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遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『百人一首に絵はあったか 定家が目指した秀歌撰』 寺島恒世 平凡社

2019-02-17 21:41:20 | レビュー
 百人一首と聞けば、百人一首カルタを思い浮かべる。和歌と詠者を描いた読み札(絵札)と下の句の文字だけの取り札のセットだ。あるいは、「ちはやふる」という青春マンガとその映画を即座に連想する人がいるかもしれない。百人一首に絵はセットになっていると思っている。そこから先を多分考える人はごく少ないだろう。私も考えたことがない。

 本書にタイトルは、『百人一首に絵はあったか』である。つまり、藤原定家が百人一首を撰したときに、それぞれの詠者を描いた絵が初めから伴っていたのかどうかという問いかけである。藤原定家は百人一首を撰し、文字だけのテキストとして秀歌撰をまとめたのか。それだと、後の時代に和歌に詠者の絵を加え、「百人一首絵」が制作されたことになる。あるいは、定家が百人一首を撰したそのときに詠者の絵も既に描かれていたのか。 まずこの問いかけがおもしろいことで関心を惹かれた。それと本書は「ブックレット<書物をひらく>」というシリーズの一冊で、全94ページ、実質は88ページという比較的手短に通読できるボリュームなので、読んでみる気になった。

 本書は次の構成になっている。
 はじめに
 一 『百人一首』の成立
 二 催しの先例 --『最勝四天王院障子和歌』との関わり
 三 作品の先例 --『時代不同歌会』との関わり
 四 『百人秀歌』の配列
 五 『百人秀歌』の試み
 おわりに

 「はじめに」の冒頭に、著者は藤原公任が編んだ『三十六人撰』は作者の姿を描く「三十六人仙絵」を伴った絵巻として伝えられたという有名な事例を紹介する。「百人一首絵」について多くの種類の作品が生み出されたのは事実であるが、それがいつ誕生したのか、という起源については確たることはわかっていないという。百人一首成立の当初から歌仙絵が描かれていたと推定する複数の証言-頓阿の『井蛙抄』、随筆『榻鴫暁筆』ほか-と、江戸時代に至って盛んに描かれたとする立場との両論がある実情だという。

 著者はそこに、後鳥羽院との関わりに焦点を絞りながら、群像としての歌仙絵が描かれる経緯を見定めることで、百人一首と絵の関わりを追究していく。著者の仮説を緻密な推論として本書で論じている。
 
 『百人一首』が成立するきっかけは定家の日記『明月記』に記載があるという。
 定家は嵯峨中院の障子に飾る色紙形を「彼入道」(=宇都宮頼綱)から求められたという。古来からの人の歌を各一首を撰び色紙形に書くという求めである。その求めに応じざるをえず、定家は「天智天皇より以来家隆・雅経に及ぶ」各一首、筆を染めたと記している。
 著者はこの記事から始め、定家と後鳥羽院との関係性を重視しつつ推論を進めて行く。 その推論を展開する過程でいくつかの論点が明らかにされる。通読して私が理解できた要点と感想を記す。

1.定家は後鳥羽院に登用され勅撰集『新古今和歌集』編集の撰者に加わる。その過程で後鳥羽院が自ら関与を深めることの結果、定家は後鳥羽院と対立し勘当されるに至る。撰者の一人、藤原家隆は後鳥羽院に忠誠を尽くす立場をとる。定家は後鳥羽院に終世複雑な対抗意識を持ち、後鳥羽院の行動を注視していたと著者は言う。つまり、後鳥羽院との関係が定家に大きく影響を与えている点を著者は論じていく。

2.後鳥羽院は承久の乱の首謀者であり、鎌倉幕府により隠岐に配流となる。隠岐にて後鳥羽院は『時代不同歌合』という秀歌撰を生み出す。時代の違う歌人の歌を50組の番いとする新しい試みである。この『時代不同歌合』には各歌人の姿を描く絵を備えた絵巻も多く伝わるという。また、『遠島御歌合』も生み出している。定家はこれら後鳥羽院の試みに影響を受ける一方、批判的問題意識で受け止めていたと著者は論じる。
 『時代不同歌合』が分析的に論じられている点が興味深い。これら歌合のことを本書で初めて知った。学びを少し広げることができた。

3.定家は『百人一首』に対し、『百人秀歌』も撰している。宇都宮頼綱の求めに応じて嵯峨中院のための色紙形に染筆したのは、『百人秀歌』に関係する点を著者は具体的に論じていく。

4.嵯峨中院のための和歌は障子に飾られる企画だったことから、後鳥羽院の御願寺として建立された最勝四天王院のための『最勝四天王院障子和歌』の先例を重視し、この障子絵の作成を詳述している。私は初めて知った内容なので興味深かった。
 この先例を踏まえて、著者は嵯峨中院という山荘がどのような間数の構造であったかの緻密な推論を行う。それがこの山荘の為に染筆された色紙形の有り様を決定づけていくからである。定家は嵯峨中院のための和歌を撰したこと、それが百人一首の成立に繋がっているということは知っていたが、この観点など考えたことがなかったのでおもしろかった。

5.当然のことながら、『百人一首』と『百人秀歌』の関係性が重要な問題となる。著者は百人一首を上段に、百人秀歌を下段にと言う形で、それらの歌人配列をずらりと列挙し、『百人秀歌』の配列原理は隣り合う歌人の番いとなっている。それが百人一首の歌人配列と線で結ぶとどのように変化するかをビジュアルに示しそのプロセスを分析する。
 両者に一致する98人の歌人が線で結ばれた結果、全体が5つのグループに別れ、その個別のグループ内で線が交差しているという事実が明示される。その配置の妙が詳述されている。両者の違いと関係性を論じた他書を読んだことがあるが、この論点は新鮮な感じで受け止めた。読んでいてもおもしろい。
 研究者の間では藤原公任の歌が秀歌かどうかの論議がなされてきたという。著者はこの公任の歌に作歌上の積極的な意味を見出している点も興味深い。
 そして、5つのグループに別れているのは、嵯峨中院の間数の構造とも関係があると著者は論じている。

 著者は次の推論結果を導き出している。
*”『百人一首』と密接に関わる『百人秀歌』の本文は、嵯峨中院山荘に飾られた色紙を忠実に再現する形を取っていた。予めテキストとして目論まれた秀歌撰ではなく、歌仙歌合形式による配置が重視された障子歌に基づいていたのである。” p81
*”『百人秀歌』は、『時代不同歌合』が湛える興趣に富む魅力を受け止め、その独創への共鳴とともに募る対抗意識に由来した秀歌撰と解されるのである。” p81
*”『百人秀歌』編纂の根本動機は、<時代不同>ではなく<時代同一>を結番の基準と定めることにあったとみてよいであろう。” p81
*”障子には色紙形に書かれた歌と向き合う歌仙像が描かれていたことが導かれる。” p82
*”『百人一首』は、・・・・百首を単位とする和歌集成として編まれた文献テキストであった。” p87
*”好ましい組み合わせのための二首番いの原理に基づく選歌を踏まえるならば、『百人秀歌』先行説の蓋然性の高さが導かれるのである。” p88
*”本書では、絵は当初から存在した可能性が高いことを導き、もって『百人一首』の成立と性格を捉え直してみた。” p92

 著者がこれらの結論を導き出す分析と推論の展開が読ませどころだと思う。その論理展開を楽しむことができる。
 
 本書を読み、一読者としては大凡その結論を次のように理解した。
 『百人一首』は撰定した和歌を集成した文献テキストとしてのまとめであり、それに絵を付ける必要はなかった。だが、『百人一首』が出来る前に『百人秀歌』として撰した歌が先行し、それらの和歌が嵯峨中院に飾る色紙形に染筆され、歌仙絵が添えられて山荘の部屋に飾られた。つまり、「百人一首絵」の淵源となる歌仙絵は『百人一首』の成立時点には併行して存在したと推定できる。
 その目的から考え、『百人秀歌』に歌仙絵は必要だったが、『百人一首』に絵は必要ではなかった。後に『百人一首』が重視されていく際、既に描かれていた歌仙絵をベースに詠者の差し替えに伴い必要な歌仙絵が新たに描かれれば、「百人一首絵」として利用できた。そういう進展なのかなと思った。(この理解に誤読があるかどうかは、本書を繙いて著者の推論過程をお楽しみいただき、ご確認ください。)
 
 ご一読ありがとうございます。

本書を読み、関心の波紋を広げて、少し検索してみた。一覧にしておきたい。
小倉百人一首  :「コトバンク」
百人一首    :ウィキペディア
百人秀歌    :「コトバンク」
百人秀歌    :ウィキペディア
百人秀歌    :「渋谷栄一(国語・国文学)研究室」
百人一首 ホームページ
歌仙絵師の百人一首百絵 説明と解釈
時代不同歌合絵巻  :「e國寶」
時代不同歌合繪. [4]  :「国立国会図書館デジタルコレクション」
時代不同歌合(初撰本) 後鳥羽院撰  :「千人万首」
日本かるた文化館 ホームページ
   (一)百人一首かるた絵の発祥 
   (七)百人一首かるた絵の起源  
(一)版本『百人一首』の歌人図像の由来

嵯峨嵐山文華館 ホームページ
   百人一首について
百人一首絵抄 十五 光孝天皇 :「国立国会図書館デジタルコレクション」
佐竹本三十六歌仙絵巻  :ウィキペディア
ちはやふる 末次由紀 公式サイト
ちはやふる -結び-  公式サイト

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