gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

医学部がない  

2025-02-18 20:52:33 | 文化

>ダイヤモンド・オンライン   >アメリカの大学に「医学部」がない意外な理由   >和田秀樹によるストーリー・   >17時間・   

>日本では、医学の知識は豊富でも、人格には疑問符がつくような医者がどんどん輩出されていると指摘するのは、精神科医の和田秀樹氏だ。   

>日本の医学生は医学以外のことに興味を持たず、新任教授の選び方も忖度だらけ。   

 

そうですね。   

 

>一方のアメリカでは入試システムから日本とは異なり、いい医師を養成し学問を発展させようという意識が段違いに高いのだという。   

>本稿は、和田秀樹『ヤバい医者のつくられ方』(扶桑社)の一部を抜粋・編集したものです。   

>優秀な人ほど教授になれない!? 日本の大学の理不尽すぎる現実   

> 学問とは発展していくのが当たり前だという考えのアメリカの大学では、新たな教授を選ぶことも既存の教授陣に任せたりはしません。   

> 新しい教授の人選を担当するのは、「ディーン(dean)」という肩書の人です。   

> 比較的、若い人がつくことが多いディーンには優秀な教授を他の医学部からスカウトしてくる職務もあります。   

 

アメリカでは医学部ではなくてメディカル・スクール (医科大学院) でしょうね。   

 

> アメリカという国は名より実を取る傾向が強いので、その大学が信用できるかどうかは、どれだけ優秀な教授がいるかで評価します。   

>優秀な教授が多いという評判が立つと、ますます優秀な教授が集まるようになり、どんどん大学の評価は上がります。   

> 逆に大した実績のない人を教授にして大学の評判を落とすようなことをすればディーンはクビになりますから、変な忖度も生まれようがありません。   

 

アッケラカンとした世界の中でドライに割り切る習慣が必要ですね。   

 

> 日本の場合、一部の私立大学を除く多くの大学は、既存の教授が新しい教授を選ぶというシステムが取られているので、優秀すぎる人はなかなか教授に選ばれないという風潮があります。   

 

日本は序列社会ですからね。出世は序列昇進の方法しか考えられませんね。自己の昇進は自己の主導で行うという発想がありませんね。     

 

>自分より優秀だとわかりきっている人を新たに教授にすると、自分の影が薄くなってもう威張れなくなるのがよほど嫌なのでしょう。   

 

日本人には世界観がない。だから、料簡が狭いですね。   

 

> テレビでも活躍されていた考古学者の吉村作治氏は、数多くの発見をして、論文もたくさん書かれていたのに、早稲田大学でなかなか教授になれなかったのは有名な話です。  

 

序列社会の切なさですね。   

 

>長く助教授として過ごすことになったのは、人気が高かったことをほかの教授たちに妬まれていたからではないかと言われています。   

 

話が小さいですね。   

 

> 世の中の人たちが性善説で語りがちな大学教授の中には、このように私欲だけで動いているとしか思えない人たちがたくさんいます。   

> そして、入試面接や教授選がこんな人たちに都合のいいかたちで遂行される限り、日本の大学はこのまま弱体化していく一方だと思います。   

 

そうですね。天罰覿面ですね。   

 

>なぜ医学生は医学以外に興味を持てないのか?   

> 大学の医学部で医者になるための知識や技術を学んだあと、医師国家試験に合格すれば、その後、臨床研修が義務付けられてはいるものの、形式的には医者になれます。   

> ただし、大学の医学部の授業で教わるようなことだけを学んでおけばいいわけではなく、一人前の医者になるためには、それ以外にも知っておくべき知識がもちろんあります。   

> そのうちの1つが、医療保険の制度がどうなっているかとか、医療費をどうやって抑えていくのかといった医療経済についての知識です。   

> 実は私は東京医科歯科大学と一橋大学の合同授業で、毎年のように総合診療が医療費抑制にどう貢献できるのかを医者の立場から学生たちに教えています。   

>こういうテーマは医学部の授業ではほとんど扱われないので、東京医科歯科大学からの申し出で一橋大学との合同授業を設けるようになったのです。   

>ほかにも審議会で医療政策に関わっているような人など錚々たる面々が講師として集まっていて、とても充実した内容だと思います。   

> ところがこの授業を聞きにくるのは看護学を専攻している学生や保健衛生学科の学生だけで、医者の卵である医学部医学科の学生はただの1人もいない年がほとんどです。   

> 最初の頃の授業は一橋の都心部のキャンパスだったので、もしかすると医学部のほかの授業と時間が重なってしまったのではないかという話になり、会場を東京医科歯科大学にしたり、授業の開始時間を18時半にしたりという配慮をして改めて仕切り直したのですが、結果は同じでした。   

> 医学部の学生は医学以外には全く興味がないのか、まともな医者になる気はないのか、と腹立たしく思ったりもするのですが、彼らはもしかすると医学を学ぶことに精いっぱいで、医者になるのに役立ちそうなことを幅広く学ぼうという意欲や余裕を持てずにいるのかもしれません。   

 

それもあるでしょうね。   

 

>アメリカの大学には基本的に医学部がない   

> 意外に知られていませんが、アメリカの大学には基本的に医学部はありません。   

 

アメリカには高校卒業生を入学させて医者に仕立てる発想がないですね。   

 

> 医者になりたい人は、大学を卒業したあとに日本でいうところの大学院にあたるメディカルスクールで学びます。   

 

そうですね。大学院は高度な職業人を養成するところですから、大学の卒業生を入学させていますね。      

 

>そこで4年間の課程を修めるとM.D.(編集部注/Medical Doctor)の学位を得ることができ、そのうえでUSMLEUnited States Medical Licensing Examination)という米国医師免許試験を受けて合格すれば医師になれます。   

> また、メディカルスクールで学ぶにあたって基本的には大学での専攻は問われないので、例えば演劇を大学で学んだあとに、医者を目指すということもできます。   

 

そうですね。   

 

> 日本の場合も、裁判官や検察官、弁護士になるのに必要な知識や能力を培うロースクール(法科大学院)は法学部出身でなくても進学することができますが、アメリカのメディカルスクールはそれと似たようなシステムになっているわけです。

 

そうですね。大学院は高度な職業人を養成するところだからですね。高校卒業生を入学させている日本の医学部は医学高等専門学校の方に近いですね。      

 

> つまり、18歳でいきなり医者になる道に入ることは原則的になく、4年制大学においてそれなりの教養を身に付け、精神的にもある程度、自立した人間だけを医者になるスタートラインに立たせるというのがアメリカのやり方です。   

>逆にいうとそれだけの経験を重ねたあとに、医者になろうという決断ができるわけです。   

 

子供には現実 (事実) ばかりがあって非現実(哲学・考え) がない。

英米流の高等教育は子供に哲学を獲得させるための教育である。

英米流の高等教育は子供を大人にする為の教育である。

子供が思春期になって、言語能力が飛躍的に増大するのを待って高等教育が行われる。

 

哲学は非現実 (考え) の内容であるから、思考を停止している日本人には縁がない。

日本語は現実の内容だけを話す言語である。写生画の言語であるとも言われている。   

日本式の判断だと見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。   

だから現実の言葉 (日本語) を話す人が非現実を語る学習をすると常に失敗する。   

嘘ばかりついていては学習に力が入らない。だからわが国は英米流の高等教育の導入に失敗した。何処の国も日本に我が子の高等教育の成果を期待する者はいない。  

 

> 多くは高校を卒業したばかりで、あらゆる意味でまだ未熟な受験生の「医者としての適性」を教育する側が判断し、それがないと決めつけた場合にはその道を閉ざしてしまう日本とは全く違います。   

 

そうですね。医療 (医学) は科学的である必要が在りますね。科学は科学哲学ですから、無哲学・能天気の人には適当でないですね。      

 

> また、アメリカのメディカルスクールの授業料はかなり高額ですが、それに見合うだけの充実したプログラムが組まれています。   

>いい医師を養成しようという本気度は日米で雲泥の差   

> もちろんプロフェッサー(教授)は、指導力の高さで選ばれているので授業の質も極めて高く、その点においても、まともな指導もできないのに教授を名乗っている人間がゴロゴロいる日本とは大違いです。   

> 指導される側の学生たちもみな自立した年齢で、しかもたまたま頭がよかったからそこに来ているというわけではなく、本気で医者になりたいと思っている人ばかりなので、いい加減な授業をしたり、教え方が下手だったりするプロフェッサーは学生たちに低評価を喰らい、クビになります。   

>これも教授に歯向かいそうな人間を入試面接ではじいている日本では考えられないことです。   

 

批判はいつの世にも必要ですね。   

 

> さらに言うと、日本での臨床研修はいい加減な指導医のもとでたったの2年ですが、アメリカでは4年もあります。   

> つまり、どこを比べても、いい医師を養成しようという本気度に日本とアメリカとでは雲泥の差があるのです。   

 

そうですね。日本人にはあるべき姿の内容というものが無い。我々日本人は無哲学・能天気ではいられませんね。      

 

> 日本の大学の医学部は、実質的に医者になるための「職業教育」の場と考えられています。   

>だから、「医者としての適性」や「医者になりたいという高い志」があることが入学の条件になっていて、それを口実に入試面接が行われているわけです。   

> しかし、学問の自由は憲法でも保障されているので、当然、医学を学ぶ権利だって誰にでもあるはずです。   

>医者になりたい人にしかそれを学ばせないというのは、本来はあり得ないことではないでしょうか。   

 

そうですね。   

 

> また、医学部が医者の養成機関となっているせいで、医学部の学生たちは、医学そのものの勉強にばかり必死で、それ以外の勉強にはあまり熱心に取り組みません。   

>もしかするとそれが、医学の知識はあっても人格には疑問符がつくような医者がどんどん輩出される理由の1つではないかと私には感じられます。   

 

無哲学・能天気な人間は信頼できませんね。   

 

>医学部の改革の第一歩として入試面接から教授を排除すべき   

> もちろんアメリカとすべて同じシステムにする必要はないと思いますが、例えば大学の医学部もほかの学部と同様に4年間にして純粋な学問の場とし、本気で医者になりたいと思う学生だけがその先の大学院の医学部に進んで、そこでみっちり医者になるためのトレーニングをするというカリキュラムに変えるというやり方はどうでしょうか。

 

それは良いアイデアですね。善は急げですね。      

 

> これであれば、医学という学問がすべての人に開かれ、当然、入試面接をやる口実もなくなります。   

> アメリカのメディカルスクールと同様に大学院を4年にすれば、かなり充実したプログラムが組めるでしょう。   

>もちろん教授陣の質を上げることは絶対条件ですが、いい医者が育つ可能性は今よりずっと高くなると思います。   

> 医者を育てるための税金だって、主に大学院以降に投入されることになるでしょうから、大学卒業の時点で医者になる道を選ばなくても、誰に文句を言われることもありません。   

> そうなると、大学院の入試に面接を課そうという話になるとは思いますが、この時点であれば「本気で医者になりたいのか」を問うてもいいかもしれません。    

> ただし、「医者としての適性」はその後のプログラムで変わる可能性は十分あるので、それを入学の条件にすることに賛成はできません。   

> もちろん面接官を教授が務めるというのでは、現在の入試面接の弊害が残されたままなのでこれは何としても阻止すべきです。   

> そうはいってもおそらく既存の教授たちはなりふり構わず反対してくるでしょう。   

> 医学部のカリキュラムを変更するより、入試面接から教授を追い出すことのほうがずっと難しいことなのかもしれません。   

 

私の会ったアメリカの新入医学生は入学試験の時、試験官が自宅に訪ねて来て、朝から晩まで生活状態を見ていたそうです。試験官は個人の生活背景も知りたがっているようですね。      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


神社参拝  

2025-02-17 02:35:37 | 文化

>現代ビジネス   >政治家の「神社参拝」は軍国主義的なのか…「レッテル貼り」がもたらす「思わぬ落とし穴」   >辻田真佐憲 (文筆家・近現代史研究者) の意見・   >18時間・   

()

>にぎやかな靖国と厳粛な靖国   

>これまで述べてきた靖国自体も、「下からの参加」がみられた空間だった。   

>創建されたばかりの靖国神社は知名度もなく、ひともまばらだった。   

>それが、日清戦争や日露戦争で戦没者が増えたことで注目が集まり、徐々ににぎやかな場所に変わっていった。   

>文筆家の坪内祐三は、『靖国』でその様子を詳述している。   

>靖国神社(招魂社)の境内では早くも明治四(引用者註、1871)年10月にフランスのスリエ曲馬団が興行している。   

>(中略)サーカスが靖国神社の境内に再び登場するのは、明治20(引用者註、1887)年115日から25日にかけてのイタリアのチャリネ曲馬団来日興行だった。   

>そして明治340年代に入ると、サーカスは、日本チャリネや大竹娘曲馬団などの日本人一座によって、靖国神社の例大祭の名物となってゆく。   

>驚くべきことに、靖国神社の境内ではかつてはサーカスが名物だったのだ。    

>それが厳粛な空間となるのは、1930年代後半、日中戦争の長期化により戦死者が急増してからだった。   

>これに限らず、戦前のイメージは1930年代後半以降の総力戦体制下に引きずられていることが多い。   

>だが、戦前も77年あった以上(※執筆時は2022年)、多種多様だったことも忘れてはならない。   

>靖国神社で毎年7月に催される「みたままつり」は戦後にはじまったものではあるけれども、往時のにぎやかさをほうふつとさせるものがある。    

>大小3万もの献灯が光り輝き、浴衣姿の男女で溢れかえって、あちこちで自撮りが行われている。   

2010年代後半の一時期、ナンパが横行して屋台が中止されたことまであった。   

>にぎやかな靖国と厳粛な靖国。   

>どちらを本体と考えるかは一概にはいえないものの、815日の終戦記念日に行われている軍服コスプレ集団による行進も、あるいは先祖返りの一面もあるかもしれない。   

>「神社参拝」は軍国主義的なのか?   

>こうした「下からの参加」の痕跡はあちこちに残っている。   

>神社の境内に立つ忠魂碑や顕彰碑のたぐいがそうだ。   

>それ以外にも、社号標が著名な文化人の揮毫(きごう)だったり、鳥居が町内会の献納だったりする。   

>最後に、それに関係する最近のできごとに触れておきたい。   

2023(令和5)年の元旦、立憲民主党の泉健太代表(※当時)が、東京の乃木神社に参拝したとツイッターで公表したところ、左派系のアカウントから批判が殺到した。   

>戦前の軍国主義を象徴する乃木を崇めるのは、日本国憲法に立脚しようとする、リベラル政党の代表としていかがなものかというわけだ。   

>さきほども述べたように、乃木希典は明治天皇に殉死した陸軍軍人であり、忠君愛国のシンボルだった。   

>そのような古めかしい存在に違和感を覚えるひとも多いだろう。   

>とはいえ、ただ乃木神社を参拝しただけで、祭神を礼賛したわけでもないのに、戦前回帰を望む軍国主義者のようなレッテル張りをするのはいただけない。   

 

そうですね。レッテル張りは歌詠みのようなもので意味がない。日本人の歌は文になっていないから意味がない。正しさもなければ、間違いもない。      

 

>というのも、こんなことをやりだすと、今後あらゆる政治家のブログなどをさかのぼって、その初詣をやり玉にあげるという不毛な流れになりかねないからである。   

>たとえば、日本共産党の小池晃書記局長は過去に、東京品川の鹿嶋神社への参拝を公表している。   

>その祭神はタケミカズチだ。   

>つまり、アマテラスの意を受けて、オオクニヌシに国譲りを迫った武神である。   

>これも国体思想の賛美で、平和主義に反すると責めるのだろうか。   

>また、筆者が同社におもむいて調べたところ、社号標は皇紀2600年に立てられたもので、ジャーナリストで歴史家の徳富蘇峰が揮毫していた。   

>蘇峰は戦時中、大日本言論報国会や日本文学報国会の会長を兼ねた。   

>これも軍国主義的だと叩くのだろうか。   

>これまでみてきたように、神社は戦前と深く関わっている。   

>そしてそこに立つ記念碑や顕彰碑は数しれない。   

>そんなものをいちいち精査しはじめると、ほとんどどこの神社にも参拝できなくなってしまう。   

 

レッテル張りは不便なものですね。日本人の社会は風評の世界ですね。人々の判断に根拠がない。盲目の判断と言うことになる。       

 

>歴史はわれわれの日常に複雑に絡み合っているのであって、まるで外科手術で癌細胞を取り除くように、都合よく切り離せるものではない。   

>多少、不愉快で同意できないものがあったとしても、適度に妥協しながら付き合っていくことが求められる。   

 

日本人はつかみどころのない人間ですね。   

 

>本書の解説も、そのような適切な付き合いに資すればと考えている。   

>一部分だけ切り出して、「戦前、戦前」と騒いでも意味がない。   

 

そうですね。意味がなくても力を入れる。それが日本人の残念な所です。浅薄そのものです。        

 

>問題なのは、祖先より代々という物語でわれわれを戦争に駆り立てることなのである。   

 

そうですね。付和雷同による災難ですね。[付和雷同: 一定の見識も無く、ひたすら他人の説に賛成すること]

 

()  

 

日本人には現実 (事実) があって、非現実 (考え・哲学) がない。それは日本語が写生画の言葉だからである。       

世界観は非現実の内容である。人は相手の世界観を理解してその人を信用する。世界観の無い日本人は信用されない。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)  

 

子供には現実 (事実) ばかりがあって非現実(哲学・考え) がない。

英米流の高等教育は子供に哲学を獲得させるための教育である。

英米流の高等教育は子供を大人にする為の教育である。

子供が思春期になって、言語能力が飛躍的に増大するのを待って高等教育が行われる。

 

英語の文法には時制 (tense) というものがあって独立した非現実の三世界を表現することができる。

未来時制の文を使えば自己の意思を表すこともできるようになる。    

意思を表すと加害者意識も経験することになる。

それが高じて罪の意識も理解できるようになる。罪の告白も可能になる。   

深い反省にも陥ることもあるので原因の究明が行われる。     

事故の原因究明がうやむやにはならない。

 

魂の救済を必要とする人も出て来る。   

贖罪のための宗教 (キリスト教) も重要になる。   

こうしたことで浅薄な人間が思慮深い人間に変身する。   

だからどこの国でも高等教育に力を入れることになる。   

 

哲学は非現実 (考え) の内容であるから、思考を停止している日本人には縁がない。

日本語は現実の内容だけを話す言語である。   

日本式の判断だと見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。   

だから現実の言葉 (日本語) を話す人が非現実を語る学習をすると常に失敗する。   

嘘ばかりついていては学習に力が入らない。だからわが国は英米流の高等教育の導入に失敗した。何処の国も日本に我が子の高等教育の成果を期待する者はいない。  

 

今の地球はアングロ・サクソンの支配体制にある。哲学が相手を引き付けて人々の尊敬を得る。アフリカ系米国人はアメリカの大統領になった。インド系英国人は英国の首相になっていた。これらは高等教育の賜物である。インド人は印欧語族であるからアングロ・サクソンと相性が良い。   

 

当の日本人の若者はいまなお序列競争にうつつを抜かしていて、教育内容の吟味などする余地はない。   

難関出身者が序列社会で優位に立つ話ばかりを気にしている。

世界に対する注意力不足で井の中の蛙になっていて、国際取引で印欧語族を取引相手にして苦戦を強いられることになる。     

「中国は悪だが、日本はもっと邪悪だ、中国にダンピングや過剰生産の方法を教えたのは日本だ」「日本は1945年から何も学んでない。米国がいかに優れていて、寛大なのか、分かっていない」 (クリフス社のゴンカルベスCEO)   

日本人には現実があって非現実がない。日本人の教育は戦前戦後を通じて実学 (技術) があって、虚学?(哲学)がない。だから‘あるべき姿’を追求する学問がないので高尚な議論が出来ない。欲得ずくのかけひきしか考えていない。それで日本人は相手からの信用が得られない。  

日本人には意思がない。だから加害者意識も無く、罪の意識もない。在るのは被害者意識だけである。天真爛漫としていて、自分自身が邪悪などとても信じられない。だから子供じみている。  

 

 

 

 


シンプルなスキル  

2025-02-15 22:38:26 | 文化

>現代ビジネス   >学歴がなくても社会で勝ち抜いていける「シンプルなスキル」森永卓郎さんの最後の言葉   >森永卓郎 (経済アナリスト・獨協大学経済学部教授) の意見・  >14時間・   

>今年128日、経済アナリストの森永卓郎氏が死去した。   

>原発不明がんと闘いながらも、亡くなる直前までメディアに出演し続け、世界経済の行方に多くの警鐘を鳴らしてきた。   

>「AIバブルは崩壊する…」「日経平均はこれから大暴落する…」   

>彼がこう語った背景には一体何があるのか。   

>そして残された私たちは、この先行き不透明な社会をどう乗り越えていくべきなのか。   

>激動の時代を生き抜くための戦略と覚悟とは。   

>森永卓郎氏と、息子の康平氏がいまの日本のさまざまな病巣についてガチンコで語り合った『この国でそれでも生きていく人たちへ』より一部抜粋・再編集してお届けする。   

>『この国でそれでも生きていく人たちへ』連載第6回   

>『「身分社会である日本」で「学歴が得られなかった人」に森永卓郎さんが最期に残していた「至極の金言」』より続く。   

>面接で逆転する方法   

>私のゼミで「ゼミ長」をやっていた学生が、大手電機メーカーの最終面接まで行ったことがある。   

>その会社は「技術力」「国際展開」「成長性」の3つが売りだったが、面接の最後に役員が、「志望動機を説明してほしい、ただし『技術力』『国際展開』『成長性』の3つ以外で」と質問した。   

>予想外の質問に混乱する学生が多い中、うちのゼミ長だけは瞬時に答えられたという。   

>結果、内定を得たのは彼だけだった。   

>彼が答えられたのは、普段からプレゼンのトレーニングを積んでいたおかげだろう。   

>私が勤務する獨協大学はいわゆる「Fラン大学」ではないが、早稲田や慶應といったエリート大学に比べると、就職活動におけるアドバンテージはさほど高くない。   

>エントリーシートで落とされることもよくある。   

>ただ、私のゼミの学生は、プレゼンのトレーニングを積んでいるので、面接まで持ち込めば高確率で内定を獲得できている。   

>こういうプレゼンのトレーニングは、エリート大学のカリキュラムにはないもの。   

>こういう分野を伸ばしていくことで、学歴の差を乗り越える一つの手段となる。   

 

我が国では、学歴は人間序列の物差しになっていますね。   

 

>就職だけじゃない、自由なキャリア   

>もう一つ、思うように学歴を得られなかった場合、大企業に入ってサラリーマンとして出世することを目指すより、さっさと起業してしまうのも一つの手だ。   

 

そうですね。人間序列の中では不利を被りますからね。   

 

>私が初めてゼミを受け持ったのは19年前だが、そのころの学生は上場企業への就職を目指すのが当たり前だった。   

>新卒で上場企業に就職できなかった学生も、ほとんどの場合、キャリアのどこかで上場企業に転職している。   

 

自主性がない。個性がない。上からの昇進、上からの賃上げ、上からの改革などですね。社畜の人生ですね。      

 

>ただ、この数年で学生の意識がガラっと変わった。   

>いまの若い世代は上場企業への就職より、学生のうちに起業することを目指す人が増えている。   

 

自主性のある学生ですね。個性的でもありますね。自己実現の道を目指していますね。      

 

>ちなみに私のゼミ出身者で一番稼いでいる学生は、学生時代にアメリカへ行って、そこでの経験をもとに、「1人で動画やCMを制作する」というビジネスを始めた。   

>企画、台本、キャスティング、撮影、編集、納品まで全部1人だから、CM1100万円といった格安料金で制作できるわけだ。   

>それがウケたのか、大量の注文が来て、学生時代からかなりの収益をあげていた。   

>本人が卒業式の前に「6000万円の仕事を受注した」と言ってきたほどだ。   

>ほか、私のゼミ出身者からは放送作家も出ている。   

>人気芸人の台本を書いていて、業界では将来大物になると言われているらしい。   

>ただ、テレビ業界では「森永卓郎の教え子」だとわかるとマイナスなので、本人は私のゼミ出身という経歴をひた隠しにしているそうだ(笑)。   

>いまの学生はどんどんチャレンジする   

>私のゼミに入ると、3年生の時に「最大のステージ」が待っている。   

>学生に持ち時間100分を与え、自分1人で授業をやるというものだ。   

>企画、構成、台本、全部1人でプロデュースし、見ている人を飽きさせずに100分間パフォーマンスをする。   

>テーマは何を選んでも構わない。   

>表現手法も完全な自由だ。   

>結局、クリエイティビティを鍛えるには、クリエイティビティを発揮する舞台を与えるのが一番だ。   

 

そうですね。   

 

>クリエイティブ能力を指導することはできないので、こういうことしかできないともいえる。   

>ただ、普通のエリート大学には、こういう舞台が用意されていない。   

>私のゼミは、それを用意しているのだ。   

>バリスタになって、コーヒーを全員に振る舞った学生もいた。   

>あまり焙煎していないフルーティーな浅焙りと言われるコーヒーがあるのだが、それを飲ませてくれた。   

>その学生はいま自分のコーヒーチェーンを立ち上げようと頑張っている。   

>もちろん、プレゼン能力やクリエイティブ能力を鍛えたからといって、社会ですぐにうまくいくとは限らない。   

>そもそも、起業したからといって、全員が成功するわけでもない。   

>結構な確率で失敗する。   

 

失敗を恐れてはいけない。失敗は成功の母である。Failure teaches success.        

 

>私の印象だと、ベンチャーをやってうまくいく確率は10人に1人ぐらいだが、いまの学生はそれでも次々にチャレンジしている。   

 

そうですね。自分の選んだ道には後悔がない。   

 

>時代が大きく変わろうとしているのかもしれない。   

 

そうですね。我が国も自主独立の時代になるのでしょうね。   

 

()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


移民国家  

2025-02-15 18:21:41 | 文化

>現代ビジネス   >すでに「移民国家」になりつつある日本、外国人労働者は地方を救うか   >河合雅司 (作家・ジャーナリスト) によるストーリー・   >9時間・   

>人口減少日本で何が起こるのか――。   

>多くの人がこの問題について、本当の意味で理解していない。   

>どう変わればいいのか、明確な答えを持っていない。   

 

そうですね。日本人は思考を停止している。無哲学・能天気では答えが出ない。     

 

100万部突破の『未来の年表』シリーズの『未来のドリル』は、コロナ禍が加速させた日本の少子化の実態をありありと描き出している。   

>この国の「社会の老化」はこんなにも進んでいた……。   

>(※本記事は『未来のドリル』から抜粋・編集したものです)   

 

それがどうしたという事ですね。   

 

>政府は在留資格「特定技能」まで創設した   

>外国人労働者を見ていこう。   

>政府や企業は人手不足対策として積極的に進めてきた。   

1995年をピークにして生産年齢人口が大きく減ってきたが、とりわけ若者の都会流出に悩む地方にとっては、外国人労働者は“救世主”であった。   

>日本は原則として移民を受け入れていない。   

>このため、政府は「外国人技能実習制度」(日本で技能を習得し母国に戻って活躍できるようにする制度)の趣旨を捻じ曲げ、同制度を隠れ蓑として実質的な単純労働者を増やし続けてきた。   

 

そうですね。政府の隠れ蓑ですね。      

 

>近年はさらに、勤労世代の人口が減ったこともあり、政府は各業界団体の強い要請を受ける形で、20194月に新たな在留資格「特定技能」まで創設した。

>当面の対象は建設や介護、農業など人手不足が深刻な14職種に絞ってはいるが、一定の日本語能力と技能を持つ技能実習生を「特定技能1号」として、これまで認めてこなかった単純労働に就労可能とする百八十度の政策転換であった。

>しかも「特定技能」は2段階方式であり、「特定技能1号」のうち難しい日本語と、建設、造船・舶用工業の2分野で熟練した技能を身に付けた人を「特定技能2号」として、定期的な審査はあるものの、家族の帯同を含めた事実上の永住権まで認めたのである。   

 

家族同伴の永住権は理想的ですね。嘘から出た実ですね。   

 

>政府は「特定技能1号」について、2023年度までに約345000人を受け入れることを想定している。   

>移民と極めて近い制度を設けてまで、外国人労働者の確保に躍起になってきたのである。   

>出入国在留管理庁によれば、2020年に日本に入国した外国人のうち、「技能実習」の83826人(前年比55.6%減)、「留学」は49748人(同59.1%減)であった。   

20194月に創設された「特定技能」だけは3197人増の3760人となった。   

>これについては制度初年にあたる前年が極度に低水準であったことが要因であり、「見かけ上」の急増だったに過ぎない。   

>出入国が難しくなり、数字の上では観光客と同様に外国人労働者についても激減したが、データを調べると意外な結果が表れる。   

>雇われた外国人労働者は増えているのだ。   

>コロナ禍の影響もあって増加率については13.6%増であった前年より9.6ポイントも低い4.0%増と伸び悩んだ。   

>しかしながら、厚労省の「外国人雇用状況」(202010月末現在)によれば、日本で働く外国人労働者は前年より65524人増の1724328人となった。   

2007年に届け出が義務化されて以降、過去最高を更新していたのである。   

>詳細を見ていくと、「宿泊業、飲食サービス業」は前年比1.8%減となり、2007年に届け出が義務化されてから初めてのマイナスとなった。   

>全体の28.0%を占める「製造業」も0.3%減で8年ぶりに前年を下回った。   

>その一方、「医療、福祉」(26.8%増)、「建設業」(19.0%増)など大幅増となった業種もあった。   

>コロナ禍の影響は産業によって大きな差があり、外国人労働者の雇用にも色濃く反映しているということだ。   

>在留資格別では、コロナで入国が困難になった影響で、前年には24.5%増だった「技能実習」が4.8%増にとどまった。   

>農業で作付けの繁忙期に技能実習生が間に合わず、例年の7割程度の作付けしかできなかったケースもあった。   

>コロナ禍で出入国が厳しくなったにもかかわらず、2020年の外国人労働者数が過去最高となった背景には、人口減少が進み社会全体としては人手不足が続いていることがある。   

>コロナ不況の影響が小さかった業種を中心に採用増加の流れが継続しているのだ。   

 

日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人]        

高等教育機関において自己の個人的な見解を明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。   

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)     

 

(略)

 

我が国には人手不足はあっても、頭脳不足は無い。

日本人は手足を使っても、頭は使わない。日本の産業構造において、この体制は不変である。だから、わが国の未来社会への発展は期待できない。    

外国にいる大勢の頭の良い人達をわが国に集めて知的な産業を盛り立てなくてはならないでしょう。   

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英文法にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。世界の指導者になれるでしょう。       

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

 

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。

「「権威主義」が悪の源でもなく、「民主主義」が混乱を生むものでもなく、それよりも、もっと根底にある日本人の習性である、「人」には従ったり(人を従えたり)、影響され(影響を与え)ても、「ルール」を設定したり、それに従う、という伝統がない社会であるということが、最も大きなガンになっているようである」 (中根千絵)    

 

日本人は氏名を正しく (?) 読むことができない。だから役所の書類にはフリガナ欄が設けてある。これをローマ字欄に換えるだけでも国語の改革になる。これは国の指導ですぐにでもできる国語改革である。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。能率の良い言語の習得には音読が欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。         

 '為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり'  上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)            

 

 


頭のいい人  

2025-02-15 11:49:31 | 文化

>日刊スポーツ   >堀江貴文氏「大学は頭のいい人がいく高等教育機関」―>「Fラン私大に入るやつに」私見提示   >日刊スポーツ新聞社によるストーリー・   >1日・   

>ホリエモンこと実業家の堀江貴文氏(52)が13日、X(旧ツイッター)を更新。

>大学受験について言及した。   

>前段で一般アカウントが「もちろん大学受験は通過点で『たかが』ではありますが、・知識 ・思考力 ・時間管理能力 ・メンタルコントロール ・SNSや友人との向き合い方 など総合力が必要。   

 

総合力は没個性の競争ですね。   

 

>それは一朝一夕に養えるものではありません。   

>貧相な語彙、浅薄な思考、想像力の欠如に傲慢さが加わると、下品になるんですね」と投稿。   

>その投稿に対し、堀江氏は「笑。俺半年くらい過去問中心にやったくらいで東大現役で受かったけど」と返信した。   

>さらに別の一般アカウントから「それは堀江さんの能力。   

>一般人はそんなもん 脳の使い方や元々の記憶力の違い 学生の時に記憶に止める程に学習している人達ではないので…」と指摘された。   

>堀江氏は「うん。   

>だからそんな奴が大学受験なんかしても意味ないよって話をしてる」と切り出した上で「大学は頭のいい人がいく高等教育機関なんだよ。   

 

子供には現実 (事実) ばかりがあって非現実(哲学・考え) がない。

英米流の高等教育は子供に哲学を獲得させるための教育である。

英米流の高等教育は子供を大人にする為の教育である。

子供が思春期になって、言語能力が飛躍的に増大するのを待って高等教育が行われる。

 

英語の文法には時制 (tense) というものがあって独立した非現実の三世界を表現することができる。

未来時制の文を使えば自己の意思を表すこともできるようになる。    

意思を表すと加害者意識も経験することになる。

それが高じて罪の意識も理解できるようになる。罪の告白も可能になる。   

深い反省にも陥ることもあるので原因の究明が行われる。     

事故の原因究明がうやむやにはならない。

 

魂の救済を必要とする人も出て来る。   

贖罪のための宗教 (キリスト教) も重要になる。   

こうしたことで浅薄な人間が思慮深い人間に変身する。   

だからどこの国でも高等教育に力を入れることになる。   

 

哲学は非現実 (考え) の内容であるから、思考を停止している日本人には縁がない。

日本語は現実の内容だけを話す言語である。   

日本式の判断だと見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。   

だから現実の言葉 (日本語) を話す人が非現実を語る学習をすると常に失敗する。   

嘘ばかりついていては学習に力が入らない。だからわが国は英米流の高等教育の導入に失敗した。何処の国も日本に我が子の高等教育の成果を期待する者はいない。  

 

今の地球はアングロ・サクソンの支配体制にある。哲学が相手を引き付けて人々の尊敬を得る。アフリカ系米国人はアメリカの大統領になった。インド系英国人は英国の首相になっていた。これらは高等教育の賜物である。インド人は印欧語族であるからアングロ・サクソンと相性が良い。   

 

当の日本人の若者はいまなお序列競争にうつつを抜かしていて、教育内容の吟味などする余地はない。   

難関出身者が序列社会で優位に立つ話ばかりを気にしている。

世界に対する注意力不足で井の中の蛙になっていて、国際取引で印欧語族を取引相手にして苦戦を強いられることになる。     

「中国は悪だが、日本はもっと邪悪だ、中国にダンピングや過剰生産の方法を教えたのは日本だ」「日本は1945年から何も学んでない。米国がいかに優れていて、寛大なのか、分かっていない」 (クリフス社のゴンカルベスCEO)   

日本人には現実があって非現実がない。日本人の教育は戦前戦後を通じて実学 (技術) があって、虚学?(哲学)がない。だから‘あるべき姿’を追求する学問がないので高尚な議論が出来ない。欲得ずくのかけひきしか考えていない。それで日本人は相手からの信用が得られない。  

日本人には意思がない。だから加害者意識も無く、罪の意識もない。在るのは被害者意識だけである。天真爛漫としていて、自分自身が邪悪などとても信じられない。だから子供じみている。  

 

ヒットラーは勝算を見込んで (理性判断) 戦争に突入した。

日本人は勝算を見込むことなく (盲目の判断) 戦争に突入した。

マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。  

‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。 

指導を受ける時期というのはどこでもそうですが、日本人は新しい模範とか新しい考え方を受け入れやすかった。あそこでは、基本になる考えを植え付けることができます。日本人は、まだ生まれたばかりの、柔軟で、新しい考え方を受け入れることができる状態に近かったのです。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて )  

マ元帥の発言はどの駐日大使のものよりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。だが、日本人は彼が考えるような知恵遅れの民族ではない。日本語文法には時制 (tense) というものが無いのである。待てど暮らせど非現実 (考え・哲学) を搭載する構文は日本人の口からは出て来ない。つまり自己の考えの内容が出て来ない。これが英米人の子供と違う所である。    

 

 () しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)     

なるほどこれでは日本の大人が子供子どもして見えてもしかたがないですね。わが国の学歴社会は序列社会の言い換えにすぎない。   

「うん、頭はいい。しかし本当に信頼できるかね」 (フランク・ギブニー

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)   

日本人の無哲学・能天気はついにバレたか。   

 

好きで 好きで大好きで 死ぬほど好きな戦でも 原爆投下にゃ勝てはせぬ 泣いて崩れた敗戦日 

残念ながらわが国は原爆開発においてアメリカに後れをとった。しかし本土決戦と一億総玉砕はまぬがれた。 めでたしめでたし。    

太平洋戦争初期に、フィリピンの米比軍はキング少将もジョーンズ少将も早々と投降して、75000人以上の将兵の命を救った。

太平洋戦争後期に、日本軍は米空軍の飛来をゆるして、1945年3月10日未明、東京の下町の江東地区がB29約300機による空襲をうけ、死者10万をこす被害を出した。

日本人の指導者には、作戦の成否を予測する力はなかったのか。

人の命はどのように考えられていたのか。 ‘ぬちだ宝’(いのちは宝)ではなかったか。  

 

ウクライナはソ連崩壊により核兵器を放棄した。しかし、プーチン大統領は非核国ウクライナに侵攻し核兵器使用をちらつかせて恫喝した。

これにより我が国の非核三原則に依拠した安全神話は消滅した。非核三原則とは 核兵器を「持たない、つくらない、持ち込ませない」の三原則を指すものと1967 (S42) 12月に佐藤栄作首相は説明した。日本人のお花畑はもうない。自分に都合の良い解釈ばかり続けていても相手には通じませんね。何事も相手との相談の上ですね。

「世界大戦を含むあらゆる戦争はすぐ終わらせられる。講和条約を結んだ場合、あるいは1945年の米国による広島と長崎への原爆投下と同じことをした場合だ」 (ロシアのメドベージェフ前大統領

‘ウクライナでの戦争の教訓は、抑止力によって未然に戦争を防ぐ方が、侵攻してきた敵を後退させることよりも遥かに望ましいということだ。’  (マシュー・ポッティンジャー) 

‘ロシアが力による現状変更を行っている国はG7(主要7カ国)では日本だけだ。北方領土だ。だから、ウクライナ問題で、ロシアを一番強く批判しなければいけないのは日本だ。’ (小野寺元防衛相     

 

日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答えを出せる人が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。自己の見解を示せば学位 (博士号など) が得られる。自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国は迷走し続けて、いつまでたっても何処にも到達しない。だから、若者にも夢と希望が無い。

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)    

 

>だから多額の税金が投入されてる。   

>頭のいい人をより活用することで国富が増すから。   

>大学に入らないといい会社に就職できないとか言ってFラン私大に入るやつに私学助成金が税金から支払われてるのは問題なのよ」と持論を展開した。   

 

大学進学ばかりが自己実現の道ではないでしょうね。これは序列国家の弊害いですかね。       

 

>堀江氏の投稿に対し「心にグサグサくる」「Fラン大学の存在意義自体謎」「ほんそれ」などと書き込まれていた。