鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

養老講師の言葉から

2015年11月15日 00時00分01秒 | 緑陰随想

  戦後教育が、個性を大事にすること、自主性を尊重し、自分に適した生き方を模索するなどの教育方針を主体の確立に重きを置いてきたことへの副作用が、社会を顧みない利己的な人間を育む結果となっているとの危惧を述べられた。主体を表に出すことは、キリスト教や欧米の人の考え方に根付いている。

 

 束縛からの解放を自由という言葉で捉えてている。キリスト教徒ではないのでその感覚は分からなかったが、キリスト教では、人類を生まれながらに罪を持つ罪人としているため、悪いことをすれば教会で牧師の前で、懺悔を行い、許しを請う。許されれば、次の懺悔まで安泰であり、良くないことを行い、許しを請うことを繰り返す。つまり、教会という組織が、決める多くのべからず集に沿った生き方を強制されていることを示していて、教徒は常にストレスにさらされている。

 

 死に際して天国へ行くのか地獄に堕ちるのかの審判が下る。神の前に引き出されるのはいつの自分であろうか、認知症になり、何らかの原因で死亡しても、その時点での自分では神の前で話すことも出来ない。懺悔することも出来ないといわれていた。最後の時点でも告白が強要されれば、それは自由でも何でもない。死後も救われないのである。

 

 家庭では幼い頃から自分で選択をするようにし向けられる。レストランに行くと飲み物は何にしましょうか、紅茶ですか、コーヒーですか、ライスですかパンですか、肉の焼き加減は云々、質問攻めである。選択することが自由ならば、選択できる環境が自主性を育むならば、キリスト教徒は選択の達人となっている。社会不安もないはずである。我が国ではどうであろうか。食事の時は母親が体調を気遣って、いろいろ準備してくれる。子供は食べればよい。レストランへ行ってもセットメニューがほとんどで、高級料亭や、三つ星レストランのコースメニューはことさら注文しなくても良いし、接待を受ければ、相手に任す。寿司店でも店主のお任せで十分満足できる。ストレスが起きない世界である。

 

 あらゆるものが束縛されている世界は自由がほしくなる。束縛がない世界では自由そのものの言葉も空々しい。あえて自由という必要がないからである。周りの誰もが気遣ってくれれば、ストレスは掛からないし、選択をしなくても十分に満足できる世界であるからだ。自我の尊重は悪いことではないが、欧米のキリスト教をベースにした考え方や行動は我が国をむしばんでいるともいえそうである。集団あっての個であるここを強調されていた。