鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

変化を知る

2014年10月10日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 技術と技能は、同意語のような使い方をしているが、本来は異なる世界であり、違う物とした方が、理解しやすい。最近のスマホなどの電子機器の使用については、技術と技能とが混在していて、明確に区分することは難しくなっている。機体自身は技術の賜であり、それを操作することは技能の分野であるが、物作りという観点からすると、スマホで文章や写真撮影するなどが技能的と言われる範疇にはいるかも知れない。指の操作で変換キーを押すことや、画面をめくる操作は技能の分野といっても良い。

 技能は本来、生活に必要とする道具を使って、目的にあった物を作ることに重点を置いているが、繰り返しによって、作業を体に覚え込ませ、感覚を使って完成品に仕上げるようなイメージであるが、遮二無二区分することもないような職種も多い。この区分の話は各説があり、今回は深くは入らないが、社会の動勢にも影響して、職種間の併合や、陳腐化した技術や技能等の内容が変化していることは疑う余地はない。

 知識は一般的に言えば、体系的に教えることが教える側にとっても学ぶ側にとっても分かりやすく整理しやすい。易しい方から難しい方へ段階的に教えることになっている。しかし、学ぶ側の興味からすると必要な知識を習得すればよいが、個別指導ではないので、設定されたカリキュラムに従う方法を取っている。また、体系的に教えることは学力の平均化に役に立つが、必要でないことも教えることからすると、合理的ではないといえる。

 例えば因数分解を苦労して学んでも、一生の内でどれだけ必要で、何に応用できるかと言えば、知らなくても良いのかも知れない。だが、初心者が自分の将来を見据えて何が必要かの選択は不可能であり、因数分解も人生を歩んだ結果として分かるもので、あてがい扶持の公的教育が必ずしも悪いわけではない。

 電子機器の登場は、従来の生活を大幅に変化させた革命的存在である。パソコンや、タブレット端末などのインターネットが知識の疑問を取り去り、検索キーを押すことによって、豊富な世界へ導いてくれる。これだけでも従来の教育方法では限界があった事柄に対し、教師の代役を果たしてくれている。教える側、学ぶ側双方において、学習の仕方が変わるのは当然であろう。

 コンピュータを利用して、自学自習が出来る教材もあり、導入当初は、回答を一つに絞る、いわゆるシーケンシャルな問題解決ツールとして考えられたが、これでは限界もあるので、応用力が付きにくい。最近は人工知能が導入され、難解な事象についても、初期条件を変えれば、それに応じた広がりを持った考え方などに行き着くし、多機能化している。

 蓄積されたデータを検索し、必要な内容に行き着くにはそれなりの努力がいるが、若い内から、どうすればそこにたどり着けるのか、何不自由のない生活の中からハングリー性を求め、努力や挑戦を行う原動力の機会(インセンティブ)は何であるのか、それぞれの時代が求める生き方を発見することの困難性を誰がどう教授するのか等、憂いは常につきまとう。