『レダ Ⅰ~Ⅲ』 栗本薫 (ハヤカワ文庫 JA)
梓薫忌。
“しくんき”と読む。
中島梓であり、栗本薫であった女性の追悼企画。その中で復刊された長編『レダ』。
『レダ』を最初に読んだのは、中学生2年か3年の頃だったと思う。
市立図書館から借りてきた分厚い本。グインにはまり、『メディア9』や『時の石』に魅了されていた頃だ。
少年が世界の秘密を探り出し、閉塞した社会から抜け出そうというストーリーは、実はすごくお気に入りのテーマであった。
ハインラインの世代宇宙船の話や、新井素子の『大きな壁の中と外』なんかには、ものすごく心を躍らせたものだった。
しかし、『レダ』についてはあんまり憶えていない。
確か、大きなピレネー犬みたいな白い犬が出てくると記憶していたが、実は白黒グレーのセントバーナードだったりとか。
なんでだろうと思い返すと、レダがキライだったからだな、たぶん(笑)
レダは自由に生きる象徴みたいな書かれ方をしているが、実は36歳にして少女の精神を併せ持った変人。
それが純粋さを示す設定なのだろうが、どうしても嫌悪感を持ってしまう。なんだか面倒臭い女だなぁという感じ。
これに近いキャラクターをもう一人上げるとすれば、新井素子『チグリスとユーフラテス』のルナちゃんだ。
あっちはオバサンを通り越して、オバアサンだがな。
そんなわけで、レダも気に入らないし、そんなレダに惹かれるイヴも理解できないぜ。というのが感想。
さらにイミフなのが、主人公である少年の名前がイヴであること。
レダという蛇にそそのかされて、知恵の実を口にするというロールには確かにぴったりなのだが、なぜに最初の“女”なのだ。
栗本薫というと、ヤオイ小説にも力を入れていたせいで、その名前だけでイヴがホモに見えてくる不思議。カミーユばりに「俺は女じゃない!」と叫ぶシーンが欲しかったよ。
さて、イヴがイヴなのであれば、アダムはどこにいるのか?
レダは蛇。アウラとLAは母性の象徴。デイマーは神。
ブライは無頼。新しい世界を作るアダムとしては、古き世界に沈みすぎている。
であるならば、アダムはどこか?
そこで考え直さなければならないのが、ふたつの社会。《上》と《下》。宇宙と地上。
地上の管理都市が不完全な社会であるのと同様、ブライが所属する銀河政府もまた完璧な世界ではない。不完全な二つの社会。
地上にイヴがいるならば、アダムは宇宙にいるのではないか。新たな世界を作るために、惑星を飛び出そうとするアダムというの名の少女が!
そんなところにも、描かれなかった幻の小説を夢見て、追悼の意を厚くするのであった。
しかし、キャラクタ造詣以外は、この物語は秀逸である。何がすごいって、管理都市のファー・イースト30がどう見ても、一点の曇りもなく、ユートピアに見えることだろう。
管理社会であり、閉鎖社会であるものの、そこはカイゼンし続ける社会であり、停滞した社会ではない。
市民には管理から逸脱する自由が認められており、反逆者の存在が反逆者ギルドとしてすら認められている。
不幸であることすら自由であり、強制的な自己啓発の淘汰圧(派遣村の就職斡旋のような!)などとも無縁である。
『1984』や『未来世紀ブラジル』のような管理社会的ディストピアとはまったく違う、ある種の理想的な社会が描かれている。
しかし、その裏の意味はアーティストギルドの光景に明確に現われている。
人とちょっとだけ違うことを求める自由。それによって、大きな不満を持たないように飼いならされた反逆者。
他人から見て不幸であることが、当人にとって幸せであるならば、不幸であることを選択することもできる自由でしかない。その意味では、当人にとって不幸であることは市民には許されない。
この世界をディストピアというのであれば、ユートピアとはどこにあるのか。
人間が目指す究極の社会とはどんなものであるのか。
昨今、政治の問題で議論される友愛社会やら、高福祉社会やら、ベーシックインカムの問題なども、果たしてユートピアに繋がる政策なのか、ちょっと考えてみるきっかけになったり。
梓薫忌。
“しくんき”と読む。
中島梓であり、栗本薫であった女性の追悼企画。その中で復刊された長編『レダ』。
『レダ』を最初に読んだのは、中学生2年か3年の頃だったと思う。
市立図書館から借りてきた分厚い本。グインにはまり、『メディア9』や『時の石』に魅了されていた頃だ。
少年が世界の秘密を探り出し、閉塞した社会から抜け出そうというストーリーは、実はすごくお気に入りのテーマであった。
ハインラインの世代宇宙船の話や、新井素子の『大きな壁の中と外』なんかには、ものすごく心を躍らせたものだった。
しかし、『レダ』についてはあんまり憶えていない。
確か、大きなピレネー犬みたいな白い犬が出てくると記憶していたが、実は白黒グレーのセントバーナードだったりとか。
なんでだろうと思い返すと、レダがキライだったからだな、たぶん(笑)
レダは自由に生きる象徴みたいな書かれ方をしているが、実は36歳にして少女の精神を併せ持った変人。
それが純粋さを示す設定なのだろうが、どうしても嫌悪感を持ってしまう。なんだか面倒臭い女だなぁという感じ。
これに近いキャラクターをもう一人上げるとすれば、新井素子『チグリスとユーフラテス』のルナちゃんだ。
あっちはオバサンを通り越して、オバアサンだがな。
そんなわけで、レダも気に入らないし、そんなレダに惹かれるイヴも理解できないぜ。というのが感想。
さらにイミフなのが、主人公である少年の名前がイヴであること。
レダという蛇にそそのかされて、知恵の実を口にするというロールには確かにぴったりなのだが、なぜに最初の“女”なのだ。
栗本薫というと、ヤオイ小説にも力を入れていたせいで、その名前だけでイヴがホモに見えてくる不思議。カミーユばりに「俺は女じゃない!」と叫ぶシーンが欲しかったよ。
さて、イヴがイヴなのであれば、アダムはどこにいるのか?
レダは蛇。アウラとLAは母性の象徴。デイマーは神。
ブライは無頼。新しい世界を作るアダムとしては、古き世界に沈みすぎている。
であるならば、アダムはどこか?
そこで考え直さなければならないのが、ふたつの社会。《上》と《下》。宇宙と地上。
地上の管理都市が不完全な社会であるのと同様、ブライが所属する銀河政府もまた完璧な世界ではない。不完全な二つの社会。
地上にイヴがいるならば、アダムは宇宙にいるのではないか。新たな世界を作るために、惑星を飛び出そうとするアダムというの名の少女が!
そんなところにも、描かれなかった幻の小説を夢見て、追悼の意を厚くするのであった。
しかし、キャラクタ造詣以外は、この物語は秀逸である。何がすごいって、管理都市のファー・イースト30がどう見ても、一点の曇りもなく、ユートピアに見えることだろう。
管理社会であり、閉鎖社会であるものの、そこはカイゼンし続ける社会であり、停滞した社会ではない。
市民には管理から逸脱する自由が認められており、反逆者の存在が反逆者ギルドとしてすら認められている。
不幸であることすら自由であり、強制的な自己啓発の淘汰圧(派遣村の就職斡旋のような!)などとも無縁である。
『1984』や『未来世紀ブラジル』のような管理社会的ディストピアとはまったく違う、ある種の理想的な社会が描かれている。
しかし、その裏の意味はアーティストギルドの光景に明確に現われている。
人とちょっとだけ違うことを求める自由。それによって、大きな不満を持たないように飼いならされた反逆者。
他人から見て不幸であることが、当人にとって幸せであるならば、不幸であることを選択することもできる自由でしかない。その意味では、当人にとって不幸であることは市民には許されない。
この世界をディストピアというのであれば、ユートピアとはどこにあるのか。
人間が目指す究極の社会とはどんなものであるのか。
昨今、政治の問題で議論される友愛社会やら、高福祉社会やら、ベーシックインカムの問題なども、果たしてユートピアに繋がる政策なのか、ちょっと考えてみるきっかけになったり。