『リトル・ブラザー』 コリイ・ドクトロウ (早川書房)

これは新世代のバイブルになるかも知れない。すべての17歳若者は必読。そして、すべての情報系技術者は必読。
テロとの戦い、テロの抑止をお題目に、個人の自由を規制し、個人の尊厳を否定する。それが本当にテロの抑止に繋がるかどうかなどはまったく無関係に、対テロ戦争の名目のもとに、すべてのことが許される。
通信は盗聴され、交通は監視され、データーマイニングが「ちょっと違う」誰かをあぶり出す。社会の情報化と、進んだ情報処理技術がこれを可能としたのだ。
これに対し、誤認逮捕により尊厳を剥奪され、心身共に傷つけられた17歳のハッカー(≠クラッカー)が戦いを挑む。何度も恐怖にくじけそうになりながらも、仲間や恋人や母親に助けられ……。
これはジュブナイルとして著された小説のため、世界は単純に、わからずやの大人と自由を求める若者の対立に押し込まれている。
“25歳以上を信じるな!”
しかし結局、彼らはジャーナリズムという大人の力を借りて、さらにはカリフォルニア州知事(そういえばターミネーターだったけど)の力を借りて、尊厳を取り戻すことになる。
25歳以上の大人が、すべて阿呆なわけではないのだ。
それでも、彼らが自分たちの暗号化ネットワークを作り上げ、報道されない情報を共有し、国土安全保障省の横暴に対抗しようとしたことが、25歳以上の大人たちもが動き出すきっかけとなった。
自分も情報系技術者の端くれであるが、このような事件に巻き込まれたとき、自分に何が出来るかということを考えると、自分の無力さに情けなくなる。知識も、勇気も、何もかもが足りない。それがゆえに、主人公のマーカスは、ウルトラマンやスーパーマンに並び、我々のヒーロー足りえるのだ。
この小説がアメリカで出版されたのは2008年。しかし、2010年末からチュニジアで、年が明けた2011年にはエジプトで、そしてリビアで起こったことを予見的に描いている。若者たちのネットワークがダウンしたとき、世界中のハッカーがこれを復帰させようとしたことも予見的だ。
この小説の元ネタでもあるビッグ・ブラザーの登場するジョージ・オーウェルの『1984年』は確かに予見的だ。しかし、1949年に書かれた古さ、1984年というレトロ・フューチャーの描写が、それを寓話に押し込めてしまっている。
それに対し、『リトル・ブラザー』に描かれているのは、今ここにあるディストピアだ。
国際的にはジャスミン革命に始まる民主化運動。国内の不満を外に向けるために過激化するテロ対策。
そして、日本においても。
テロを別な言葉に変えれば、どこかで見た景色ではないか。この小説を読んで、背筋が寒くならない人がいるとは信じられない。
さらには、桁違いの規模とはいえ、大量の死者、行方不明者を出したテロの描写、混乱する街の描写が、東日本大震災後の日本の今とシンクロし、この物語が遠い世界の話ではないということが実感される。
児童性犯罪抑止のための二次元規制。ピーク電力削減のための深夜コンビ二規制。まったく無関係なものが、誰にも反対できないお題目のために規制されようとしている。
東京都だけの話ではない。警察利権。見込み捜査。逮捕ノルマ……。誰も反対できないような名目すらなく、権力の暴走はとっくに始まっている。
老害知事のインターネット規制どころか、Facebookの実名強制ですら、この小説で描かれた地獄へ向けた落とし穴に思えてしまう。
しかし、大人たちは、老人たちは、権力の言ううがまま、お題目を信じる。自分が理解できない放射能汚染の濃度に関してはヒステリックに騒ぎ立てるくせに、お題目が自分の感性にあってしまえば、そのお題目にしたがって何が行われようとしているかには、まったくの無関心。
かといって、若者たちはさらに政治に無関心。好きな二次ロリが規制されようと、秋葉原で職質を受けようと、自分の一票が政治を変えるということに実感が無い。しかし、それは現状を正しいと認めているということがわかっているのか。
今日は、都知事選の結果よりも、投票率の低さ(57.8%)に寒気をおぼえた。でも、これでも前回よりは投票率は上がっているんだけれど。

これは新世代のバイブルになるかも知れない。すべての
テロとの戦い、テロの抑止をお題目に、個人の自由を規制し、個人の尊厳を否定する。それが本当にテロの抑止に繋がるかどうかなどはまったく無関係に、対テロ戦争の名目のもとに、すべてのことが許される。
通信は盗聴され、交通は監視され、データーマイニングが「ちょっと違う」誰かをあぶり出す。社会の情報化と、進んだ情報処理技術がこれを可能としたのだ。
これに対し、誤認逮捕により尊厳を剥奪され、心身共に傷つけられた17歳のハッカー(≠クラッカー)が戦いを挑む。何度も恐怖にくじけそうになりながらも、仲間や恋人や母親に助けられ……。
これはジュブナイルとして著された小説のため、世界は単純に、わからずやの大人と自由を求める若者の対立に押し込まれている。
“25歳以上を信じるな!”
しかし結局、彼らはジャーナリズムという大人の力を借りて、さらにはカリフォルニア州知事(そういえばターミネーターだったけど)の力を借りて、尊厳を取り戻すことになる。
25歳以上の大人が、すべて阿呆なわけではないのだ。
それでも、彼らが自分たちの暗号化ネットワークを作り上げ、報道されない情報を共有し、国土安全保障省の横暴に対抗しようとしたことが、25歳以上の大人たちもが動き出すきっかけとなった。
噛んだ噛んだ噛んだ噛んだ噛んだ!
Bit Bit Bit Bit Bit!
Bit Bit Bit Bit Bit!
自分も情報系技術者の端くれであるが、このような事件に巻き込まれたとき、自分に何が出来るかということを考えると、自分の無力さに情けなくなる。知識も、勇気も、何もかもが足りない。それがゆえに、主人公のマーカスは、ウルトラマンやスーパーマンに並び、我々のヒーロー足りえるのだ。
この小説がアメリカで出版されたのは2008年。しかし、2010年末からチュニジアで、年が明けた2011年にはエジプトで、そしてリビアで起こったことを予見的に描いている。若者たちのネットワークがダウンしたとき、世界中のハッカーがこれを復帰させようとしたことも予見的だ。
この小説の元ネタでもあるビッグ・ブラザーの登場するジョージ・オーウェルの『1984年』は確かに予見的だ。しかし、1949年に書かれた古さ、1984年というレトロ・フューチャーの描写が、それを寓話に押し込めてしまっている。
それに対し、『リトル・ブラザー』に描かれているのは、今ここにあるディストピアだ。
国際的にはジャスミン革命に始まる民主化運動。国内の不満を外に向けるために過激化するテロ対策。
そして、日本においても。
テロを別な言葉に変えれば、どこかで見た景色ではないか。この小説を読んで、背筋が寒くならない人がいるとは信じられない。
さらには、桁違いの規模とはいえ、大量の死者、行方不明者を出したテロの描写、混乱する街の描写が、東日本大震災後の日本の今とシンクロし、この物語が遠い世界の話ではないということが実感される。
児童性犯罪抑止のための二次元規制。ピーク電力削減のための深夜コンビ二規制。まったく無関係なものが、誰にも反対できないお題目のために規制されようとしている。
東京都だけの話ではない。警察利権。見込み捜査。逮捕ノルマ……。誰も反対できないような名目すらなく、権力の暴走はとっくに始まっている。
老害知事のインターネット規制どころか、Facebookの実名強制ですら、この小説で描かれた地獄へ向けた落とし穴に思えてしまう。
しかし、大人たちは、老人たちは、権力の言ううがまま、お題目を信じる。自分が理解できない放射能汚染の濃度に関してはヒステリックに騒ぎ立てるくせに、お題目が自分の感性にあってしまえば、そのお題目にしたがって何が行われようとしているかには、まったくの無関心。
かといって、若者たちはさらに政治に無関心。好きな二次ロリが規制されようと、秋葉原で職質を受けようと、自分の一票が政治を変えるということに実感が無い。しかし、それは現状を正しいと認めているということがわかっているのか。
政府は、統治される人々の合意に由来する正当な権力にもとづいて、人民のうちに樹立される。いかなる形態であれ、政府がこの目標に反するようになったとき、人民は、政府を改め、または廃してあらたな政府を樹立し、もっとも安全と幸福をもたらしてくれそうな原理をよりどころとし、もっとも安全と幸福をもたらしてくれそうな形で権力を組織する権利を有する。
時間はたっぷりある。近所で五人を見つけるには―“投票したい候補者がいない”から棄権していた人を五人見つけるには充分な時間だ。
今日は、都知事選の結果よりも、投票率の低さ(57.8%)に寒気をおぼえた。でも、これでも前回よりは投票率は上がっているんだけれど。