神なる冬

カミナルフユはマヤの遺跡
コンサドーレサポーターなSFファンのブログ(謎)

[SF] ゼロ年代SF傑作選

2010-02-17 21:56:18 | SF
『ゼロ年代SF傑作選』 S-Fマガジン編集部 (ハヤカワ文庫JA)</size>




『ゼロ年代“SF”傑作選』、ではなく、『“ゼロ年代SF”傑作選』。
もっと言えば、『リアル・フィクション傑作選』。

“リアル・フィクション”というのは、ハヤカワ文庫で展開されたキャンペーンみたいなもので、ライトノベルを中心に活躍していたSF第5世代作家やそのファンを、プロパーSFの世界へ引きずり込もうという魂胆だった。

これは、1985年の角川文庫ファンタジーフェア(あの『未来放浪ガルディーン』の表紙で度肝を抜かれた)に近いものがあったように思う。しかし、角川ファンタジーフェアがスニーカー文庫を生み出し、ライトノベル全盛期のきっかけとなったことに比べると、小粒な企画に終わったと言わざるを得ない。

また、“リアル・フィクション”という名称から、ゲームやアニメのフィクションの世界がリアルを凌駕するような、ゲーム脳的な解釈をされることがあるものの、名付け親の塩澤SFM編集長はそこまで考えていなかった模様。

ただ、この動きをきっかけに、このアンソロジーに収録されている作家陣がSFMやJコレといった日本SFの中心地に環流し始めたことは大きい。一時期分断されつつあったライトノベルと、非ライトノベルのジャンル小説をつなぐ必要性というのは、当時双方の担い手にも十分認識されていたと記憶している。

これは、そういう歴史の1ページとして、SFの教科書にでも載せるべきアンソロジーである。

収録作のほとんどはS-Fマガジンに掲載された作品であるが、正直言って記憶にない作品もあったりする。また、読後感が記憶とまったくことなる作品もあったりして、俺の記憶は充てにならないもんだなぁと、しみじみと感じる。



「マルドゥック・スクランブル“104”」 冲方丁
◎:『マルドゥック・ヴェロシティ』を読んでいるかどうかで、どうしても印象がかわってしまうボイルドとウッフコックのコンビ。
  今となっては、二人が並んでいるだけで涙が止まらない。

「アンジー・クレーマーにさよならを」 新城カズマ
◎:SFMで連載中の《あたらしいもの》に入っていてもおかしくない、先見的な作品。
  気球が飛ぶラストシーンの美しさは語り継がれるべき。

「エキストラ・ラウンド」 桜坂洋
◎:ある意味、“リアル・フィクション”の名にもっともふさわしい作家であり、作品である。
  ゲーム内のリアルと、現実のリアルが交差する十字路で、ゼロ年代のドラマは生まれるのである。

「デイドリーム、鳥のように」 元長柾木
△:この設定は《ブギーポップ》かよって突込みを入れるべきなのか。
  そういえば、全死、間違って買ってよんじゃったよ。
  悪くはないんだが、このメンツに入ると見劣りするように思える。

「Atomosphere」 西島大介
○:文字による説明が少ない分、読者の心の中から引き出されるものに作品の評価が依存しているように思える。
  セカイの壊れ方も、《ブギーポップ》やその他のセカイ系に共通した“雰囲気”なんだよなw

「アリスの心臓」 海猫沢めろん
○:SFMで読んでいるのだが、まったく記憶と違うストーリー。俺はいったい、何を読んだんだろうw
  まったく、そのことの方が“センスオブワンダー”だぜ。

「地には豊穣」 長谷敏司
○:これも『あなたのための物語』を読んだせいで読後感がまったく変わる。そうか、これがITPなのか。
  やっぱり、日本人は桜だよな。文化は残るべくして残るものだ。
  でも、矯正後に矯正してよかったかどうかを判断できるんだろうかとか考え出すと、また泥沼。

『おれはミサイル』 秋山瑞人
◎:《E・G・コンバット》の最終巻は? 『ミナミノミナミノ』の続編は? それはさておき。
  男性読者を泣かせるSFを書かせたら、おそらく日本チャンピオン。
  この作品も、映画『ダーク・スター』の変奏曲のようでありながら、“燃え”と“侘び”の泣けるストーリーになっている。


[映画] Dr.パルナサスの鏡

2010-02-17 21:05:21 | 映画
『Dr.パルナサスの鏡』 - goo 映画


暇だったので、見てみた(笑)

会場は女性だらけ。うーむ、さすがに人気男優勢ぞろいの巻だなぁ、と思ったら、レディス・デーだった模様。

ネットの評判で、難解とか退屈とかが出ていたのであまり期待していなかったんだが、まぁそれなり。
やっぱり、映画はコメディとかアクションとかじゃないときついか。この映画もコメディっぽいところはあるんだが、弾け方が足りないというか、生真面目に作っちゃった感が……。

鏡の向こうのファンタジー・パートを映画の背景として見てしまえば、三角関係を描いたラブストーリーになる。

ちょっと厳格な父、その父を支える愚直な弟子、そして、突然現われたチョイ悪な風来坊。その間で揺れ動く16歳ヴァレンティナの女心。主演のリリー・コールも西欧的な“いかつさ”がなくて可愛い。

ところが逆に、これらの人間関係を背景とし、Dr.パルナサスと悪魔の駆け引きをメインに見ると、とたんにわけがわからなくなる。

鏡の向こうは想像力が支配する夢の世界。酔っ払いは酒瓶が降って来る世界を見て、子供はお菓子の国を見る。
鏡の向こうへ入り込んだ客は、その中でパルナサスとニックが提供する選択肢を選ばなければならない。これが善悪などのわかりやすいものであるならばいいのだが、なんだか良くわからない。しかも、選択するのが必然ではなく、パルナサスとニックの賭けのために、無理矢理選ばされている感じ。

パルナサスはなりたい理想の自分を見せ、ニックは奥深い欲望を見せるということでいいのか?
それとも、選択肢に意味は無く、選択させることにしか意味は無いのか?

終盤にパルナサスが見る選択肢が「あっち」「こっち」で無意味なところからすると、選択に疲れた現代人の皮肉みたいなものも感じる。(これは字幕の問題で、highとかlowにちゃんと意味があるのかもしれんが)

ニックが悪魔であるのに対して、パルナサスを神として見るレビューもあるんだが、それはちょっと違うと思われ。
パルナサスはニックによって不死にされた被害者であって、決してニックに対抗することにはなりえないんだよね。
逆に、ニックの対極に置くべきは、実はパーシーなんじゃないかとか。あの人、なんでも知っていて、パルナサスを見守っているようにも見える。

鍵はパルナサスの出自となる寺院にあるのだろうが、これまたテリー・ギリアム監督が何を意図したのかが良くわからん。
美術的にはおそらくインドの山奥(出っ歯のはげ頭でコンドールマンが修行している)なんだろうが、映画の中にはあいかわらずおかしな日本趣味(和服デザイン、漢字)も出てくるので、東洋のどこかという意味しか無いかも。
そこでは、世界は寺院の坊さんが物語ることによって維持されているということになっている。どっかで聞いたような設定なんだが、これを悪魔ニックが嘘であると看破する。しかし、もちろん悪魔の言うことなので、これが本当かどうかもわからない。

そうすると、“この世界”自体がそもそも別な世界から見た鏡の中かもという疑惑が出てきて、そうであれば、誰の夢なのかという話に繋がる。

いや、逆に“この世界”は、ただひとりの語り部ではなく、幾人もの人々が欲望のままに選ぶ選択によって成り立っているという意味だったのだろうか。

うーむ。いろいろ解釈はできるんだが、どれもしっくりこない。
それ以上に大問題なのは、盛り上がりに欠けてちょっと退屈だったということか。
結局、どこかに興味が持てないと深く考察もしないしね。