戦国時代を舞台にした「決戦!」シリーズを読み継いできたが、それとは別に、「決戦!」の新展開が行われていることを最近知った。それは、2017年3月出版の『決戦!忠臣蔵』が目に止まったことによる。これを手にとって、それより早く2015年12月に、本書が出版されていることを遅まきながら知った。
「三國志」と言えば、勿論中国大陸の魏・呉・蜀が分立し覇権を争った時代、大陸の英雄達が活躍した時代である。明時代に羅貫中が著した『三国志演義』を筆頭にして、日本の著名な作家達も三国志の作品化にチャレンジしている。吉川英治、柴田錬三郎、陳舜臣、北方謙三、宮城谷昌光などの名が思い浮かぶ。横山光輝が大河漫画としての作品化にチャレンジしている。それくらい魅了してやまない激変の時代であり、群雄割拠する人物群像が作家たちを惹きつけるのだろう。『源氏物語』に挑む作家群が居るのと同じなのかもしれない。
「決戦!」シリーズを新展開するのなら、三国志の世界が出て来てまさに当然ともいえよう。それも競作集という形で、「三国志」の様々な局面が切り出されて、短編小説に凝縮されている。5つの短編小説は、それぞれが長大な三国志時代の特定のあるフェーズに切り込んでいて、三国志の読み方に新たな光を投げかけていておもしろい。
< 姦雄遊戯 > 木下昌輝
許家の麗姫の婚礼の夜に、麗姫の弟・阿戯が袁紹本初と曹操孟徳の二人に花嫁泥棒を仕向ける。阿戯の誘いに乗って、二人が許家に忍び込み、まんまと阿戯の悪戯に引っかかるエピソードから話が始まる。これは、阿戯と袁紹本初、曹操孟徳の二人との関係を切り出すためであろう。そしてストーリーは黄巾の乱の三年後の現在にシフトする。
幼名・阿戯は許攸(字は子遠)と称するようになり、黄巾の乱を計略で破った策士に成長していた。このストーリーは己の策士としての能力を発揮することにその欲望をたぎらす許子遠の生き様を切り取っている。
袁本初は子遠に問う「子袁よ、そんなに急いでどこへ行く」と。子袁は悪だくみをしに出かけるという。皇帝陛下の位を盗むのだと。袁本初では皆が納得し、当たり前すぎて退屈なだけと相手にしない。本初は子遠の言を冗談としか受け止めない。許攸は冀州刺史・王芬を皮切りに、己の策謀を発揮できる舞台を、袁紹に求め、さらに曹操に鞍替えしていくという経緯が描かれる。許攸の価値基準は己の才を発揮できる機会を作り出し、策謀の達成プロセスに血をたぎらせることにある。だが、その策士が策に敗れる結果となる。許攸を通して、曹操を描いていることにもなっていて、おもしろい。
<天を分かつ川> 天野純希
曹操率いる二十数万の大軍を、孫策が暗殺された後、揚州水軍三万を率いる周瑜が赤壁において破る。すべてを一日か二日だけ吹くという東南の風のタイミングを逃さず火攻めで雌雄を決するという練り上げた策で周瑜は勝利へと導く。この周瑜は己で天下を取れる力量がある。孫策からは、孫策が父に続き志半ばで斃れた時は孫家の軍を引き継いで天下を取れと約束させられていた。だが、周瑜は孫家が天下を取るという方針に徹する生き様を選択する。周瑜は己の戦略を推し進め、益州を獲れば、天下二分の計が可能だと孫権に上奏し、許可を求め、進軍する段階までに至る。その策の実行を始めようとしたが・・・・その矢先に命を果てる。益州侵攻を中止させ、天下三分の計を進めるにとどめよと託して。なぜ、そうなったのか。その局面をこの短編はクローズアップしている。
周瑜の生き様が鮮やかに切り取られている。周瑜に一層興味を抱くことになった。
<応報の士> 吉川永青
江水の赤壁で孫権・劉備の連合軍に大敗をを喫した曹操は、その後陣容を建て直し、建安16年(西暦211)に漢中に侵攻し始める。当時、漢中は五斗米道の教主・張魯が牛耳っていた。益州牧・劉璋にとって張魯は仇敵である。だが、漢中を曹操に獲られては、益州が曹操と直接接するという不都合が生ずる。益州別駕・張松は劉璋に同族の劉備を頼れと進言する。曹操に先んじて漢中を制するために劉備の援軍を請う。張松の推挙を受けて法正が援軍を迎える使者として劉備の許に来る。
この法正は、劉璋の下では軽んじられ飼い殺しにされてきていた。他の人の愚劣な進言が取り立てられても、法正の献言には耳を貸す事が無かったのである。その扱いに法正は怨を感じ,恨みを抱いていた。そして、法正は劉備にこの際、蜀を取れと献言する。タイトルは、怨には怨で報いて何も悪いことはないと断言する法正自身をさしている。諸葛亮はこの法正の人物を見抜き、劉備にその献言を採れと進める。諸葛亮を黒子としながら、法正の働きをクローズアップして描いて行く。怨には怨で報いた士だが、劉備の恩には恩で報いた人物像だったという。「応報の士」を如何に遇するか。人物を見抜く重要性がテーマとなっている。人は使いようという典型事例かもしれない。
<倭人操倶木> 東郷隆
古く日本列島とその周辺に土着する人々は、中国大陸の民から「倭人」と呼ばれた。稲作の普及、富の蓄積に伴い、戦乱が発生する。その戦乱は難民を生む。日本列島から海を越え揚子江の河口に流入する人々が増大する。生活の糧を求め勝手に田畑を作る。窮すると略奪に手を染める。家郷の沛国譙城に巨大な荘園を有する曹氏は、倭人が不法占拠する土地を襲い、労働力の確保として倭人を己の土地に移した。
黄巾の乱がある程度収まり、霊帝が189年に死去した頃、菫卓が軍権を掌握する。この頃、曹操は典軍校尉という地位に居た。曹操の乗馬の轡をとる者が倭人操倶木だったとする。この短編では、菫卓に危険を感じた若き曹操が逃避行をする道中で操倶木は鬼道を使い、曹操を助けるために活躍する。だが、操倶木はあることから曹操の許を離れるという選択をする。そして、その後、孫策のところにも現れ、陰で助言するという行動をとる。操倶木という倭人の視点と行動から、曹操、孫策という二人の巨魁との接点を描いていることに興味を惹かれる。
なんと、唐代に出た白行簡の『三夢記・外伝』に操倶木という男のことが記載されているという。驚きである。また、1977年、調査団が曹氏墳墓の発掘調査をしたという。その結果、曹氏が多数の倭人を使役していた実態が明らかになったという。興味深い事実を著者は付記している。この事実情報が、この短編の創作へと結実したということなのだろう。
<亡国の後> 田中芳樹
「三国志」においては、蜀の地に自らの国土を築いた劉備の生き様がその読ませどころである。だが、蜀という国は劉備の死後、嫡子の劉禅が国を継承し、諸葛亮ら重臣が変わることなく蜀主・劉禅をよく補弼した。しかし、蜀は二代で滅び去る。『三国志演義』には、亡国の君として4人の人物が登場する。その一人が蜀の後主となった劉禅である。
この短編は、劉禅という国主でありながら国政に一切口出ししなかった人物の有り様を描いている。父劉備以来の重臣たちに軍国の大権を委ねて、享楽の人生を送りつづけたという。
三国を統一して最終的な勝者となる司馬一族。ここでは、そのプロセスを歩む野望の人・司馬昭と司馬炎が劉禅と対比されていておもしろい。
人間の一生とは何か? 人生の価値の置き所という点に思いを馳せさせる視点から、描き出されていく短編である。
『三国志演義』に描き出された世界は、怪力乱神を嫌う陳寿が著した『三国志』とはテーマが大きく切り変えられたという。だが、『三国志演義』の出現で一般の人々には三国志の時代が親しまれるようになり、群雄割拠した英傑やその周辺のすぐれた武人たちの行動と名が世に親炙した。そこに描き出された様々な人物の人間関係及び戦略・武略・計略・謀略の展開の有り様の中に、人々は生き様を考える素材、様々なテーマを発見し続けたのだろう。それ故に、この三国志の時代が未だに魅力的なのだと思う。
この競作集の作家たちが切り出した局面の多様性に、この三国志の魅力が潜んでいる。
三国志の世界に深入りするゲートとして、おもしろい短編作品集になっている。
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関連事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
三国志 :ウィキペディア
三国志(歴史書) :ウィキペディア
陳寿 :ウィキペディア
三国志演義の成立史 :ウィキペディア
三国志演義 :ウィキペディア
三国時代(中国) :ウィキペディア
周瑜 :「アラチャイナ」
三国志遺跡 赤壁 :「アラチャイナ」
赤壁の戦い :「コトバンク」
孫権 :ウィキペディア
曹操 :「アラチャイナ」
三国時代の立役者 戦に生きた「曹操」の生涯 :「鳥影社」
許攸 :「3Pedia」
黄巾の乱 :ウィキペディア
黄巾の乱 :「コトバンク」
黄巾の乱 :「世界史の窓」
法正 :ウィキペディア
劉備 :ウィキペディア
劉禅 :ウィキペディア
劉禅は本当に暗愚だったのか :「総力戦研究所」
諸葛亮 :ウィキペディア
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決戦シリーズを読み継いできました。以下もご一読いただけるとうれしいです。
『決戦! 忠臣蔵』 葉室・朝井・夢枕・長浦・梶・諸田・山本 講談社
『決戦! 桶狭間』 冲方・砂原・矢野・富樫・宮本・木下・花村 講談社
『決戦! 川中島』 冲方・佐藤・吉川・矢野・乾・木下・宮本 講談社
『決戦! 本能寺』 伊東・矢野・天野・宮本・木下・葉室・冲方 講談社
『決戦! 大坂城』 葉室・木下・富樫・乾・天野・冲方・伊東 講談社
『決戦! 関ヶ原』 伊東・吉川・天野・上田・矢野・冲方・葉室 講談社
「三國志」と言えば、勿論中国大陸の魏・呉・蜀が分立し覇権を争った時代、大陸の英雄達が活躍した時代である。明時代に羅貫中が著した『三国志演義』を筆頭にして、日本の著名な作家達も三国志の作品化にチャレンジしている。吉川英治、柴田錬三郎、陳舜臣、北方謙三、宮城谷昌光などの名が思い浮かぶ。横山光輝が大河漫画としての作品化にチャレンジしている。それくらい魅了してやまない激変の時代であり、群雄割拠する人物群像が作家たちを惹きつけるのだろう。『源氏物語』に挑む作家群が居るのと同じなのかもしれない。
「決戦!」シリーズを新展開するのなら、三国志の世界が出て来てまさに当然ともいえよう。それも競作集という形で、「三国志」の様々な局面が切り出されて、短編小説に凝縮されている。5つの短編小説は、それぞれが長大な三国志時代の特定のあるフェーズに切り込んでいて、三国志の読み方に新たな光を投げかけていておもしろい。
< 姦雄遊戯 > 木下昌輝
許家の麗姫の婚礼の夜に、麗姫の弟・阿戯が袁紹本初と曹操孟徳の二人に花嫁泥棒を仕向ける。阿戯の誘いに乗って、二人が許家に忍び込み、まんまと阿戯の悪戯に引っかかるエピソードから話が始まる。これは、阿戯と袁紹本初、曹操孟徳の二人との関係を切り出すためであろう。そしてストーリーは黄巾の乱の三年後の現在にシフトする。
幼名・阿戯は許攸(字は子遠)と称するようになり、黄巾の乱を計略で破った策士に成長していた。このストーリーは己の策士としての能力を発揮することにその欲望をたぎらす許子遠の生き様を切り取っている。
袁本初は子遠に問う「子袁よ、そんなに急いでどこへ行く」と。子袁は悪だくみをしに出かけるという。皇帝陛下の位を盗むのだと。袁本初では皆が納得し、当たり前すぎて退屈なだけと相手にしない。本初は子遠の言を冗談としか受け止めない。許攸は冀州刺史・王芬を皮切りに、己の策謀を発揮できる舞台を、袁紹に求め、さらに曹操に鞍替えしていくという経緯が描かれる。許攸の価値基準は己の才を発揮できる機会を作り出し、策謀の達成プロセスに血をたぎらせることにある。だが、その策士が策に敗れる結果となる。許攸を通して、曹操を描いていることにもなっていて、おもしろい。
<天を分かつ川> 天野純希
曹操率いる二十数万の大軍を、孫策が暗殺された後、揚州水軍三万を率いる周瑜が赤壁において破る。すべてを一日か二日だけ吹くという東南の風のタイミングを逃さず火攻めで雌雄を決するという練り上げた策で周瑜は勝利へと導く。この周瑜は己で天下を取れる力量がある。孫策からは、孫策が父に続き志半ばで斃れた時は孫家の軍を引き継いで天下を取れと約束させられていた。だが、周瑜は孫家が天下を取るという方針に徹する生き様を選択する。周瑜は己の戦略を推し進め、益州を獲れば、天下二分の計が可能だと孫権に上奏し、許可を求め、進軍する段階までに至る。その策の実行を始めようとしたが・・・・その矢先に命を果てる。益州侵攻を中止させ、天下三分の計を進めるにとどめよと託して。なぜ、そうなったのか。その局面をこの短編はクローズアップしている。
周瑜の生き様が鮮やかに切り取られている。周瑜に一層興味を抱くことになった。
<応報の士> 吉川永青
江水の赤壁で孫権・劉備の連合軍に大敗をを喫した曹操は、その後陣容を建て直し、建安16年(西暦211)に漢中に侵攻し始める。当時、漢中は五斗米道の教主・張魯が牛耳っていた。益州牧・劉璋にとって張魯は仇敵である。だが、漢中を曹操に獲られては、益州が曹操と直接接するという不都合が生ずる。益州別駕・張松は劉璋に同族の劉備を頼れと進言する。曹操に先んじて漢中を制するために劉備の援軍を請う。張松の推挙を受けて法正が援軍を迎える使者として劉備の許に来る。
この法正は、劉璋の下では軽んじられ飼い殺しにされてきていた。他の人の愚劣な進言が取り立てられても、法正の献言には耳を貸す事が無かったのである。その扱いに法正は怨を感じ,恨みを抱いていた。そして、法正は劉備にこの際、蜀を取れと献言する。タイトルは、怨には怨で報いて何も悪いことはないと断言する法正自身をさしている。諸葛亮はこの法正の人物を見抜き、劉備にその献言を採れと進める。諸葛亮を黒子としながら、法正の働きをクローズアップして描いて行く。怨には怨で報いた士だが、劉備の恩には恩で報いた人物像だったという。「応報の士」を如何に遇するか。人物を見抜く重要性がテーマとなっている。人は使いようという典型事例かもしれない。
<倭人操倶木> 東郷隆
古く日本列島とその周辺に土着する人々は、中国大陸の民から「倭人」と呼ばれた。稲作の普及、富の蓄積に伴い、戦乱が発生する。その戦乱は難民を生む。日本列島から海を越え揚子江の河口に流入する人々が増大する。生活の糧を求め勝手に田畑を作る。窮すると略奪に手を染める。家郷の沛国譙城に巨大な荘園を有する曹氏は、倭人が不法占拠する土地を襲い、労働力の確保として倭人を己の土地に移した。
黄巾の乱がある程度収まり、霊帝が189年に死去した頃、菫卓が軍権を掌握する。この頃、曹操は典軍校尉という地位に居た。曹操の乗馬の轡をとる者が倭人操倶木だったとする。この短編では、菫卓に危険を感じた若き曹操が逃避行をする道中で操倶木は鬼道を使い、曹操を助けるために活躍する。だが、操倶木はあることから曹操の許を離れるという選択をする。そして、その後、孫策のところにも現れ、陰で助言するという行動をとる。操倶木という倭人の視点と行動から、曹操、孫策という二人の巨魁との接点を描いていることに興味を惹かれる。
なんと、唐代に出た白行簡の『三夢記・外伝』に操倶木という男のことが記載されているという。驚きである。また、1977年、調査団が曹氏墳墓の発掘調査をしたという。その結果、曹氏が多数の倭人を使役していた実態が明らかになったという。興味深い事実を著者は付記している。この事実情報が、この短編の創作へと結実したということなのだろう。
<亡国の後> 田中芳樹
「三国志」においては、蜀の地に自らの国土を築いた劉備の生き様がその読ませどころである。だが、蜀という国は劉備の死後、嫡子の劉禅が国を継承し、諸葛亮ら重臣が変わることなく蜀主・劉禅をよく補弼した。しかし、蜀は二代で滅び去る。『三国志演義』には、亡国の君として4人の人物が登場する。その一人が蜀の後主となった劉禅である。
この短編は、劉禅という国主でありながら国政に一切口出ししなかった人物の有り様を描いている。父劉備以来の重臣たちに軍国の大権を委ねて、享楽の人生を送りつづけたという。
三国を統一して最終的な勝者となる司馬一族。ここでは、そのプロセスを歩む野望の人・司馬昭と司馬炎が劉禅と対比されていておもしろい。
人間の一生とは何か? 人生の価値の置き所という点に思いを馳せさせる視点から、描き出されていく短編である。
『三国志演義』に描き出された世界は、怪力乱神を嫌う陳寿が著した『三国志』とはテーマが大きく切り変えられたという。だが、『三国志演義』の出現で一般の人々には三国志の時代が親しまれるようになり、群雄割拠した英傑やその周辺のすぐれた武人たちの行動と名が世に親炙した。そこに描き出された様々な人物の人間関係及び戦略・武略・計略・謀略の展開の有り様の中に、人々は生き様を考える素材、様々なテーマを発見し続けたのだろう。それ故に、この三国志の時代が未だに魅力的なのだと思う。
この競作集の作家たちが切り出した局面の多様性に、この三国志の魅力が潜んでいる。
三国志の世界に深入りするゲートとして、おもしろい短編作品集になっている。
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三国志 :ウィキペディア
三国志(歴史書) :ウィキペディア
陳寿 :ウィキペディア
三国志演義の成立史 :ウィキペディア
三国志演義 :ウィキペディア
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周瑜 :「アラチャイナ」
三国志遺跡 赤壁 :「アラチャイナ」
赤壁の戦い :「コトバンク」
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許攸 :「3Pedia」
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黄巾の乱 :「世界史の窓」
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劉禅は本当に暗愚だったのか :「総力戦研究所」
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決戦シリーズを読み継いできました。以下もご一読いただけるとうれしいです。
『決戦! 忠臣蔵』 葉室・朝井・夢枕・長浦・梶・諸田・山本 講談社
『決戦! 桶狭間』 冲方・砂原・矢野・富樫・宮本・木下・花村 講談社
『決戦! 川中島』 冲方・佐藤・吉川・矢野・乾・木下・宮本 講談社
『決戦! 本能寺』 伊東・矢野・天野・宮本・木下・葉室・冲方 講談社
『決戦! 大坂城』 葉室・木下・富樫・乾・天野・冲方・伊東 講談社
『決戦! 関ヶ原』 伊東・吉川・天野・上田・矢野・冲方・葉室 講談社