毎年この時期には喪中の葉書が届き、新年の挨拶を欠礼するというものだ。親族の逝去を知らせるが、差出人が奥様なり、ご子息から出された葉書は、手にとって、ドキッとする。周囲からの連絡もなく、疎遠にしている方が亡くなられたことに対し、胸にこみ上げる寂寥の念を禁じ得ず、唯、ご冥福を祈るばかりである。葬儀の形が変化してきているのは事実で、家族だけで済ませる場合も多くなったためか、訃報が届きにくくなった。
そろそろ年賀状の購入枚数を決めなければと思うが、年々減る傾向にある年賀の挨拶状の枚数は、仕方ないにしても、今年一年間の住所録の整理も手がける必要がある。つい最近、大学の同窓会から住所録を作るので、登録してある内容に変更があれば知らせて欲しいということで、その中に、所在不明者が相当数記載された印刷物が入っていた。物故となられた方が年々増えていて、自分も他人事ではないと思った次第である。
ご本人の逝去された後、残されたご家族が、同窓会への連絡までは気が回らないし、それどころではないであろう。組織に所属していれば、組織の方で手を打ってくれるが、退職し、年金生活者においては、自らが生前に残された方へメッセージとして行うことが良いし、準備されることの一つでもある。
年に一度ぐらい、知人等へ自らの現状を伝える機会が年賀状といえる。年賀状に変わる電子メールも便利で良いのではあるが、電子媒体は味気ない気もする。以前は、干支の画像を木版刷りしていたこともある。ここ数年は、パソコンで吉語を選び、ソフトを使って住所も差し込み印刷をしている。以前のように手間をかけないで作成すること自体、手作り感が喪失する。せめて、自筆で一言添えると良いのであるが、年々億劫になっている。
郵政行政における年賀状の存在は、今や、民間企業の一つとなり、販売実績が低下してきている。様々なデザインが加えられた年賀状もあり、自宅で印刷可能なインクジェット用用紙が殆どである。年賀状を頂いたときの感激は、相手も同様であるので、年末に作成し、投函しなければ元旦には届かない。年賀状の作成は、年末の多忙な時期に集中する。現職の時の多忙さはなくなったが、今年は少し早めから取りかかろうと思っている。