我が国の組織が責任を曖昧にすることに関して、その原因を組織自身が生き残る結果であるとの考えを述べてきたが、組織は何故に回避の方向を探し、正当性を強調するのかであるが、考えられることは責任を認めることによって、組織の滅亡に繋がり、担当者は勿論のこと、上司からトップに至る関係者の多くが、生活の基盤や将来の人生へ影響するからである。組織イコール個人であり、家族を路頭に迷わす。再就職の道があればよいのであるが、突然降りかかる組織の改廃は、一個人ではどうしようもなく、組織に所属する総ての人に何らかのダメージを与える。一蓮托生、運命共同体といわれる所以である。
従って、責任の所在を不明確にし、誰も責任が取れない状況すれば、誰も傷つかずに済み、たこつぼ戦術を採り、頭上を通り過ぎるまで待つのである。姑息な手段かも知れないが、世間の風当たりを最小にし、風が吹き止むのを待つのである。
謝罪会見の通り相場ともいうべき文言に登場するのが、人災事故などで、自然災害を強調し、実際にそうだったかも知れない。「想定外であった」こと事を繰り返し、あたかも、原因は自然が起こした猛威を理由とすることである。巨大地震や、巨大津波は、将に1000年かそれ以上の周期であるので、想定外という言葉も適合するのであろう。
しかしながら、自然災害という区分に総てが当てはまるかといえばそうではなく、人災の部分は皆無とはいえない。自然災害においても、活断層の上に原発を設置することや、津波が襲う危険性のある場所に家屋を建てることは、自然災害に対して、それなりの可能性を考え、基準を作るなどの対策が求められる。突風や竜巻が起こることは、気象情報で分かっていても、その対策たるや、皆無に等しい。これは、職域範囲を守ることは正しいが、知り得た情報は関係機関等へ伝達する必要があると思う。
気象予報士においても、危険性を強調すればそれだけでよいのかも問題である。山道を走ると落石注意の危険情報を表示する看板が目にはいる。注意して進めても、落石事故が発生しないとはいえず、危険性が分かっている道路管理者は、何故にその対策を早急にしないのかよく分からない。事故が起こってから想定外であったとは申し開きにならないであろう。
事業を計画するときに、結果を想定出来ないからといって事業を止めるかといえばそうではない。エンブレムや新国立競技場との問題の性質は異なるが、責任者たる者は人事を尽くして天命を待つだけでは責任を全うすることにはならず、想定外を無くす努力が望まれる。