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近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

瀧廉太郎と暘谷城

2015年04月02日 00時00分01秒 | 旅行

 荒城の月で有名な瀧廉太郎は明治12年東京で生まれ、23歳10ヶ月の若さで逝去するが、遺骨は、大分市の万寿寺に葬られたが、平成23年に、瀧家の墓所がある大分県速見郡日出町の龍泉寺に移設されている。

 

 瀧廉太郎の一族は、11代、260年に亘って、日出藩に仕えている。日出藩は、関ヶ原合戦後の慶長6年(1601年)、豊臣秀吉の正室ねねの甥に当たる木下信俊に日出藩を与え、築いた日出城を中心とした城下町を形成していた。既に城は取り壊され、城跡となっていて現在は小学校がその地にある。城は別名暘谷(ようこく)城といっていた。

 

 瀧廉太郎の一族が日出藩に対して行った貢献については割愛するが、廉太郎の父の生家が暘谷城内にあったことは生家跡があるので間違えないことである。瀧廉太郎が、父親の生家や、墓所へ参ったのは自然であり、暘谷城についても当然知っていたと思われる(日出の人 楽聖 瀧廉太郎パンフレットより引用)。

 

 竹田市にある岡城趾が、荒城の月の舞台であったと記憶しているが、日出町のガイドマップを見ると、日出町にゆかりがあるとしている。父親の吉弘は役人で、大分郡の郡長や、直入郡長を務めていた、廉太郎は竹田市から東京音楽学校に入学した。そうであれば、岡城趾に廉太郎の銅像が建っているのも納得がいく。日出町が町おこしのために瀧廉太郎と暘谷城とを結びつけることについての明確な証拠はない。暘谷城との関連は岡城趾とダブルところはあっても、既に無くなってしまった本人、瀧廉太郎の作曲に至る世界が再現できるわけではない。

 

 日出町観光協会が今後、十分な根拠となる史実を明確にされることを望んでいるが、喩え、想像の世界と断ったとしても、紙面に表示されると真実ぽくなって、一人歩きしやすい。

 

 日出町とフランシスコザビエルとの関係は、当時、山口にいたザビエルが、大友宗麟の招きで暘谷城近くの青柳港から大分に向かった記録がある。馬上金山の採掘で財を成した成清博愛の愛妾宅が暘谷城内にある的山荘である。歴史の真実は闇であるが、日出町には歴史研究の対象としておもしろい場所である。