訃報が突然舞い込んだ。それも大変仲が良かった大学時代の同期生である。同期生は100名程度卒業し、既に卒業後47年が経過したが、浪人も多かったので、73~69歳になっている。正確には分からないが鬼籍に入った同期生は、20名を下らないであろう。
急逝された友人は、関東在住の同期生を中心とした同期会の幹事であり、小生もその一人であったため、3名の幹事が落ち合って打ち合わせを行うこととしていた。訃報の連絡をくれた幹事の話では、何度か本人と連絡したが不在で、連絡を取ることが出来なかったと言い、ご家族と連絡が取れて、逝去したことを知ったと話していた。本人の体調が悪いことは昨年の幹事会(同期は10コースあり、各コースのお世話役である)でお会いした折りに知っていたが、今回亡くなったと知り、信じられない思いである。
本日、通夜が、ご自宅近くのセレモニーホールで行われることになっている。明日は荼毘に付され、告別式がある。既にご令室は十数年前に他界され、ご自宅の近くに住んでいる3人のご令嬢は嫁いでいるため、ご令室の死後は一人で生活されていた。所謂、独居老人ではあるが、設計の仕事は続けていて、ご長女と会社を切り盛りしていたし、地域の老人クラブの世話役として活動されていた。60代最後の年は、体調の変化も歴然であることは、自分も感じるのであるが、おそらく、他界されたご令室が呼び寄せたのであろう。
大学卒業後は、地元に進出した新日本製鐵の子会社に就職し、幹部候補生として早くから企業の中枢を歩み、中国への販路開拓に従事されていた。我が国の企業が中国へ進出する初期の段階で、現地の駐在との往復を重ねていた。独立したのはその後だったと思うが、多くは前任企業の仕事が多かったようである。自分も大学の恩師夫妻と女房とで、上海、蘇州を回る旅行の際に上海に立ち寄り、上海蟹を供する人気の現地料理屋で本人と歓談したことがあった。
本人は中国語が決して堪能ではなかったが、そこは良くした物で、日本語が分かる通訳を雇っていて、日常の細部に亘るまで兼務させていた。暫くしてから、大学の近くに料理屋を開店し、店はご令室が取りしきっていて、時々は調理場に立っていたが、もっぱら、毎日寄る我々等の飲み相手で同席して、店に寄ったお客との飲酒を楽しんでいたようである。亡くなった理由では、思い当たることとして、自分の会社と店の両方に携わっていたため、体力を使いすぎた嫌いもある。