池はそれほど大きくはなく、蓮田を含めてもたいしたことはありません。盆地となっていて、多分いくつかの細い河川から水が流れ込むのでしょう。干上がることはないようです。
幕の開閉が一連の物事の開始・終結の合図として、因みに幕が上がるは開始、多分、緞帳をイメージすればよい。終わりは幕を落とすや幕を引くとなる。新国立競技場の整備計画は白紙撤回されたことに伴う引責辞任の表明があった。事務次官は辞職、文科大臣は首相へ辞意表明を示したが、来月上旬内閣改造が行われる予定であるため、その間の大臣空白は好ましくないとして、内閣改造時点で退任となった。曖昧ですっきりしない幕引きである。整備主体の日本スポーツ振興センター(JSC)理事長についても10月の人事で交代となる。
結果は組織的に考えれば、両組織のトップが辞任や交代で首のすげ替えである。トップの下には多くの実務担当者がいて、幸いか不幸か、本人にとって見れば幸いになるのであろうが、責任が及ばなかった。不幸は国民の税金を無駄にしたことである。何度も申し上げてきたが、組織の業務はトップダウンではなく、ボツムアップである。トップはどのようなルートで就任したかは定かではないが、どなたが行ってもさほど害は発生しない。問題となるのは、表面には出ない実務担当者であり、新たなプロジェクトが新体制で刷新されることになり、どこまでのレベルを慰留させるかは判断の分かれるところである。
つまり、それらしき大臣が内閣総理大臣のご指名で担当となり、JSCについてもほぼ後任者が決まっているようである。しかし、有識者会議メンバー、実務担当者はお咎め無しのようで、その理由は、組織的な非違行為や義務履行違反があったのではないとされている。新体制の陣容によって、事業の成功や失敗が決まるのではないことに注意がいる。小手先の刷新案で本質的な問題が改善されるのではなく、同様な失態を繰り返すことになる。トップを交代しただけで組織が変わると思うのは早計である。
有識者メンバーの責任のなすり合いは我が身の保身に始終する見苦しい態度を見せつけた。この程度の人材しか我が国には居ないのか、全くお話にならない。組織は自浄能力がないのは分かっているが、監事役や担当理事までもが責任を取らない組織とは一体何なのか、それこそ業務放棄に他ならず、全く持って腹立たしい。報道は表面の出来事のみを伝えればよいが、刷新案に盛込まれるべきである、公募や透明性は単なる絵空事のようである。検証委員会なる存在も国民に納得させるにはほど遠い隔靴掻痒の感がし、踏み込んだ内容とはなっていない。行政の失敗は情け無いの一言に尽きる。