『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』 ジュノ・ディアス (新潮クレスト・ブックス)
オスカー・ワオがタイトルになっていて、しかも、このオスカーがヲタクで童貞という強烈なキャラクターであるために見過ごされがちだが、これはオスカーの物語ではなく、オスカーを含めた一族の物語だ。
オスカー、姉、母、伯母、祖父母……彼らがフク(悪霊)に捕らわれ、不幸を背負う様子が、姉の恋人を語り手として描かれる。
彼ら一族の不幸は、独裁者トルーヒヨというフクにとらわれたドミニカの不幸と重ね合わされ、語り手の注にはそれらの不幸に対する怒りが満ち溢れている。
その構造の中で、オスカーの特異なおたく性(原文ではnerdであるが、日本的なotakuでもある)は、いったいどういう意味を持つのか。
語り手のユニオールはオスカーの話もある程度わかる半オタクである。しかし、彼はnerdではなく、オスカーのotaku性を全面的に肯定するわけではない。
たしかに、これは滝本竜彦的な非モテ小説の見栄えを持っているが、オスカーは2次元に逃げる(というか、欧米はオタクであっても、3次元を捨てて2次元へ逃げるのは極めて少数派らしいが)ことなく、惨事女性(3次は惨事、2次は虹)が好きだし、最後のゴールはキスして童貞を捨てることなのだ。つまり、カーストとしてのnerd脱出がゴールなわけである。
オスカーはnerdであり、otakuであるが、彼の物語の中心にあるのは、オスカーがnerdであるということ。それではotakuであることはどこに行ったのか。
姉や母の物語が、主人公を変えることによって同じエピソードに別な意味を持たせることに成功している処を見ると、オスカーがotakuであることは、ひとつ以上の意味を持ち得ると考えることができる。
そこで、特に注目してほしいのは、otaku的モチーフやジャーゴンに対する割注は日本版独自のものであって、原書には存在しないということである。
我々(って誰?)オタク、ファン、マニアは、「DCにしてマーブル」とか、ロボテックがどうしたとか、ひとつの指輪がどうしたとか書かれても、別に注など無くても読めるわけだが、一般人はこれらをどのように読み、どのように感じるのか。
この小説は、なんとピューリッツア―賞と全米批評家協会賞を受賞している。ヒューゴー賞やアイズナー賞ではない。しかも、割注無しでだ!
ピューリッツア―賞(フィクション部門)は、アメリカの生活を描写した、「卓越したdistinguished」ものに与えられる。(らしい。by wikipedia)
この物語は、ドミニカから移民してきたにも関わらず、フクから逃れられない一族を描くことにより、アメリカの移民階層の生活を描くとともに、内向的で社交性が低いがゆえに侮蔑されるnerdと呼ばれる被差別階層の生活を描き、アメリカの二重の下層社会を浮かび上がらせている。
オスカーがnerdであることはフクの呪いであり、その地獄から彼を連れ去ったのは、マングースと顔の無い男と死であった。
オスカーの気持ちがどうあれ、客観的にみれば、otakuはnerdの救いとしての防衛機制ではなく、フクの呪いの一部(※因果関係に注目あれ)である。とくに、割注無しの原文を読まされたアメリカ人読者にとっては、それらのジャーゴンこそが呪いの呪文そのものであったとしても不思議ではない。
全国の非モテおたく諸君。『オスカー・ワオの短くも凄まじい人生』を、“俺たちの物語”などと称して礼讃するなかれ。あれは、お前らのotaku性は生まれる前からの呪いであり、死ななきゃ治らないと憐れんでいるだけなのだ。
もう一度言うが、これはオスカーというデブで無神経でotakuなnerdがいかに死んだかという物語ではなく、ドミニカからやって来た一族が理不尽な呪い(フク)を背負いながらも、いかに生きたかという物語である。
これは俺たちの物語でもなんでもなく、今でもフクから逃れられないドミニカ人の物語である。
注:
このエントリーは非モテオタク文学がピューリッツア―賞などというアッパーな賞の理事会に評価されるわけが無いという被害妄想によって成り立っています。
ところで、オスカー・ワオはオスカー・ワイルドに由来するオスカーのあだ名なのだが、その意味は「デブでオカマ」ということらしい。オスカー・ワイルドって、そうだったの?
オスカー・ワオがタイトルになっていて、しかも、このオスカーがヲタクで童貞という強烈なキャラクターであるために見過ごされがちだが、これはオスカーの物語ではなく、オスカーを含めた一族の物語だ。
オスカー、姉、母、伯母、祖父母……彼らがフク(悪霊)に捕らわれ、不幸を背負う様子が、姉の恋人を語り手として描かれる。
彼ら一族の不幸は、独裁者トルーヒヨというフクにとらわれたドミニカの不幸と重ね合わされ、語り手の注にはそれらの不幸に対する怒りが満ち溢れている。
その構造の中で、オスカーの特異なおたく性(原文ではnerdであるが、日本的なotakuでもある)は、いったいどういう意味を持つのか。
語り手のユニオールはオスカーの話もある程度わかる半オタクである。しかし、彼はnerdではなく、オスカーのotaku性を全面的に肯定するわけではない。
たしかに、これは滝本竜彦的な非モテ小説の見栄えを持っているが、オスカーは2次元に逃げる(というか、欧米はオタクであっても、3次元を捨てて2次元へ逃げるのは極めて少数派らしいが)ことなく、惨事女性(3次は惨事、2次は虹)が好きだし、最後のゴールはキスして童貞を捨てることなのだ。つまり、カーストとしてのnerd脱出がゴールなわけである。
オスカーはnerdであり、otakuであるが、彼の物語の中心にあるのは、オスカーがnerdであるということ。それではotakuであることはどこに行ったのか。
姉や母の物語が、主人公を変えることによって同じエピソードに別な意味を持たせることに成功している処を見ると、オスカーがotakuであることは、ひとつ以上の意味を持ち得ると考えることができる。
そこで、特に注目してほしいのは、otaku的モチーフやジャーゴンに対する割注は日本版独自のものであって、原書には存在しないということである。
我々(って誰?)オタク、ファン、マニアは、「DCにしてマーブル」とか、ロボテックがどうしたとか、ひとつの指輪がどうしたとか書かれても、別に注など無くても読めるわけだが、一般人はこれらをどのように読み、どのように感じるのか。
この小説は、なんとピューリッツア―賞と全米批評家協会賞を受賞している。ヒューゴー賞やアイズナー賞ではない。しかも、割注無しでだ!
ピューリッツア―賞(フィクション部門)は、アメリカの生活を描写した、「卓越したdistinguished」ものに与えられる。(らしい。by wikipedia)
この物語は、ドミニカから移民してきたにも関わらず、フクから逃れられない一族を描くことにより、アメリカの移民階層の生活を描くとともに、内向的で社交性が低いがゆえに侮蔑されるnerdと呼ばれる被差別階層の生活を描き、アメリカの二重の下層社会を浮かび上がらせている。
オスカーがnerdであることはフクの呪いであり、その地獄から彼を連れ去ったのは、マングースと顔の無い男と死であった。
オスカーの気持ちがどうあれ、客観的にみれば、otakuはnerdの救いとしての防衛機制ではなく、フクの呪いの一部(※因果関係に注目あれ)である。とくに、割注無しの原文を読まされたアメリカ人読者にとっては、それらのジャーゴンこそが呪いの呪文そのものであったとしても不思議ではない。
全国の非モテおたく諸君。『オスカー・ワオの短くも凄まじい人生』を、“俺たちの物語”などと称して礼讃するなかれ。あれは、お前らのotaku性は生まれる前からの呪いであり、死ななきゃ治らないと憐れんでいるだけなのだ。
もう一度言うが、これはオスカーというデブで無神経でotakuなnerdがいかに死んだかという物語ではなく、ドミニカからやって来た一族が理不尽な呪い(フク)を背負いながらも、いかに生きたかという物語である。
これは俺たちの物語でもなんでもなく、今でもフクから逃れられないドミニカ人の物語である。
注:
このエントリーは非モテオタク文学がピューリッツア―賞などというアッパーな賞の理事会に評価されるわけが無いという被害妄想によって成り立っています。
ところで、オスカー・ワオはオスカー・ワイルドに由来するオスカーのあだ名なのだが、その意味は「デブでオカマ」ということらしい。オスカー・ワイルドって、そうだったの?