ザ・ライト ~エクソシストの真実~ - goo 映画
(C)2010 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC.
タイトルの“ライト”は light でも right でもなく、 rite 。つまり、“儀式”という意味だ。これは意味深。いつものことだが、日本語タイトルの付け方がよろしくない。
確かに、エクソシスト育成の物語だが、劇中でも出てくるように「首が180度回ったり、緑色のゲロを吐くと思ったら」大間違いだ。これはそんな映画ではないし、それを期待して見れば、必ず裏切られて低評価のレビューを書くことだろう。
それでは、どういう話かといえば、副題そのもの。“エクソシストの真実”。
以下、ネタばれ全開なのだけれど……。
見終わった後で、エクソシストとは何かと聞かれれば、ロールプレイによるカウンセリングであるというのが、自分なりの結論。
自我が拒否するような出来事に遭ったり、罪の意識に苛まれたりするとき、人は精神的に病んでしまい、幻覚を見たり、多重人格の中に逃げ込んでしまったりする。
これはオカルトではなく、科学的には精神科の領域なのだが、宗教心に篤い人や、あるいは精神科に拒否反応を示す人にとっては、それはまさしく悪魔の仕業である。
それを非科学的だと否定するのではなく、あるがままに受け入れ、患者の納得する形で戦いの演技を見せ付け、心の中の悪魔を昇華させる存在。それがエクソシストである。
ゆえに、キリスト教的悪魔(ベルゼブブ、リバイアサン、バールなど)はキリスト教を深く信仰する者にしか憑かず、キリスト教的エクソシストはキリスト教的悪魔としか戦わない。
おそらく、日本で同様なことが起これば、それは狐憑きだったり、怨霊の仕業だったりするのだろう。そして、それらと戦うのはエクソシストではなく、お坊さんだったり、陰陽師だったりするのだろう。
神の存在に疑問を持つ主人公が、信仰を取り戻す時に叫ぶ言葉。「俺は悪魔を信じる。ゆえに、神を信じる!」
この言葉は、キリスト教信者にとっても、無神論者にとっても、解釈こそ違え、納得のいく結論なのではないか。監督や脚本家が実際に何を意図したのかはわからないが、この多義的意味を持つ台詞はなかなか上手いと思った。
そしてまた、エクソシストの持つ意味を考えたとき、日本の状況にも目を向けざるを得ない。自殺大国、ニッポン。
無神論者である日本人が悩める子羊になったとき、彼らを導く羊飼いは存在しない。すべてを押し付ける先の悪魔などは存在せず、頼るべき神も無く、すべては自分の過ちであり、自己責任であり、逃げ出す先などこの世には存在しない。
「戦いに備えよ」という呼びかけと共に、バチカンが広くエクソシストを募集し、養成講座を開いているというのは、おそらく事実なのだろう。しかし、その戦いとは、いったい何との戦いなのか。
もしかしたら、世界中で一番エクソシストを必要としている国は、日本なのかもしれない。
(C)2010 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC.
タイトルの“ライト”は light でも right でもなく、 rite 。つまり、“儀式”という意味だ。これは意味深。いつものことだが、日本語タイトルの付け方がよろしくない。
確かに、エクソシスト育成の物語だが、劇中でも出てくるように「首が180度回ったり、緑色のゲロを吐くと思ったら」大間違いだ。これはそんな映画ではないし、それを期待して見れば、必ず裏切られて低評価のレビューを書くことだろう。
それでは、どういう話かといえば、副題そのもの。“エクソシストの真実”。
以下、ネタばれ全開なのだけれど……。
見終わった後で、エクソシストとは何かと聞かれれば、ロールプレイによるカウンセリングであるというのが、自分なりの結論。
自我が拒否するような出来事に遭ったり、罪の意識に苛まれたりするとき、人は精神的に病んでしまい、幻覚を見たり、多重人格の中に逃げ込んでしまったりする。
これはオカルトではなく、科学的には精神科の領域なのだが、宗教心に篤い人や、あるいは精神科に拒否反応を示す人にとっては、それはまさしく悪魔の仕業である。
それを非科学的だと否定するのではなく、あるがままに受け入れ、患者の納得する形で戦いの演技を見せ付け、心の中の悪魔を昇華させる存在。それがエクソシストである。
ゆえに、キリスト教的悪魔(ベルゼブブ、リバイアサン、バールなど)はキリスト教を深く信仰する者にしか憑かず、キリスト教的エクソシストはキリスト教的悪魔としか戦わない。
おそらく、日本で同様なことが起これば、それは狐憑きだったり、怨霊の仕業だったりするのだろう。そして、それらと戦うのはエクソシストではなく、お坊さんだったり、陰陽師だったりするのだろう。
神の存在に疑問を持つ主人公が、信仰を取り戻す時に叫ぶ言葉。「俺は悪魔を信じる。ゆえに、神を信じる!」
この言葉は、キリスト教信者にとっても、無神論者にとっても、解釈こそ違え、納得のいく結論なのではないか。監督や脚本家が実際に何を意図したのかはわからないが、この多義的意味を持つ台詞はなかなか上手いと思った。
そしてまた、エクソシストの持つ意味を考えたとき、日本の状況にも目を向けざるを得ない。自殺大国、ニッポン。
無神論者である日本人が悩める子羊になったとき、彼らを導く羊飼いは存在しない。すべてを押し付ける先の悪魔などは存在せず、頼るべき神も無く、すべては自分の過ちであり、自己責任であり、逃げ出す先などこの世には存在しない。
「戦いに備えよ」という呼びかけと共に、バチカンが広くエクソシストを募集し、養成講座を開いているというのは、おそらく事実なのだろう。しかし、その戦いとは、いったい何との戦いなのか。
もしかしたら、世界中で一番エクソシストを必要としている国は、日本なのかもしれない。