カメラの直ぐ近くの枝に止まりました。
五輪組織委員会における責任の取り方が問われている。政府から特命を受けて開設されたプロジェクトであり、政策を実行していくためには、専門家の知恵を借りる外注、すなわち、多くの委員会がある。協議会、審議会、検討委員会、作成委員会等、名称は異なっても、目的に応じ、部外者が入って構成する委員により、設置期間中に一定の成果を期待する俄(にわか)組織である。
主催者は候補者を予め、選定し、所属先に対して委員の推薦を依頼する。ご指名を含めて、文章での 依頼である。委員会をサポートするのは事務局で、数回の委員会開催で一定の結論を出し、報告書等成果に纏められて、目的等の任務を果たすことになる。一定期限内での開催で期限を持ち、委員は外部からの調達であるため、主催者との別途契約である。不祥事の責任は、委員から選出された座長が総てを持つわけではない。委員会構成メンバー全員であるといえるかも知れない。
今回のエンブレム問題では、投票を集計して決めたようであるが、賛成投票を入れた委員に責任を押しつけるわけにはいかず、委員会に責任があるとまではいえなくなる。では委員選定に問題の根源があるとして良いかも適切ではない。常に責任者を絞ることが出来ないのである。多数決が持つ隘路であろう。委員会の位置づけは、既に事務局が持つ結論に誘導するための方策の結論ありきで、その正当性を補強する、又は権威づける手段でもある。多くの専門家が同意した形が大事なのである。
そもそも委員会等のプロジェクトは責任者の所在を明確にすることではなく、合意形成の手段であり、そうしてきたのは、無責任体制としての意識は薄く、責任体制という意識すらないのが普通であろう。
集団による意志決定は村社会がベースにあり、村の長をトップとした集団が形成されたと捉えると、運命共同体として、派閥そのものの流れを汲む。長(おさ)に対しては絶対服従であり、村内のトラブルはその解決を一任され、村八分以外は手打ちで終わる。トラブル当事者間に立ち入り、和解への方向を導き、当事者双方が傷を負わない形で治めるのである。すなわち、責任の有無に対しての判断に馴染まない、異論を遠避け、組織の分裂を防ぐことに意味があり、責任の不明瞭さを孕んでいる。
組織体の基本は村社会と同類であり、不祥事発生後の意志決定には同じ轍を踏む。長老と呼ばれるご意見役は、対外的に監事なり、顧問が担当するが、組織の中枢ではなく、責任者の立場ではない。欧米のような訴訟社会ではないため、トラブル解決に対して弁護士が当たることは常態ではなかった。あっても稀である。このことを善としてきた慣習が今のネット社会で通じるかどうかは微妙である。何事も白黒でしか判断出来ない社会が、必ずしも快適で、最適であるとはいえない。(このシリーズ最終回です)