『希望』 瀬名秀明 (ハヤカワ文庫 JA)
瀬名秀明の、なんと第一短編集。これまでのものは連作短編だったので、短編集にはカウントされないらしい。
これまで雑誌やアンソロジーに掲載された作品を集めた作品集なので既読が多い、というか既読だらけ。今回初見だったのは「魔法」と「静かな恋の物語」の2篇。この二つは前半に掲載されていて、後にいけばいくほど“濃く”なるという趣向の中では軽い方。いわゆる濃い方はSF専門誌に掲載されたものだったりするので、どうしても既読が多くなってしまう。
今回読み返してみて強く感じたのは、これらの濃い作品が持つ物語性が意外に再読に弱いということ。テーマ性や問題提起の部分はビンビン感じるのだが、それは以前に読んだときから感じているものであり、追体験に過ぎない。再読で初めてわかる深い部分みたいなものが、あまり感じられなかった。
いや、それはちょっと違うか。なんというか、初読の時よりもさらにわからなくなった感じ。前面に出てくるわかりやすい部分は知っている話なので新鮮味がなく、その奥の部分は再読でもさっぱりわからない。俺の読み方が悪いんですかね。通勤電車で寝ながら読んでいる時があるので、読み落としが多いことは否定しないけど。
はっきり言ってしまうと、テーマ性や文学性に凝りすぎて、物語の持つ力を失ってしまってるんじゃないかということ。
解説にも書かれているが、瀬名秀明といえば、デビュー作の『パラサイト・イヴ』がSFファン達に酷評されたことをきっかけに、ゲットー的に先鋭化したSF界から距離を置こうとした時期があった。クズSF論争、サイファイ論争にも巻き込まれていたはずだ。
それが今では、彼自身の作品が一般人を置き去りにして、先鋭化したSFファン、文学ファンにしか読み取れないようになっているんじゃないかと思う。
たとえば、「ロボ」なんてケンイチくんが何者なのかわからずに読んでも、さっぱり意味不明な物語のはずだ。いくらテーマが似合かよっているからといって、唐突にケンイチくんを持ってくる必要があったのか。このようなマニアだけにわかる小説をどう取るべきか?
さらに「鶫と鷚」は『サイエンス・イマジネーション』で言語、コミュニケーション、意識といった題材を科学的に討論したパネルのアンサー小説として書かれたものだ。これを知らずに、これだけ読んでテーマが分かるとは思えない。さらには、内容が暗喩に満ちていて、というより、暗喩しか無くて、物語を追おうとしても、まったくもって何が起こっているかわからない。
表面的な物語がわくわくするほどおもしろく、そこに秘められたテーマが浮かく考えさせられるほど興味深く、他の作品とのつながりを知っているとちょっと楽しい。瀬名秀明にそういった作品を期待するのは間違っているのだろうか。
帯に“文学と科学の境界線を越え、日本SFの最前線に立つ”とある。これは否定しないし、瀬名秀明は今やSF界にとって欠くことのできない存在である。しかし、SF界隈での評価が高ければ高いほど、これをSF初心者や、非SF読者がどう読むのかということが気になる。これは逆の意味でサイファイ論争を引き起こすトリガーになりうるのではないか。そういう作品を、“あの”瀬名英明が書いてしまうのはどうなんだろう。
振り子が振れるように、右へ行ったり、左へ行ったり。試行錯誤なのか、無意意識の反動なのか。この振り子がちょうどいいところで止まった時に、ものすごい名作が生まれるんじゃないかと思うんだけど、短編集にそれを期待するのは無理か。
「魔法」
マジックの“アラカザールの教え”という視点から、究極の義手は何かという科学技術的テーマをラブストーリーに変える魔法。この作品は割とバランスが取れているといえる。
アラカザールはこの作品で初めて知ったが、いいこと言うなぁと感心した。調べてみたら、『大魔法使いアラカザール マジックの秘密』という本は実在するらしい。今度読んでみようか。
「静かな恋の物語」
“恋に落ちる”という慣用的表現を重力という物理現象に直接重ね合わせてしまうという荒業。これは似非科学でよく使われる手法なのだけれど、短い短編にこのような連想クイズみたいなものがてんこ盛りになっている。こんなの、企業誌に書いて、どんな反応だったんだろう。
既読の作品の感想は、意図的に省略。手抜きじゃないよ。
瀬名秀明の、なんと第一短編集。これまでのものは連作短編だったので、短編集にはカウントされないらしい。
これまで雑誌やアンソロジーに掲載された作品を集めた作品集なので既読が多い、というか既読だらけ。今回初見だったのは「魔法」と「静かな恋の物語」の2篇。この二つは前半に掲載されていて、後にいけばいくほど“濃く”なるという趣向の中では軽い方。いわゆる濃い方はSF専門誌に掲載されたものだったりするので、どうしても既読が多くなってしまう。
今回読み返してみて強く感じたのは、これらの濃い作品が持つ物語性が意外に再読に弱いということ。テーマ性や問題提起の部分はビンビン感じるのだが、それは以前に読んだときから感じているものであり、追体験に過ぎない。再読で初めてわかる深い部分みたいなものが、あまり感じられなかった。
いや、それはちょっと違うか。なんというか、初読の時よりもさらにわからなくなった感じ。前面に出てくるわかりやすい部分は知っている話なので新鮮味がなく、その奥の部分は再読でもさっぱりわからない。俺の読み方が悪いんですかね。通勤電車で寝ながら読んでいる時があるので、読み落としが多いことは否定しないけど。
はっきり言ってしまうと、テーマ性や文学性に凝りすぎて、物語の持つ力を失ってしまってるんじゃないかということ。
解説にも書かれているが、瀬名秀明といえば、デビュー作の『パラサイト・イヴ』がSFファン達に酷評されたことをきっかけに、ゲットー的に先鋭化したSF界から距離を置こうとした時期があった。クズSF論争、サイファイ論争にも巻き込まれていたはずだ。
それが今では、彼自身の作品が一般人を置き去りにして、先鋭化したSFファン、文学ファンにしか読み取れないようになっているんじゃないかと思う。
たとえば、「ロボ」なんてケンイチくんが何者なのかわからずに読んでも、さっぱり意味不明な物語のはずだ。いくらテーマが似合かよっているからといって、唐突にケンイチくんを持ってくる必要があったのか。このようなマニアだけにわかる小説をどう取るべきか?
さらに「鶫と鷚」は『サイエンス・イマジネーション』で言語、コミュニケーション、意識といった題材を科学的に討論したパネルのアンサー小説として書かれたものだ。これを知らずに、これだけ読んでテーマが分かるとは思えない。さらには、内容が暗喩に満ちていて、というより、暗喩しか無くて、物語を追おうとしても、まったくもって何が起こっているかわからない。
表面的な物語がわくわくするほどおもしろく、そこに秘められたテーマが浮かく考えさせられるほど興味深く、他の作品とのつながりを知っているとちょっと楽しい。瀬名秀明にそういった作品を期待するのは間違っているのだろうか。
帯に“文学と科学の境界線を越え、日本SFの最前線に立つ”とある。これは否定しないし、瀬名秀明は今やSF界にとって欠くことのできない存在である。しかし、SF界隈での評価が高ければ高いほど、これをSF初心者や、非SF読者がどう読むのかということが気になる。これは逆の意味でサイファイ論争を引き起こすトリガーになりうるのではないか。そういう作品を、“あの”瀬名英明が書いてしまうのはどうなんだろう。
振り子が振れるように、右へ行ったり、左へ行ったり。試行錯誤なのか、無意意識の反動なのか。この振り子がちょうどいいところで止まった時に、ものすごい名作が生まれるんじゃないかと思うんだけど、短編集にそれを期待するのは無理か。
「魔法」
マジックの“アラカザールの教え”という視点から、究極の義手は何かという科学技術的テーマをラブストーリーに変える魔法。この作品は割とバランスが取れているといえる。
アラカザールはこの作品で初めて知ったが、いいこと言うなぁと感心した。調べてみたら、『大魔法使いアラカザール マジックの秘密』という本は実在するらしい。今度読んでみようか。
「静かな恋の物語」
“恋に落ちる”という慣用的表現を重力という物理現象に直接重ね合わせてしまうという荒業。これは似非科学でよく使われる手法なのだけれど、短い短編にこのような連想クイズみたいなものがてんこ盛りになっている。こんなの、企業誌に書いて、どんな反応だったんだろう。
既読の作品の感想は、意図的に省略。手抜きじゃないよ。