サブタイトルは「名所と聖地に秘められた高低差の謎」である。写真が満載なのは第1作(パート1)と同じである。京都に生まれて、育ち、その周辺部に今も生活しているので、このパート2に登場する名所地域は訪れているし、親しみもある。しかし、本書の特徴である凸凹、高低差という視点で見ていなかったので、本書を読みやはり今回も新鮮な感覚で写真を見て、自分の探訪経験と対比させながら読み進めた。教えられた点が数多い。本書で取り上げられているのに、私はその場所すら知らなかった/行っていないというスポットを再訪の機会を作り眺めに行こうと動機づけられた次第である。
このパート2では、嵐山(前編・後編)、金閣寺、吉田山、御所東、源氏物語(前編・後篇)、伏見城(前編・後篇)が取り上げられている。著者は「はじめに」で、これらの場所を、「まるで京都凸凹オールスターのようなタイトル」のラインナップと言っている。たしかに、そんな地域だと思う。
このパート2でも、現地で現物を歩きながら様々な位置から眺めるというフィールドワーク感覚が大切にされている点が読ませどころとなっている。今回取り上げられた場所の順に、私が再訪のためのメモを残して置きたいポイントという形で、本書への誘いをまとめてご紹介しよう。本書では前編・後篇と2回に分けて解説している場所もあるが、その表記はしない。
嵐山
・現在の阪急嵐山駅前からの景色は、前身の鉄道開業の際に、愛宕山と嵐山がの2つのランドマークに視線誘導する形に景色を切り取るデザインがなされたという。私にはこの視点はなかった。
・樫原断層の存在。この断層の凸凹が、天龍寺の曹源池庭園では背景斜面として一役買っていること。滝組と背景斜面を「中景」とすると、嵐山が借景として「後景」を調和的に構成する。曹源池の「前景」と「中景」は、池傍の方丈の室中のどの位置から眺めるかで劇的に変化する。本書に写真は載るが、たしか室中からは見られなかったと思う。
・曹源池の西側の斜面部分に散策路があったが、これが樫原断層崖の地形を利用したデザインということを本書で知った。たしかに、断層崖の地形美をうまく利用していると納得した。
・京都盆地の西側は「丹波層群」と呼ばれる基盤岩地質で、「チャート」という固い堆積岩が庭石としても使われいる。この基盤岩地質が「嵐山の美」を生み出している。
・大堰川河原周辺の「周囲が急斜面で囲まれて、視界がパッケージとして完結するような感覚」(p34)の「行き止まり」感の景色美が愛されて、数多くの和歌が詠まれた。
著者は次の和歌を例示している。
葦鶴の立てる川辺を吹く風に寄せてかえらぬ浪かとぞ見る 紀 貫之
吹きはらうもみじの上の露晴れて峯たしかなる嵐山かな 藤原定家
・「京都西山断層帯」の運動の結果、標高300m以上の隆起が形成され、嵐山の景観美ができた。西には亀山断層、東側には樫原断層、樫原断層の北に越畑断層が連なる。その隆起の中を大堰川の上流が「穿入蛇行(せんにゅうだこう)」する。上流が見通せない蛇行の渓谷美と保津川下りが売りとなる。
金閣寺
・金閣寺境内一帯の平坦地は、鎌倉から室町時代に造成工事が行われた巨大な「人工地形」。ここはもとは鎌倉時代に西園寺公経(きんつね)が「北山第」を築造した場所。その地を継承し、室町時代に足利義満が「北山殿」造営の折に、第二段階の地形改変・改修を加えていたという。これは知らなかった。
・池の南側から金閣寺と鏡湖池を撮った超ポピュラーな景色が観光用に定着している。だが、「義満の視点」は「主に庭園東側から西方向に鏡湖池そして金閣を望むものだった」(p53)のではないかという指摘は、目から鱗でもある。所有者が日常庭を眺める視点という問題意識を再認識した。
・鏡湖池の南側に、「涸れ池」(南池)が存在するという。これはぜひ現地確認してみたい。現在の金閣寺庭園と全盛期の金閣寺の境内は大きく異なるかも・・・・とか。現地で想像するのも、おもしろいかも。
・金閣寺の北面を眺め、かつて北側背後に「天鏡閣」が建ち、両者が「複道」(二階建て廊下)でつながっていたという景色を想像しよう。僧侶の日記に記載があるそうだ。これも本書で初めて知った。
・金閣のさらに北側に高さ5mの崖の連なりがあるという。見ていなかったのだろう。記憶にない。室町時代の人工滝「龍門瀑」があり、流水の前面に「鯉魚石」が置かれ、背面に直線的構成の「滝石組」が見られるという。
・この龍門瀑と鏡湖池の現状との関係にアンバランス感があるという。そこに金閣寺庭園の謎が残るようである。後世の庭園改造が加えられた可能性ありという。現地見聞で体感してみたい一点である。
・龍門瀑のある崖を北に登った先に、「浄土式庭園」としての安民沢と平坦地、不動堂とその背後の「石室」、境内北東部に高さ10mの崖と四十五尺滝があるという。これも私には初めて知ることである。金閣寺境内の奥深さを知った次第。
著者は金閣寺境内をくまなく歩いて現地を写真記録で紹介しつつ、末尾に「まるでタイムカプセルのように、中世が生み出した風景・美・驚きが今も境内に奇跡的に温存されているのです」と記している。
金閣寺のイメージ、見方をビジュアルに変えてくれた本である。この予備知識を持って出かけてみよう。
吉田山
吉田山の所在地と吉田神社は知っていたが、吉田山全体の知識はなかった。吉田山全体としてとらえなおす面白さを本書で知った。
・吉田山の西には花折断層の南端部、東側には神楽岡断層が吉田山を挟み込むように走っている。東一条通の東端から吉田神社に登る現在の表参道石段は花折断層の断層崖斜面だったのだ。中世には松木が群生し、「春日之馬場」と呼ばれていたところという。
・東一条通の一筋南、現在は重森三玲庭園美術館前を通る道が、江戸時代までの吉田神社参道(旧参道)でこの道は中世防御集落「吉田構」の集落内を通過する道であり、中世には城門と城壁で武装していたそうである。
・吉田神社境内で、かつて「春日社」と呼ばれた社殿のところが、現在は「本宮」と呼ばれている。室町時代後期から戦国時代にかけて生きた吉田兼倶(かねとも)が「吉田神道」の理論を確立し、その中心地として「斎場所」という平面八角形の社殿を造営した。これが江戸時代には「本宮」だったが、現在は「大元宮」と呼ばれる社殿となっている。「本宮」が入れ替わっている。
・江戸時代までの吉田山全域は神社の境内地。江戸時代後期には、吉田山の西側斜面は吉田神社を中心にした聖地空間であり、山頂部は「遊び」の遊興空間となっていた。明治時代には境内地の大部分が明治政府に没収され、「遊び」と「住まい」の空間に変化していく。
・20世紀初頭に運輸業で財をなした谷川茂庵が吉田山東側斜面に山荘を造営する。そして東側斜面に新デザインの集合住宅「谷川住宅」が開発される。大学教官などの新階層が対象となったという。「谷川茂庵の山荘と同じく銅葺き屋根と全面板張りの統一構成となって」(p86)いる住居群が存在する。
・かつて山荘の食堂として利用された建物が現在はカフェ「茂庵」として営業されているという。
今までは短絡的に吉田神社しか意識していなかった。吉田山の全体の変遷という視点でその凸凹の地を探訪すると面白そうである。
御所東
京都御苑と京都御所探訪、御土居とその周辺探訪で、幾度も訪れている区域である。それでも本書を読み、見過ごしている箇所があった。御土居が南北に気づかれていた場所を間に挟む地域なので、かつての京都の端っこであり、近代のメーンストリートに河原町通がなったために京都の真ん中になった。京都の「真ん中であり、端っこ」というキャッチフレーズがまず使われているのを面白いと思う。著者はこの独特な二重性に着目している。そこにさらに、この御所東のエリアが「交通の便を確保しながらも、都会の喧噪を避けられる場所」(p94)に注目し、新陳代謝がとまらない独自の個性が生まれつつある場所として紹介している。
「御所東は、寬文新堤の築造をきっかけに江戸時代前期後半以降、新開発のメッカとなっていきます。寺町の寺院は次々と他地域へ移転、そこに町屋が進出しました」(p98)という。荒神橋西詰に「寬文新堤の石垣遺構」が現存するそうなので、一度現地確認してみたい。この「近世京都のウォーターフロント開発」(p98)により、御所東一帯にも「三本木」という遊興空間が生まれたという。このことで、本書にも掲載されているが、「私立京都法政学校」設置の古写真を以前に見たときの建物に対する違和感がピタリと結びつき、ナルホドと思った次第である。
源氏物語
平安時代に紫式部が書いた『源氏物語』というフィクションの中盤で、光源氏が広大な邸宅「六条院」を造営する。そこに四季の区画を設けて、光源氏ゆかりの女性たちを住まわせ、ストーリーがさらに進展していく。この六条院は、実在の人物・源融が造営した「六条河原院」がモデルになっていると言われている。
著者は、現実の地理的区域にかつての六条河原院が造営された広さ四町の規模の場所がどこかを諸資料から設定する。そして、現在の「籬の森」について考察して、その虚実の両面を解き明かす。この部分は探訪したときのまとめをしていた時に知っていたが、改めて本書でその再確認ができた。
今回のこのフィールドワーク記録で面白いのは、史実から推定される六条河原院の位置に、『源氏物語』の「六条院」の描写を重ねていき、この地域の歴史的変遷との対比をしているところにある。現実空間と史実、あるいは幻想空間がなぜか照応しあう部分もあり興味深い読み物になっている。六条河原院に存在した庭園のイメージと伝承が、相応する地区の町名や寺院の山号に残るとい説明がある。また、フィクションである『源氏物語』の六条院の「春の町」の位置が興味深い。「『源氏物語』の「春の町」は後世に文字通り『春』がやりとりをされる場所に変化していった」(p121)時期があるのだ。かつては「七条新地」、第二次世界大戦後「五条楽園」と呼ばれ、1958年の法施行で消滅した遊郭があった場所に相当する。著者は、かつての面影を残す建物や不思議で独特な建物の現存する景色を一部紹介している。興味深い建物群が見られる町並が現存するようだ。
この他に以下のスポットがあるという。
・源氏の六条院「夏の町」は、現在の五条通と河原町通の交差点辺りがその中心部と想定される。そこは花散里の暮らした場所という設定。「春の町」「秋の町」との対比では「夏の町」・「冬の町」はマイナーな位置づけ。今では、観光スポット的にも相対的にマイナー。五条通の南には、本覚寺前町・御影堂町という地名が残る。
・源氏の六条院は、六条御息所の旧宅地も使い、そこは「秋の町」として、御息所の娘・秋好中宮が暮らすという話になる。その想定地に、女人守護の女神「市比賣神社」(下京区本塩竈町)が鎮座する。
・「秋の町」の北は「冬の町」で明石の君が暮らしたところ。今の富小路から五条通の辺りに想定され、現在は富小路通を挟み市比賣神社と同じ本塩竈町である。「世継地蔵」で知られた子授け安産の寺「上徳寺」がある。明石の君は光源氏の唯一の娘「明石の姫君」を産む。明石の姫君は紫の上に育てられた後、天皇に嫁ぎ「匂宮」の生母となる。
余談だが、地図を見ると、上徳寺の南西方向で高倉通の西側には、現在「六条院公園」(下京区富屋町)と名づけられた公園が設けられている。
源融の六条河原院趾地と豊臣秀吉の京都改造による寺町の南部「下寺町」、御土居跡、かつての遊郭地などの史実に『源氏物語』の六条院のフィクションが重層的に重なり合って、不可思議な照応すら生み出されている面白さがある。
伏見城
私にとっては、子供時代から高校時代にかけて、身近に感じた場所である。京都の凸凹、それもかなり人工的に改造された場所を歩くという意味では、金閣寺の凸凹以上のスケールだろう。高低差を含めて一番おもしろい紹介スポットかもしれない。
本書の図を見て知ったのだが、現在の京阪本線と近鉄京都線の走る南北方向あたりが、桃山断層の位置になるという。両線を利用し線路脇の段差を見慣れてきていた。それが断層崖だったということを本書で認識した。p158にはその1箇所の写真も載っている。
伏見城について少しは知識を積み重ねてきたが、本書を読みやはり、初めて知る事項もいくつかあった。
「日本城郭史上、最大級の掘遺構。『豊臣建設』の圧倒的ダイナミズム!」という冒頭のキャッチコピーがおもしろい。
宇治川の流れを付け替えてまで築城された伏見城。それも、指月城とも呼ばれた第1期、第2期の城から慶長伏見大地震が城倒壊。当時木幡山と呼ばれた山上に築造された第3期伏見城。さらに関ヶ原合戦後、徳川家康が伏見城を再建する。第4期の伏見城である。家康はこの城で征夷大将軍の宣下を受ける。だが、1623年(元和9)に伏見城廃城。
そして近代、伏見城の天守台あたりの城跡一帯は、明治天皇の墓地として「桃山御陵」として、囲い込まれてしまった。天守台跡には立つこともできない。
伏見城の発掘調査は、時間を掛けて周辺から徐々に進んでいるが、徹底的解明ができないままに留まる。御陵を発掘できないかぎり、天守台跡の状況は想像を脱せられない。
伏見城解明へのロマンは長持ちすることだろう。
・伏見城跡で桃山御陵を除くかなりのエリアは伏見桃山城運動公園になっている。
・伏見桃山城運動公園の駐車場に向かう道路が城門(いわば西大手口)の地点となる。
その道路の両側の凹地は、北曲輪の西側水路と治部少丸北側水路の遺構だという。
・この城門地点の西側に「高さ約8mの見上げるような段差で囲まれて」(p145)住宅地となっている平坦地と道路がある。このあたり、伏見城の外郭設備の遺構の可能性があるという。こんな段差は凸凹歩きにはすごく魅力的で想像をかき立てられることだろう。
・「段差で囲まれた区画を境にして、道路の形状が全く変わる」(p146)
東側は道路が蛇行する形で形成され、西側は東西方向に直線化する。その道路は伏見城下に繋がって行く。そして南北方向の3本の直線道路と交差する。
・かつての北曲輪の一画に、1964年に模擬天守閣が建てられ、周辺は遊園地化していた。 子供時代にこの天守閣に入ったことがある。だが、ここも今は閉鎖されている。
・巨大な北堀遺構が残り、そこは伏見北堀公園になっている。掘の深さが実感できる。
・京阪・宇治線の桃山南口駅の東側、100m余先あたりから山側に向かって第3期・第4期の「舟入」があった。
・京都外環状線沿いに南面する「月橋禅院」の北側背後の丘陵上、観月橋団地の一帯に第2期伏見城(指月城)があった。
・伏見城の周辺には大名の名を冠した町名画の残る。大名屋敷町が存在した証である。
それは豊臣秀吉による「統一政権」が誕生した証でもある。
私の再訪のための覚書を兼ねて、未確認地点などを主体にチェックポイントを列挙してみた。これらを含めて、ビジュアルに沢山の写真を使い、フィールドワークの記録として読みやすく、わかりやすい解説となっている。古地図や絵図なども利用されていて、時代対比もうまく考慮されている。イラスト地図と本文との間のリンクもわかりやすく工夫されていると思う。「ビジュアルなバーチャル観光+学ぶ」という本である。
いずれパート3が発刊されるのだろうか? 期待したい。
ご一読ありがとうございます。
本書と関連する事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
金閣寺とは :「臨済宗相国寺派」
世界遺産 金閣寺 :「きぬかけの路」
吉田神社 ホームページ
吉田神社 :「京都府神社庁」
吉田山(京都市) :ウィキペディア
茂庵 ホームページ
京都最大の旧色街「五条楽園」の遊郭建築と下町レトロ散歩路 :「SMILE LOG」
一億日分の功徳を授かる! 上徳寺の「世継地蔵尊大祭」:「京都ツウ読本」
伏見城 :「京都市」
伏見城石垣 :「京都市」
伏見桃山城運動公園のお城について :「京都市体育協会」
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『京都の凸凹を歩く』 青幻舍
このパート2では、嵐山(前編・後編)、金閣寺、吉田山、御所東、源氏物語(前編・後篇)、伏見城(前編・後篇)が取り上げられている。著者は「はじめに」で、これらの場所を、「まるで京都凸凹オールスターのようなタイトル」のラインナップと言っている。たしかに、そんな地域だと思う。
このパート2でも、現地で現物を歩きながら様々な位置から眺めるというフィールドワーク感覚が大切にされている点が読ませどころとなっている。今回取り上げられた場所の順に、私が再訪のためのメモを残して置きたいポイントという形で、本書への誘いをまとめてご紹介しよう。本書では前編・後篇と2回に分けて解説している場所もあるが、その表記はしない。
嵐山
・現在の阪急嵐山駅前からの景色は、前身の鉄道開業の際に、愛宕山と嵐山がの2つのランドマークに視線誘導する形に景色を切り取るデザインがなされたという。私にはこの視点はなかった。
・樫原断層の存在。この断層の凸凹が、天龍寺の曹源池庭園では背景斜面として一役買っていること。滝組と背景斜面を「中景」とすると、嵐山が借景として「後景」を調和的に構成する。曹源池の「前景」と「中景」は、池傍の方丈の室中のどの位置から眺めるかで劇的に変化する。本書に写真は載るが、たしか室中からは見られなかったと思う。
・曹源池の西側の斜面部分に散策路があったが、これが樫原断層崖の地形を利用したデザインということを本書で知った。たしかに、断層崖の地形美をうまく利用していると納得した。
・京都盆地の西側は「丹波層群」と呼ばれる基盤岩地質で、「チャート」という固い堆積岩が庭石としても使われいる。この基盤岩地質が「嵐山の美」を生み出している。
・大堰川河原周辺の「周囲が急斜面で囲まれて、視界がパッケージとして完結するような感覚」(p34)の「行き止まり」感の景色美が愛されて、数多くの和歌が詠まれた。
著者は次の和歌を例示している。
葦鶴の立てる川辺を吹く風に寄せてかえらぬ浪かとぞ見る 紀 貫之
吹きはらうもみじの上の露晴れて峯たしかなる嵐山かな 藤原定家
・「京都西山断層帯」の運動の結果、標高300m以上の隆起が形成され、嵐山の景観美ができた。西には亀山断層、東側には樫原断層、樫原断層の北に越畑断層が連なる。その隆起の中を大堰川の上流が「穿入蛇行(せんにゅうだこう)」する。上流が見通せない蛇行の渓谷美と保津川下りが売りとなる。
金閣寺
・金閣寺境内一帯の平坦地は、鎌倉から室町時代に造成工事が行われた巨大な「人工地形」。ここはもとは鎌倉時代に西園寺公経(きんつね)が「北山第」を築造した場所。その地を継承し、室町時代に足利義満が「北山殿」造営の折に、第二段階の地形改変・改修を加えていたという。これは知らなかった。
・池の南側から金閣寺と鏡湖池を撮った超ポピュラーな景色が観光用に定着している。だが、「義満の視点」は「主に庭園東側から西方向に鏡湖池そして金閣を望むものだった」(p53)のではないかという指摘は、目から鱗でもある。所有者が日常庭を眺める視点という問題意識を再認識した。
・鏡湖池の南側に、「涸れ池」(南池)が存在するという。これはぜひ現地確認してみたい。現在の金閣寺庭園と全盛期の金閣寺の境内は大きく異なるかも・・・・とか。現地で想像するのも、おもしろいかも。
・金閣寺の北面を眺め、かつて北側背後に「天鏡閣」が建ち、両者が「複道」(二階建て廊下)でつながっていたという景色を想像しよう。僧侶の日記に記載があるそうだ。これも本書で初めて知った。
・金閣のさらに北側に高さ5mの崖の連なりがあるという。見ていなかったのだろう。記憶にない。室町時代の人工滝「龍門瀑」があり、流水の前面に「鯉魚石」が置かれ、背面に直線的構成の「滝石組」が見られるという。
・この龍門瀑と鏡湖池の現状との関係にアンバランス感があるという。そこに金閣寺庭園の謎が残るようである。後世の庭園改造が加えられた可能性ありという。現地見聞で体感してみたい一点である。
・龍門瀑のある崖を北に登った先に、「浄土式庭園」としての安民沢と平坦地、不動堂とその背後の「石室」、境内北東部に高さ10mの崖と四十五尺滝があるという。これも私には初めて知ることである。金閣寺境内の奥深さを知った次第。
著者は金閣寺境内をくまなく歩いて現地を写真記録で紹介しつつ、末尾に「まるでタイムカプセルのように、中世が生み出した風景・美・驚きが今も境内に奇跡的に温存されているのです」と記している。
金閣寺のイメージ、見方をビジュアルに変えてくれた本である。この予備知識を持って出かけてみよう。
吉田山
吉田山の所在地と吉田神社は知っていたが、吉田山全体の知識はなかった。吉田山全体としてとらえなおす面白さを本書で知った。
・吉田山の西には花折断層の南端部、東側には神楽岡断層が吉田山を挟み込むように走っている。東一条通の東端から吉田神社に登る現在の表参道石段は花折断層の断層崖斜面だったのだ。中世には松木が群生し、「春日之馬場」と呼ばれていたところという。
・東一条通の一筋南、現在は重森三玲庭園美術館前を通る道が、江戸時代までの吉田神社参道(旧参道)でこの道は中世防御集落「吉田構」の集落内を通過する道であり、中世には城門と城壁で武装していたそうである。
・吉田神社境内で、かつて「春日社」と呼ばれた社殿のところが、現在は「本宮」と呼ばれている。室町時代後期から戦国時代にかけて生きた吉田兼倶(かねとも)が「吉田神道」の理論を確立し、その中心地として「斎場所」という平面八角形の社殿を造営した。これが江戸時代には「本宮」だったが、現在は「大元宮」と呼ばれる社殿となっている。「本宮」が入れ替わっている。
・江戸時代までの吉田山全域は神社の境内地。江戸時代後期には、吉田山の西側斜面は吉田神社を中心にした聖地空間であり、山頂部は「遊び」の遊興空間となっていた。明治時代には境内地の大部分が明治政府に没収され、「遊び」と「住まい」の空間に変化していく。
・20世紀初頭に運輸業で財をなした谷川茂庵が吉田山東側斜面に山荘を造営する。そして東側斜面に新デザインの集合住宅「谷川住宅」が開発される。大学教官などの新階層が対象となったという。「谷川茂庵の山荘と同じく銅葺き屋根と全面板張りの統一構成となって」(p86)いる住居群が存在する。
・かつて山荘の食堂として利用された建物が現在はカフェ「茂庵」として営業されているという。
今までは短絡的に吉田神社しか意識していなかった。吉田山の全体の変遷という視点でその凸凹の地を探訪すると面白そうである。
御所東
京都御苑と京都御所探訪、御土居とその周辺探訪で、幾度も訪れている区域である。それでも本書を読み、見過ごしている箇所があった。御土居が南北に気づかれていた場所を間に挟む地域なので、かつての京都の端っこであり、近代のメーンストリートに河原町通がなったために京都の真ん中になった。京都の「真ん中であり、端っこ」というキャッチフレーズがまず使われているのを面白いと思う。著者はこの独特な二重性に着目している。そこにさらに、この御所東のエリアが「交通の便を確保しながらも、都会の喧噪を避けられる場所」(p94)に注目し、新陳代謝がとまらない独自の個性が生まれつつある場所として紹介している。
「御所東は、寬文新堤の築造をきっかけに江戸時代前期後半以降、新開発のメッカとなっていきます。寺町の寺院は次々と他地域へ移転、そこに町屋が進出しました」(p98)という。荒神橋西詰に「寬文新堤の石垣遺構」が現存するそうなので、一度現地確認してみたい。この「近世京都のウォーターフロント開発」(p98)により、御所東一帯にも「三本木」という遊興空間が生まれたという。このことで、本書にも掲載されているが、「私立京都法政学校」設置の古写真を以前に見たときの建物に対する違和感がピタリと結びつき、ナルホドと思った次第である。
源氏物語
平安時代に紫式部が書いた『源氏物語』というフィクションの中盤で、光源氏が広大な邸宅「六条院」を造営する。そこに四季の区画を設けて、光源氏ゆかりの女性たちを住まわせ、ストーリーがさらに進展していく。この六条院は、実在の人物・源融が造営した「六条河原院」がモデルになっていると言われている。
著者は、現実の地理的区域にかつての六条河原院が造営された広さ四町の規模の場所がどこかを諸資料から設定する。そして、現在の「籬の森」について考察して、その虚実の両面を解き明かす。この部分は探訪したときのまとめをしていた時に知っていたが、改めて本書でその再確認ができた。
今回のこのフィールドワーク記録で面白いのは、史実から推定される六条河原院の位置に、『源氏物語』の「六条院」の描写を重ねていき、この地域の歴史的変遷との対比をしているところにある。現実空間と史実、あるいは幻想空間がなぜか照応しあう部分もあり興味深い読み物になっている。六条河原院に存在した庭園のイメージと伝承が、相応する地区の町名や寺院の山号に残るとい説明がある。また、フィクションである『源氏物語』の六条院の「春の町」の位置が興味深い。「『源氏物語』の「春の町」は後世に文字通り『春』がやりとりをされる場所に変化していった」(p121)時期があるのだ。かつては「七条新地」、第二次世界大戦後「五条楽園」と呼ばれ、1958年の法施行で消滅した遊郭があった場所に相当する。著者は、かつての面影を残す建物や不思議で独特な建物の現存する景色を一部紹介している。興味深い建物群が見られる町並が現存するようだ。
この他に以下のスポットがあるという。
・源氏の六条院「夏の町」は、現在の五条通と河原町通の交差点辺りがその中心部と想定される。そこは花散里の暮らした場所という設定。「春の町」「秋の町」との対比では「夏の町」・「冬の町」はマイナーな位置づけ。今では、観光スポット的にも相対的にマイナー。五条通の南には、本覚寺前町・御影堂町という地名が残る。
・源氏の六条院は、六条御息所の旧宅地も使い、そこは「秋の町」として、御息所の娘・秋好中宮が暮らすという話になる。その想定地に、女人守護の女神「市比賣神社」(下京区本塩竈町)が鎮座する。
・「秋の町」の北は「冬の町」で明石の君が暮らしたところ。今の富小路から五条通の辺りに想定され、現在は富小路通を挟み市比賣神社と同じ本塩竈町である。「世継地蔵」で知られた子授け安産の寺「上徳寺」がある。明石の君は光源氏の唯一の娘「明石の姫君」を産む。明石の姫君は紫の上に育てられた後、天皇に嫁ぎ「匂宮」の生母となる。
余談だが、地図を見ると、上徳寺の南西方向で高倉通の西側には、現在「六条院公園」(下京区富屋町)と名づけられた公園が設けられている。
源融の六条河原院趾地と豊臣秀吉の京都改造による寺町の南部「下寺町」、御土居跡、かつての遊郭地などの史実に『源氏物語』の六条院のフィクションが重層的に重なり合って、不可思議な照応すら生み出されている面白さがある。
伏見城
私にとっては、子供時代から高校時代にかけて、身近に感じた場所である。京都の凸凹、それもかなり人工的に改造された場所を歩くという意味では、金閣寺の凸凹以上のスケールだろう。高低差を含めて一番おもしろい紹介スポットかもしれない。
本書の図を見て知ったのだが、現在の京阪本線と近鉄京都線の走る南北方向あたりが、桃山断層の位置になるという。両線を利用し線路脇の段差を見慣れてきていた。それが断層崖だったということを本書で認識した。p158にはその1箇所の写真も載っている。
伏見城について少しは知識を積み重ねてきたが、本書を読みやはり、初めて知る事項もいくつかあった。
「日本城郭史上、最大級の掘遺構。『豊臣建設』の圧倒的ダイナミズム!」という冒頭のキャッチコピーがおもしろい。
宇治川の流れを付け替えてまで築城された伏見城。それも、指月城とも呼ばれた第1期、第2期の城から慶長伏見大地震が城倒壊。当時木幡山と呼ばれた山上に築造された第3期伏見城。さらに関ヶ原合戦後、徳川家康が伏見城を再建する。第4期の伏見城である。家康はこの城で征夷大将軍の宣下を受ける。だが、1623年(元和9)に伏見城廃城。
そして近代、伏見城の天守台あたりの城跡一帯は、明治天皇の墓地として「桃山御陵」として、囲い込まれてしまった。天守台跡には立つこともできない。
伏見城の発掘調査は、時間を掛けて周辺から徐々に進んでいるが、徹底的解明ができないままに留まる。御陵を発掘できないかぎり、天守台跡の状況は想像を脱せられない。
伏見城解明へのロマンは長持ちすることだろう。
・伏見城跡で桃山御陵を除くかなりのエリアは伏見桃山城運動公園になっている。
・伏見桃山城運動公園の駐車場に向かう道路が城門(いわば西大手口)の地点となる。
その道路の両側の凹地は、北曲輪の西側水路と治部少丸北側水路の遺構だという。
・この城門地点の西側に「高さ約8mの見上げるような段差で囲まれて」(p145)住宅地となっている平坦地と道路がある。このあたり、伏見城の外郭設備の遺構の可能性があるという。こんな段差は凸凹歩きにはすごく魅力的で想像をかき立てられることだろう。
・「段差で囲まれた区画を境にして、道路の形状が全く変わる」(p146)
東側は道路が蛇行する形で形成され、西側は東西方向に直線化する。その道路は伏見城下に繋がって行く。そして南北方向の3本の直線道路と交差する。
・かつての北曲輪の一画に、1964年に模擬天守閣が建てられ、周辺は遊園地化していた。 子供時代にこの天守閣に入ったことがある。だが、ここも今は閉鎖されている。
・巨大な北堀遺構が残り、そこは伏見北堀公園になっている。掘の深さが実感できる。
・京阪・宇治線の桃山南口駅の東側、100m余先あたりから山側に向かって第3期・第4期の「舟入」があった。
・京都外環状線沿いに南面する「月橋禅院」の北側背後の丘陵上、観月橋団地の一帯に第2期伏見城(指月城)があった。
・伏見城の周辺には大名の名を冠した町名画の残る。大名屋敷町が存在した証である。
それは豊臣秀吉による「統一政権」が誕生した証でもある。
私の再訪のための覚書を兼ねて、未確認地点などを主体にチェックポイントを列挙してみた。これらを含めて、ビジュアルに沢山の写真を使い、フィールドワークの記録として読みやすく、わかりやすい解説となっている。古地図や絵図なども利用されていて、時代対比もうまく考慮されている。イラスト地図と本文との間のリンクもわかりやすく工夫されていると思う。「ビジュアルなバーチャル観光+学ぶ」という本である。
いずれパート3が発刊されるのだろうか? 期待したい。
ご一読ありがとうございます。
本書と関連する事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
金閣寺とは :「臨済宗相国寺派」
世界遺産 金閣寺 :「きぬかけの路」
吉田神社 ホームページ
吉田神社 :「京都府神社庁」
吉田山(京都市) :ウィキペディア
茂庵 ホームページ
京都最大の旧色街「五条楽園」の遊郭建築と下町レトロ散歩路 :「SMILE LOG」
一億日分の功徳を授かる! 上徳寺の「世継地蔵尊大祭」:「京都ツウ読本」
伏見城 :「京都市」
伏見城石垣 :「京都市」
伏見桃山城運動公園のお城について :「京都市体育協会」
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『京都の凸凹を歩く』 青幻舍