸にしながら忠臣蔵の真実に迫るというテーマがここに結実している。
この作品でも、忠臣蔵の史実に対して、著者が次の和歌などに惹かれたことが創作欲を膨らませているのではないだろうか。
はだれ雪あだにもあらで消えぬめり世にふるごとやもの憂かるらん
と言う和歌の心が底流になる。この小説の主人公の一人、永井勘解由(ながいかげゆ)がふとつぶやいた歌として登場する。小説の中に『夫木和歌抄』に載る和歌と記されている。調べて見ると、『夫木和歌抄』巻十八・冬三に第7195番目の歌として収録されている。(国際日本文化研究センターの和歌デーダベース)
そして、戦国時代を生き抜いた蒲生氏郷の辞世の歌といわれる
限りあれば吹かねど花は散るものを心短き春の山風
万葉集に載る大伴家持の歌
わが薗の李(すもも)の花か庭に降るはだれのいまだ残りたるかも
この三首の歌に、箏曲「六段の調(しらべ)」(八橋検校作曲)、「梅枝(うめがえ)」(同作曲・別名<千鳥の曲>、源氏物語の『梅枝』に出てくる「梅が枝に 来いる鶯や ・・・・・」で始まる催馬楽と、琴、横笛、笙で奏される曲「想夫恋(そうふれん)」が配される。
さらに、史料が残っているのだろう。この小説のストーリー展開に以下がぴたりと織り込まれていく。
浅野内匠頭の口述による遺言
この段かねて知らせ申すべく候へども、今日やむを得ざる事に候ゆえ、
知らせ申さず候、不審に存ずべく候
浅野内匠頭の辞世歌
風さそう花よりもなお我はまた春の名残をいかにとかせん
萱野三平の俳句
晴れゆくや日ころこころの花くもり
大石内蔵助が作詞したという地歌の<狐火>と<里景色>
大石内蔵助の詠じた歌
とふ人とかたること葉のなかりせば身は武蔵野の露と答へん
あら楽し思ひはあるる身はすつる憂世の月にかかる雲なし
神埼与五郎の詠じた歌
照る月のまどかなるままにまどいする人の心の奧もくもらじ
吉良佐兵衛義周(さひょうえよしちか)が詠じた歌
雨雲は今夜の空にかかれども晴行くままに出る月かけ
この小説を読み、抜き出してみた。これらがストーリー展開のなかでどのように巧みに組みこまれ、織りなされているかも着目できるところだ。
小説のタイトル「はだれ雪」は、主人公・永井勘解由がつぶやいた和歌の冒頭の句に由来する。著者は「<はだれ雪>は、はらはらと降る雪だとも、とけ残り、まだらになった雪だともいう」(p20)と付記している。勿論、勘解由のつぶやきは「世にふるごとやもの憂かるらん」という下の句に心境が表出されているのである。
タイトルと照応するように、単行本の表紙に酒井抱一の「四季花鳥図屏風」の冬の場面が装画として使われているのも良い趣向と感じる。
「はだれ雪」自体は一方で、赤穂浪士の討ち入りの日を象徴しているとも考えられる。
この小説の時の流れは、元禄14年(1701)11月から16年の春にかけてである。
主人公となる永井勘解由は、赤穂浪士の討ち入り、忠臣蔵に関わる史実の間隙にフィクションとして創造した人物だろう。手許にある数冊の忠臣蔵に関する事実を分析する書を通覧した限りでは該当の人物は存在しない。逆にいえば、異聞として周辺部から忠臣蔵を副次的ストーリーの軸として語る上で、実に興味深い設定となっている。
勘解由は、二千五百石取りの旗本で、目付役だった。浅野内匠頭が切腹した日、切腹場所である田村右京大夫の屋敷に内匠頭の切腹する直前に、閉じ込められていた襖越しにわずかに言葉を交したという。勘解由は、稲葉正通の名を使い、目付として派遣されていた多門(たかど)伝八郎に問い合わせがあるとして田村屋敷に入った。しかし、勘解由も目付役ではあるが、浅野内匠頭の刃傷沙汰とは、役目上では無関係だったのである。なぜ勘解由が出向いたのか? そこには勘解由の内心に秘めた解けない思いが行動をとらせえた動機にある。著者も小説に明記しているが、検使としての目付・多門伝八郎は浅野内匠頭の切腹の前に様々な異を唱えた人物で実在した人で、自署を残している。
勘解由は浅野内匠頭の最後の言葉として何を聞いたのか? それについて様々な立場の人々により様々に憶測され、それが行動にも反映していくところに、このストーリー展開の面白さの一端がある。勘解由は黙して語らずの立場を当初は貫く。
殿中での刃傷事件の後、老中稲葉丹後守正通(まざみち)は刃傷沙汰発生の経緯が明らかになるまで、切腹の見合わせを主張したが、側用人柳沢美濃守吉保(よしやす)が切腹の断を下し、幕閣が押し切られたのである。浅野内匠頭の切腹見合せを稲葉正通に進言したのが勘解由だったという。また余談だが、上記『花や散るらん』では、柳沢保明という名前で柳沢吉保が登場している。保明から吉保に改名しているだけで、実在した同一人物である。元禄14年3月時点では、既に吉保と改名していたということか。ならば、前作は以前の名前で書かれていたことになる。勿論、小説なので厳密性は問わなくても作品を楽しむ分には何ら支障はない。少し調べた範囲では、不詳。なお、綱吉の諱の一字「吉」を与えられて「吉保」と改名したそうである。保明と吉保を一時期併用していた可能性もある。
この勘解由の行動が将軍綱吉の怒りにふれて扇野藩にお預けの身となる。実質上は流罪である。
この小説は、勘解由が扇野藩内の預け置かれる屋敷に到着するところから始まる。
扇野藩といえば、これも余談だが、葉室ワールドでは、『さわらびの譜』の舞台となった六万三千石の小藩である。
小藩にも内部に確執がある。家老馬場民部と次席の才津作左衞門は派閥争いを続けている。勘解由を流罪人として預かるにしろ、相手は旗本である。両者にとり、勘解由の扱い方について考え方が異なる。この事態をも政争相手を引きずりおろす材料と考えている。
流罪は一時的なもので綱吉の勘気が解けて江戸に呼び戻され、勘解由が幕閣に登用されるかもしれない。そうなら預かり中、粗略に扱うと将来に小藩の立場が悪くなるかもしれない。綱吉が気ままであるという噂もあり、綱吉の勘気が解けないと、厚遇しても無駄となる。流罪人を厚遇すれば世間のもの笑いになる可能性もある。勘解由が浅野内匠頭から何かを聞いているなら、浅野の旧家臣が近づくことも考えられる。それを防げなければ、扇野藩のは幕府の責めを受ける立場に陥る。吉良殿が浅野の旧臣に殺されるような事が起これば、その影響が扇野藩にどう及ぶか計りしれない。藩主信家は家老達の考えのいずれかを取るということはできない。ただ見守るだけである。
馬場民部が「ほどよきとことの対応が大事だ」という考えから始まる。そして、勘解由に関わり派閥抗争の策謀が繰り広げられていく。それぞれが藩のためと称して・・・・。
勘解由を扇野藩がどのように扱うかというやり方がストーリーの展開を色づけて行く。
扇野藩は勘解由を幽閉する屋敷に接待役として、嫁して3年だが後家となり子も生さずだったため実家の勘定方桑田家に戻っていた24歳の紗英(さえ)に接待役を命じる。家中でも琴の名手として知られ、控え目に世過ぎをしていたので、藩は適任と判断したのだ。接待役という名目だが、勘解由の監視役を兼ね、身の回りの世話をするというもの。勘解由に求められれば、流罪先での現地妻に等しい役割を果たせという訳である。
藩の為政層の様々な思惑が絡んでいるため、紗英に選択の余地はない。そこで、紗英は「自ら望んだように振舞う矜持を保とうと心に決め」(p14)、「わたしと永井様は結ばれてはならない」(p84)と自分に言い聞かせる。この紗英がもう一人の主人公である。ストーリーは、紗英の想いを主流にして語られていき、勘解由の想いが重奏していく。
紗綾と勘解由のそれぞれの過去が、二人の関わり方を大きく色づけていく。
紗綾は中川三郎兵衛の妻だったが、藩主が参勤交代で帰国の途次、間もなく国境というところで不慮の死を遂げる。行列の通過のために、古びた小橋を先行し確認に行くが、野犬が群がり寄ってきた。それを避けようとして足を踏み外し橋から落ち、露出の石に頭を打って死亡する。武士としてその死を取り沙汰されることになる。後家となった紗英は実家に戻る。夫の死に様が障害となり、世間に遠慮して生きる境遇に置かれていた。つまり、扇野藩の為政層にとり、紗綾は体の良い道具とみなされたのである。
勘解由は、父・松平隼人正と母・よしの息子だったが、勘解由が元服する前のある日、母が屋敷にて自害し、その後を追うようにして割腹死した。側用人の柳沢吉保が父の割腹を乱心しての自害と決めつけたという。松平家は改易となり、勘解由は親類預けの上、永井家の養子となった。親戚の者から母が自害する前に縁戚であるさる大名家に将軍の<お成り>があった際、手伝いのため出向いていたということだけそっと教えられた。また勘解由は「黒田殿に倣われたか」と親戚の者が漏らすのも聞いていた。勘解由の妻は嫁いできた後二年余りで病死したという。子供もいないので、勘解由は天涯孤独の身だった。勘解由は、柳沢吉保に取り立てられてきた反面、両親の死について確かめたい想いを心の内奥に秘めているのである。
流罪人勘解由、藩から接待役を命じられた紗英、召し使いとして松蔵と百姓娘のなかという4人の生活が始められていく。
この小説は、忠臣蔵異聞語りが重要な筋ではあるが、メインとなるストーリーは、勘解由と紗英という二人の在り方・関係が徐々に変容を遂げていくプロセスだと私は思う。著者はその経緯を詩情をこめて描いている。和歌や箏曲などが共鳴していく。
勘解由を幽閉する屋敷内での距離を置いた関係から、互いの人間性が伝わり始め、心に意識的に覆い被せていた氷層が徐々に溶けていく。互いの心情の通じ合いが深まっていく。互いの障壁となる浅野家の問題への対処の姿勢が、互いの関わりを深めて行く媒介に転換して行くのである。読者は次第に葉室ワールドに引き込まれて行くことだろう。
勘解由の護送役となった佐治弥九郎が、勘解由幽閉後は、藩家老と勘解由の間の窓口となる。江戸表に大石内蔵助が入ったという報せが届くと、弥九郎は勘解由に心当たりがないか問いかけにくる。その翌日、手紙の交信を藩に認められている勘解由は、江戸で旗本の家士を勤める内藤万右衞門宛てに手紙を出す。勘解由が浅野旧臣の動きに関心を持ち、情報を得ようと考えているのではと紗英は気づくが、気づかぬふりをして、飛脚便での手紙の送達を引き受ける。ここから、結果的に勘解由と赤穂浪士の秘やかなつながりが展開していく。勘解由が投げた一石が様々な波紋を広げ、忠臣蔵異聞が紡がれていくことになる。
密かに大石内蔵助自身が荻野藩内の幽閉屋敷を訪れてくる。さらに、大石の指示を受け吉田忠左衛門が訪ねてくる。そして、堀部安兵衛もまた・・・・。そして、再び大石が密かに再訪することとなる。
それは、勘解由を監視する藩側に大きな波紋を引き起こしていく。その展開がひとつの読ませどころとなっていく。
大石内蔵助自身も、この小説では准主人公である。大石内蔵助とともに、忠臣蔵の骨子となるストーリーが挿話的に織り交ぜられていく。忠臣蔵の粗筋を知っていても、違った視点からの語り口は新鮮である。
さらに言えば、佐治弥九郎と堀部安兵衛の人物描写が一つの楽しみ所にもなっていく。副次的にこの二人の生き様にも光が当てられているように思える。
この小説では、吉良邸討ち入りへのビフォーだけでなく、討ち入り後のアフターが異聞として重要なのだ。勘解由と紗英がどうなったかということである。
読者には、心温まるエンディングとなるということだけ述べておこう。葉室ワールドに浸る楽しみを奪わないために。
最後に、勘解由が語る言葉をご紹介しておこう。勘解由の人生と生き様に関わる発言である。
*大なるものには、大なるがゆえの都合があり、小なるものには小なるがゆえの意地があるということです。 p25
*武士たるものが口にすべきことではないが、ひとの死はまことに悲しきこと。徒やおろそかにひとを死なせてはならぬ。 p39
*わたしは流人の身とはいえ、幕臣だ。江戸で騒ぎが起きることは望まない。ただ、ひとの誠が尽くされるならば、それは見たいと思うが。 p45
*武士は戦で殺生をいたすのが、本道だ。それゆえ、地獄は必定を思い定めねばならぬ。しかし、同じ地獄へ参るにしても、武士の誇りはうしないたくないと私は思っている。 p151
*日々、どのように生きるかが士道であると私は思っている。 p209
*花は咲くべき時をおのずから知って、何の迷いもなく咲く。それゆえ、あのように清々しいのかもしれぬ。 p214
*さて、いかなるときも、武士は常在戦場でござる。危難について深く考えを及ぼしてもせんないことでござろう。 p285
*ひとは皆、さしたることでもなく、思わぬところで悲運に出会ったりいたします。嘆き沈むのはやむを得ないと存じますが、何より大事なのは悲運に負けて立ち止まらぬこと、歩き続けることではないかとそれがしは思っております。 p378
*ひとは自らの心願だけで生きられるものではない。生きていることを願ってくれるひとの想いに支えられて生かされているのだ。 p422
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この作品を読み、関心事項を少し調べて見た。一覧にしておきたい。
柳沢吉保公 :「財団法人 歴史博物館」
六義園 概要 :「庭園へ行こう」(東京都公園協会)
徳川綱吉 :ウィキペディア
小人症だった犬公方―徳川綱吉 日本史上の絵画 :「健康百科」
吉良義央 :ウィキペディア
吉良上野介義央と吉良左兵衛義周の生涯 :「赤穂においでよ!」
元禄赤穂事件の一部始終 :「赤穂においでよ!」
多門重共 :ウィキペディア ← 多門伝八郎
多門筆記偽書弁 田中光郎氏
田村建顕 :ウィキペディア ← 田村右京大夫
細井広沢 :ウィキペディア
細井広沢 :「コトバンク」
公弁法親王 :ウィキペディア
公弁法親王 :「コトバンク」
夫木和歌抄 :「コトバンク」
夫木抄(夫木和歌抄) 日文研データベース
いわれ 「笹之雪」の名の起り :「根ぎし 笹之雪」
輪王寺宮 :「コトバンク」
東叡山寛永寺の歴史 :「東叡山寛永寺」
日光山 輪王寺とは :「日光山輪王寺」
吉良上野介を巡る旅 :「西尾市観光協会」
江戸の元禄忠臣蔵史跡の散歩 :「東京散歩『江戸史跡散歩』」
現代人の心に響く時代小説編 :「日刊ゲンダイDIGITAL」
連載小説 はだれ雪 を終えて 葉室麟 :「『聖教新聞』宝さがし」
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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『鬼神の如く 黒田叛臣伝』 新潮社
『決戦! 大坂城』 葉室・木下・富樫・乾・天野・冲方・伊東 講談社
===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新4版(37+1冊)2016.1.27